Kiss Good-Bye
あれから、レオは毎日律儀に連絡を入れてくれた。多分、レインの命令だろうけど。
母さんは少し混乱しているけれど、親父も無事らしい。
俺はレインと一緒で変わらない日々を送っている。もしかしたら、俺の知らないところで何かが変わり始めているのかもしれないけど、ガツンと来るまではわからない。人生なんてそんなもんだ。神のみぞ知るってこと。尤も、レインなんかを見てると神なんかいないってのがよくわかる気がする。
そのレインはいつになく険しい表情で銃の手入れをして、腰のホルスターに収めた。
こんなに物々しいのは初めてで、この前、撃ったのか聞きたくてもできなかった。そんな雰囲気じゃない。
だって、本当は踏み込んではいけない世界が確かにそこにあるから。
レインはどこからともなくナイフを取り出して、刀身を見詰めた。まるで鏡のような輝きの中に映る自分を見詰めてるのかもしれなかった。
どれだけこいつは武装しているんだ。
それに、やっぱり手慣れている。
その目もまた刃に似ている気がした。
暗殺者をこんなにまじまじと見ることなんて中々あることじゃないし、あっちゃ困るだろうけど、不思議な気分だった。
いや、俺の中でレインは特別だけど、暗殺者じゃない。
「レイン」
ずっと、ナイフを見ているレインに俺は問いかけてみた。聞きたいことは山ほどあるのに、相変わらず言葉にならなかった。
「……妙なんだ」
「え?」
「何かがおかしい」
ぽつりとレインが言った。
レイン自身、困ってるような、迷っているような、そんな感じで。
「……お前の他に親父を殺したい奴がいるってことか?」
必死にレインの言葉の意味を考えて、問いかけた。
レインは親父を守った。そういうことになってる。
自分の獲物だから、自分の手で殺すために守ったのか。
真実はわからない。けれど、今もレインのパートナーのレオが親父と母さんを守っている。
それもまたビジネスなのかは俺にはわからない。所詮、暗殺者の世界なんて一般人にはわからない。わからせてもらえないから。
「私は調べたいことがある。少し離れるが、必ず戻ってくるからな」
俺の心なんて見透かしているだろうに、敢えて触れずに、ナイフをまたどこかにしまってレインは立ち上がった。
そうやって、レインは容易く俺の追求から逃れられる。
俺だけが空回っている。いつだって。
「お前は安全だ。誰にも殺させない」
言いたいのはそんなことじゃない。
聞きたいのはそんなことじゃない。
なのに、レインは出て行ってしまった。
俺の頭上に疑問の雨を降らせたまま。
彼女はやっぱり夕立に似ている。急に降り注いで、急に去っていく。俺の頭上に暗雲をもたらして、ゴロゴロと雷を鳴らす。
いや、夕立っていうと何か格好いい感じがしてむかつく。どっちかっていうと、ゲリラ豪雨とかの方がしっくりくる。それくらいレインはいきなりで、ちょっと猟奇的。
そんなことは大して問題じゃないけれど。
*****
理央のマンションを出たレインは周辺に張っていた仲間からの目配せにうんざりした。
レオには既に仕事を言い付けてある。それに、彼はこの仕事だけは引き受けてくれない気がした。
尤も、その仲間に頼むのも非常に不本意だったが、借りを返してもらう時期でもあったのだ。きっと、今でなければ一生返してもらうことはない。
そして、自分でも危険がないか慎重に探りながら、レインは情報が得られそうな場所を目指した。
街は忙しない。一人の少年が運命を翻弄されていることなど知りもしない。
喧噪は平和だ。きっと、堕落の臭いに紛れて、硝煙に臭いにも血の臭いにも気付かれることはない。
だけど、その腐敗臭の中の微かな獣の臭いに気付く、同じ種類の獣がいる。同じ匂いの染み付いた獰猛な者が。
「よお、“雨女”」
友にでも接するような気安さでその男は声を掛けてきた。
年上はレインよりも少し上、セミロングの漆黒の髪を跳ねさせ、ファーのついたレザージャケットを纏ったワイルドな印象の男、獣の皮を被った獣……
「そう呼ぶのはやめろ、不愉快だ。“黒豹”」
