切るだけがナイフじゃない
崖の上には人がいた。その姿は逆光によって黒い影としてしか見ることができない。
他人に会うのは、お爺が死んで以来だ。もうこの世界には自分しか人間が居ないだろうとすら思っていた。
「おゥい」
フミヒトは大きな声をあげた。数え切れないほどの時を孤独に過ごしてきた。この機会を逃したくはない。
人影が身じろぎをする。おゥい。確かな返事が返ってきた。自分の声とは違う、もっと柔らかくて高い声だ。嬉しくなって、手を大きく振る。
「やあ、初めましてー! 僕はフミヒト! 君はー!?」
あんまり息を大きく吐き出したので、ごほんと咳がもれる。その様子を見て、人影は軽く笑い声を上げた。上からであればこちらの表情までしっかり読み取ることができるだろう。夕日が邪魔をしてさえいなければ、フミヒトからも人影の様子が分かったはずなのだ。
オレンジ色の光は、辺りをすっかり染めてしまっている。雨に濡れた黒土も、ちょろちょろと崖に生えている若草も、平等に朱色だ。
「初めましてー! 私はトモミよー!」
こちらの声に負けないほどの大声が返ってくる。それから、あんまり大声を上げなくても聞こえるわよゥと弾んだ調子で付け加えられた。
「ねえ、僕はずっと人間は僕だけだと思っていたんだ。そっちには君以外にも人間がいるの?」
「うん、パパとママと暮らしているわ。でも、子供はあなたが初めて。おんなじぐらいの年の人なんか居なかったから、お友達も居なくて寂しいの。ねえ、あなた、私のお友達になってくれない?」
お友達。聞きなれないその単語を、少年は反芻する。
「オトモダチには、どうやったらなれるの?」
「そうねえ、私もよく分からないけれど。握手をすればいいと思うわ」
握手。それなら知っている。お互いの手と手を握り合って、上下に振ればいいのだ。手を伸ばしかけてハタと気付く。
「無理だよ。僕はそこまで腕が長くないもの」
崖はフミヒトの三倍ほどの高さがある。たとえ大人になったとしても、ここまで腕が長くなるとは思えない。
崖に生えた草を少し引っ張ってみると、すぐに根っこから抜けてしまった。ぽろぽろと根から零れ落ちる土くれを手のひらに乗せて、フミヒトはため息をついた。草は足場に出来そうに無い。
「でも、私はどうしてもあなたとお友達になりたいの!」
うなずいた。それはフミヒトだって同じだ。
「君は、どうやって高いところに行くの?」
「階段を使っているわ。地面に少しずつ段差を付けて登っていくの」
階段。フミヒトはベルトに手を回すと、なめし皮に収められたナイフを取り出した。そのまま壁面を削る。
「何をしているの?」
「カイダンを作る! そうすれば、トモミと友達になれるんでしょう?」
フミヒトは歯を見せて笑うと、再び崖に向き合う。
毎日丹念に手入れをしても、ナイフの血曇りは取りきることが出来ない。お爺の形見は、獣の喉を裂き、皮を剥ぎ、肉を切り取るために欠かせない。自分の命をつなぐために、数えきれないほどの生き物を殺してきた。
けれど、今は違う。自分のためではなく、友達を作るために刃物を振るっている。それがなんだか嬉しくて、力いっぱい崖にナイフを振り下ろす。
銀色のナイフは、その仕事に喜んでいるかのように、いつもよりも切れ味が良かった。