レインは“黒豹”を睨む。
殺気を見せない。けれど、この男がいつでも自分を殺せることをレインは知っていた。それはレインにとっても同じことだからだ。
プロとして、見境のない素人のような真似はしない。どちらにもプライドがある。
「じゃあ、今度から“アメフラシ”にしてやろうか」
彼はまるで自分が有利であるかのように笑う。余裕と確信があるからこそ、いつだってこうして自ら絡んでくるのだ。
「言い間違えた。お前の存在が不愉快だ。消えろ、クロサキ」
「ヒョーゴでいいって言ったのに、相変わらずお堅いね」
“黒豹”ことクロサキ――黒崎兵吾はレインと同じく暗殺者だが、属する組織が違う。協力関係にあるわけでもなく、場合によっては殺し合いも有り得る。そういう危うい関係を彼は楽しんでいる。
「お前は今回の件、どう見てるんだ?」
路地裏に移動して黒崎は問う。
レインは彼が知っていることに驚きはしない。先日、巽邸を襲撃したのが彼と同じ組織の人間だということはわかっているからだ。
「私は任務を遂行するだけだ」
答える義務はない。情報を共有する必要などないのだ。
「いいことを教えてやるよ」
誘惑するように黒崎は言う。
レインが「必要ない」と即座に返せば、彼は「そう言うなよ」と大仰に肩を竦めて笑った。
この男の全てはわざとらしい。
「お前の利益はどうなる?」
自分の組織の情報を漏らせば、彼には不利益があるはずだった。
しかし、黒崎は尚も「心配ありがとうよ」と笑い続けた。
「でもな、俺はこんな不毛なことでお前と殺し合いはしたくねぇんだ」
黒崎はまるで友を失いたくないとでも言いたげだった。
だれ、レインは心を痛めているかのような口振りに惑わされるつもりはなかった。
乗せられているは明白だったが、レインはそれよりもその先にあるものが気になってしまった。
「どういうことだ?」
「よし、興味を持ったな?」
ニヤリと黒崎が笑えば、レインは一瞬後悔もしたが、すぐに同じようにニヤリと笑ってみせた。
「それはやっとお前を殺す理由ができるということだろ?」
殺し合いがしたくないと言うならば、今度こそ殺し合いに発展する事態が待っているということになる。
面倒臭い人間は少ない方がいい。レインは黒崎のようにジャンキーじみて、スリルを好んだりはしない。何事も程々がいいのだ。
「ったく、殺し合いが好きなんて、どうかしてるぜ。こんないい男を前に裏切りの一つや二つ、考えてみたらどうだ?」
「言っただろ? クロサキ、お前は不愉快だ。非常にな」
黒崎は軽薄な男だ。対立する組織の暗殺者にちょっかいをかけたり口説いたり、それでいて底が見えないからこそ不愉快なのだ。
「お前の護衛対象だが……幸せにはなれねぇぜ。どの道、誰かは死ぬだろうよ」
物事の裏の裏まで嗅ぎ付けるのはやはり獣のようだ。黒崎のそういうところをレインは苦手としていた。
それは単なる冗談ではないのだ。レインもまた感じていることだった。
「お前のところと私のところで動いているんだから仕方ないだろ」
二つの組織が動いている現状で、物事が平和に解決することはありえない。
「まさか、偶然だなんて思っちゃいねぇだろうな?」
巽央は悪人ではない。しかし、人間どこで恨みを買うかわからないものだ。
だが、この状況は何かがおかしい。裏で何かが起きているとレインも感じていた。
「不愉快極まりねぇ話だ。お前と被るなんてよ」
言葉を返すように黒崎は言う。
だが、両雄は並び立たない。このまま裏社会のトップ組織であるレインの組織と黒崎の組織が共に存在し続けることはまずありえない。
「お前を殺せば済むだけだ」
遅かれ早かれ殺し合わなければなくなるだろうとレインは感じている。潰し合いに応じる気配が組織にはあるからだ。
「なぁ、本当の依頼はどっちだろうな?」
「本当の依頼、か。どちらかがダミーで、私たちを衝突させたいとでも?」
核心に迫るような黒崎の言葉。だが、レインは自分の心を見せるつもりはない。あくまで好戦的に構えていた。
「わかってるんだろ? お前の依頼主」
痺れを切らしたように黒崎は言うが、レインは「私たちはただ遂行するだけだ」と頑なな態度を取る。
どうであろうとレインにとって、この男は面倒なライバルでしかない。
この男の誘惑に負けたら何もかも失ってしまう。
抗うことだけが、最良のコミュニケーションであり、護身術だと気付いたのはいつだったか。
「お前ならわかってると思ってたよ。わかってて、踊ってるって」
「買いかぶり過ぎだ」
「お前のことならわかる」
当てこすりの関係、ギリギリのスリル、或いは恐れているのかもしれない。彼のサディスティックな本性を。
「何かあったら言え、協力してやる」
ニッと黒崎は笑い、レインは溜め息を吐きたくなった。
協力などありえない間柄なのだ。損はあっても、得はない。
味方なら心強い言葉だが、敵に言われても信用できない。この男の場合、罠であることも明白だ。
「お前がそんなに死にたがりだとは知らなかった」
レインは呆れてみせた。段々、黒崎のちょっかいがエスカレートしていることはわかっていたが、気に入られて嬉しいタイプではない。
だが、今日の黒崎は何かが違った。それも作戦なのか、眉を顰める様子はいつもとは違う。
「気に食わねぇんだよ。あいつらの思い通りになりたくねぇ。お前もそうだろ? 大体、こっちだって、本気で動いちゃいねぇし」
黒崎はよく喋るが、不用意に喋るような男ではない。しかし、今日は自分の組織を自棄になって垂れ流しているようにも見える。けれど、レインは何があってもこの男だけは信用するつもりはなかった。
「まったく、お喋りな男だな。そんなに喋りたいのなら、ダムを決壊させるきっかけを作ってやろうか?」
ホルスターから何度となく彼に向けてきた愛銃を抜き、銃口を膝に向ける。
それはこれ以上、付き合うつもりはないという意思を表していたが、無駄だった。
「俺はゲロしねぇよ。愛の言葉なら声が嗄れるまで叫んでやってもいいが……それとも、案外純情なお前が耐え切れないほど卑猥な言葉を吐き続けてやろうか?」
この男は素人ではない。どんな拷問にも屈しないだろうとレインは思っている。それこそ、言う通りのことを実際にやりかねない。
「巽理央、あいつに惚れてるんだろ?」
「そんなんじゃない」
「まあ、いいんじゃねぇの? あの猛獣が許してくれねぇと思うけど」
まるで、学生のようなやりとりだが、普通の恋などまずありえない。
「お前は本当に不愉快な男だ」
本当は最初から何もかも知っているから不愉快なのだ。
「お前がいつまでも強がってくれちゃうから、つい可愛がりたくなるんだよ」
それはいつも女に見せる笑みだろうか。何となくレインは考えてしまった。そうして、容易く獲物を手に入れて、壊してきたのだろう。
この男は笑顔で獲物を嬲るような男なのだから。
「殺し合いが好きなのはお前の方じゃないのか?」
この男とこうして話すのはこれが最後なのかもしれないと思いながら、レインは問いかけてみた。
無駄なことだとはわかっていた。けれど、気の利いた別れの言葉が浮かぶはずもない。
「まだまだお前とは遊びの関係でいたいんだよ。お前がいるって思うだけで俺はかなり興奮できるからな」
勢いに任せて、危険な遊びに身を投じる若者のような無謀さがまだ彼の中にもあるかもしれない。麻痺する感覚の中で、それだけが鋭い痛みを与えてくれる。
いつだって、黒崎には陰りを感じていた。裏社会に身を投じるという者の空気というわけではなく、暗黒面というには少し語弊がある。
今なら、それが少し理解できる気がするとレインは思った。今なら、その違和感の名がわかる。
レインが今正に感じているものだからだ。
*****
俺を置き去りにしたレインが帰ってきたのは夕方だった。
その手には食欲をそそる臭いを部屋に充満させるビニール袋、駅前のタコ焼き屋のものだ。
そして、同じく駅前のシュークリーム屋の紙袋もある。おやつのつもりなのか。
「土産だ、食え」
「あ、ああ……さんきゅ」
別に頼んじゃいないし、聞きたいのはそんなことじゃない。けれど、その誘惑には勝てなかった。
おやつっていうような可愛い量じゃなかったけど。
レインと飯を食べるのは初めてじゃないのに今日は妙に緊張した。
「調べものは済んだのか?」
話題を探そうとしてもみつからなくて、一番聞いちゃまずいことを聞いてしまった。
「……本当にこんなのは初めてだ」
レインは少し顔を顰めてから言った。
一体、何があったのか。
問い詰めてもレインは絶対に言わないと思うけど。
「まさか、御家騒動……いや、そんな上等なものじゃないか。ただのくだらない喧嘩に巻き込まれるなんてな」
何のことか、俺にはわからなかった。 わかるはずもない。きっと、レインは俺にわかるように話してはくれないから。
「飯時にする話じゃなかったな。だが、安心しろ。もうすぐ終わるさ、何もかも平和にな」
もうこの話題はやめにしようと思った。
俺は当事者なのに、蚊帳の外。流されているしかないんだから。
終わりが不穏なものにしか思えなくても、それでも……
夢を見た。レインがいなくなる夢、いや、違う。レインが現れる前に戻る夢、レインがいなかったことになる、ただそれだけなのに怖くて仕方がなかった。
いつから、こんなに臆病になったのかは知らない。
でも、怖いと思うのはあの人を傷付けた時以来かもしれない。
俺はこれまでに恨まれても仕方がないことをしてきた。遊びに身を投じて、容易く人を傷付けてきた。遊びはもうやめた。
今はレイン以上に価値のあるものを知らないと言える。
レインは俺のせいで傷付いたりしない。だから、安心するのかもしれない。
だから、その安定剤を失ってしまうのはとてつもなく、怖い。
そうなるくらいなら、レインの手で殺された方がずっといい。
跳び起きて、顔を洗って、リビングに駆け込めば、レインが笑った。
「何だ、リオ。怖い夢でも見ておねしょでもしたか?」
いつもと同じだと思った。でも、違う。テーブルの上に置かれた朝食、レインは身支度が済んでる感じで足元には荷物、ソファーの上に折り畳まれた俺が買わされた服。
まるで、出て行こうとしているみたいだ。
「レイン」
何のつもりなのか。
聞きたいのに言葉が出てこない。
唇が震えて、本能的に聞いちゃいけないことをわかっているみたいに。
「もう戻れない。これで、サヨナラだ」
レインは気付いてしまったなら仕方がないと言うかのようだった。
「何だよ……それ。わけわかんねぇよ!」
こいつはいつも突然だ。わけわかんねぇことばっかり。
考えてみれば短い期間だったのに、ずっと振り回されていた気がする。
「だろうな」
「許さねぇ、絶対に許さねぇ……こんな終わり方があってたまるかよ!」
あっさりと言われて、俺は頭に血が上るのを感じた。
守ると言ったところは嘘だったのか。
レインがゆっくり近付いてくる。始まりのあの日みたいに俺は動けなくなる。
「許さなくていいさ。とっくに私は許されない存在だ」
罪人のようにレインは言う。普通の女の子みたいなのに、暗殺者。
犯罪者と一緒にいた俺はストックホルム・シンドロームになったとでも言われるのか。
背中がカーペットに押し付けられて、押し倒されたことに気付いた。
人形のような顔には見慣れたはずなのに、やっぱりドキッとする。
そして、触れたか触れないかわからないような、そんなキス。
それだけで魂を抜かれた気分になって、気付いた時にはレインは部屋を出ていた。
起き上がれなくて、呼び止められなくて、サヨナラのキスは胸に痛かった。
それから暫く俺は泣いた。何も考えずに泣いた。誰も見てない、誰も聞いていない。苦しくて、悲しくて、悔しくて、自分が男だってことも忘れるぐらい、子供みたいに泣いた。
けれど、レインは戻ってこない。俺を慰めてはくれない。レインの私物は何一つ残されてなくて、夢が現実になったと思った。
でも、違うのは、なかったことにはできないってこと。
最後の晩餐は駅前のタコ焼きと焼きそばとシュークリームとプリン。最初のピザの方がましだったと思う。
冷め切った朝食の味は涙に紛れてわからなかった。
レインは卑怯だ。確実に俺を殺した。俺の心を殺して、置き去りにした。
サヨナラのキスが俺にトドメを刺した。