Kiss of Death
退屈だ。毎日、毎日、そう思ってる。気が付けば俺は今日も決まったスケジュールを消化している。その繰り返しから抜け出そうとして足掻いても、結局、何も変わらない。虚しいだけだ。
巽理央、それが俺の名前。正直、俺はこの名前が好きじゃない。女の名前だからとかそんなんじゃない。大きくなるにつれて漠然と胸の奥にあったものが溢れ出してきた。けれど、それを爆発させるほど子供でもない。そうしてはいけないとわかってる。あの人を深く傷付けてしまうから。
「ねぇ、リオ。何を考えてるの?」
俺の腕を引いて、上目使いに彼女は問う。
名前はもう忘れた。大して意味もないから。どうせ、今日限りの付き合いで呼ぶこともない。
マスカラを塗りたくった睫、大きく見せようとした目は綺麗じゃなかった。一体、この汚い化粧に、彼女は何時間かけてるんだろう。みんなと同じ化粧をすることにどれだけの意味があるんだろう。
「あんたが退屈な女だってことかな?」
取り繕う気にもなれず、俺は適当なことを言った。自分のことばかり話して、俺に取り入ろうとしてるのがよくわかる。胸焼けのするような香水の匂い、やっぱり今日は無理。
「サイテー!」
勝手に掴んでいた腕を放して、鞄を彼女は振り回す。
「サイテーなのはあんたもだろ?」
言えば、彼女はぴたりと止まる。どうせ、顔とか金とか、遊びたいだけ。わかりきってる。行き先だって聞くまでもなく決まりきっていた。甘くとろけるデートなんて必要としていない。刺激が欲しいだけ。
「あんた、何様!?」
浴びせられる罵声にも俺の冷めた心は痛まない。“俺様”だって言われることにも慣れた。実際、その通りだ。俺は不自由を知らないし、何でも思い通りになってきた。
「わかりきってることを今更責め立てるのはあんたが醜いからじゃねぇの?」
俺をサイテーな男だってわかってて彼女は近付いて来た。だから、俺を責める資格なんて彼女にはない。
「あんたなんか……! 地獄へ落ちろ!」
陳腐な台詞を吐き捨て、彼女は走り去る。俺はただその背が遠ざかるのを見ていた。サイテーなのはわかってる。まだ高二なのに、俺はこれから先どうなるんだろう。先が見えなくて、ただただ足掻いてる。巽の名前も理の字も央の字も何もかもが俺には重い。重すぎる。
「冴えない言葉だったな」
まるで俺の心を読んだかのようにその声は響いた。
人通りの少ない道、誰も俺たちのことなんか気にしてないと思ってたのに、彼女は突然俺の前に現れた。
一言で言えば美少女、多分同い年ぐらい。艶やかで真っ直ぐな黒髪、大きな瞳、ジーンズにミリタリーなジャケットなんてボーイッシュな格好ながら、可憐という言葉が似合う華奢な女だった。
だから、俺は声が聞き間違いだったと思おうとした。それは綺麗な声だったけれど、あまりに淡々としていたから。
「私ならもっと刺激的な言葉を吐いてやるのに」
今度ははっきりとわかる。その唇が動いたのが見えた。確かに。彼女がその言葉を吐いている。彼女は一体何を言っている?
「退屈なんだろ? リオ・タツミ」
ゆっくりと彼女が近付いてくる。俺は動けなくなる。
彼女は何で俺の名前を知っているのか、そんなことはまともに考えられなかった。
彼女は俺をじっと見つめた。そして、ニッコリと微笑む。
前に会ったことがあったか? いや、こんな美少女を忘れられるはずがない。
或いは、俺が相手にしなかった女が全身整形で復讐しに来たとか? いいや、そんな馬鹿なことがあるものか。これは現実の世界なんだ。ドラマじゃない。劇的なことは何一つ起こるはずがない。
彼女の顔が目の前に来る。人形のような整った顔、俺は魔法にでもかかったかのように動けなくなる。
頬に触れた冷たい手、触れる唇、ほのかな髪の香り……キスを、されている。
なぜ、こんなことになっているのかわからない。けれど、このままもっと深く……そう思った時に唇は離れた。
初めてキスをした時だってこんなに思いにはならなかった。馬鹿みたいに俺は放心していた。
そのキスの真意を確かめたくて、ぼんやりしたまま、もう一度彼女の顔を見た俺は凍り付くしかなかった。
鋭い瞳、冷たい表情、それはまるで氷の仮面だった。そして、彼女は酷薄に笑った。いや、仮面だったとすれば、それはさきほどの笑みの方だったのかもしれない。
「お前を殺す」
低く囁かれる声、それは愛の言葉なんかじゃない。甘美な響きはまるでない。毒だと本能が告げている気がした。
そのまま、彼女は隣を擦り抜けて去っていくのに、動けないまま震えていた。
それは、単なる捨て台詞じゃなくて、本物の殺し文句だったのかもしれない。あれが愛のないキスだったと気付いたのは、随分後のことだった。
何て格好悪いんだ。
次の日になっても、俺の気持ちは全く晴れなかった。むしろ、余計に曇っていった。もやもやしたものが胸の内に渦巻いてる。まるで、悪い夢を見た後のように。いや、きっとあれは悪い夢だった。きっとそうだ。
昨日と大して変わらない今日を何とかやり過ごした俺は、昨日のこともあって放課後は遊ぶ気にもなれずに、珍しく真っ直ぐに家へと帰った。
一人暮らしのマンション、いつものように何も考えずに寝室へ行く。鞄を放り投げようとして俺はようやく異変に気付いた。
「おかえり、早かったじゃないか。今日は遊んでこなかったのか?」
彼女はベッドの上でニコリと笑った。昨日と同じように、綺麗すぎる顔で。まるで家族のような口振りで。
「な、何でお前が……!?」
俺は混乱する。これも悪い夢、その続きなのか。
どうやって、この女はここへ入り込んだ? どうして、俺は気付けなかった?
「このベッドで何人の女を抱いたんだ?」
「抱いてねぇよ」
彼女は俺の質問には答えずに質問で返してきた。思わず、答えてしまう俺もどうかしてると思うけど、男の部屋に上がり込んでベッドに座り込んで、そんなことを問う美女もどうかしてる。
「家には連れ込まない趣味か。なら、悪いことをしたな」
「心にもねぇことを言うんじゃねぇ」
彼女は思ってもいないことを平気で言う。今まで相手にしてきた女だってそうだった。だけど、彼女の場合、うんざりするような不快感はなかった。尤も、それは怒りを感じないってことじゃない。
「随分ご立腹じゃないか」
「怒るに決まってるだろ!?」
彼女は平然と言う。この状況で怒らずにどうしろと言うのか。そもそも、彼女はわけのわからないことばかりだ。不法侵入に不遜な態度、そして、昨日のキスと殺し文句。
「何だ、童貞か?」
「そういうことを言ってんじゃねぇ!」
彼女は笑うけど、俺は全く笑えない。笑えるものか。それに、断じて童貞じゃない。そんなものとっくに脱してる。でなきゃ、不健全な付き合いなんてしてない。
「わかっているさ、お前が振られた昨日の女のことだって私は知ってる。趣味はいいとは思わないが」
「ふざけんじゃねぇ! つーか、テメェは一体何者なんだよ!?」
「私は私だ」
「答えになってねぇ!」
どこまでも可憐で、女を感じさせる見た目に反して、全く女らしくない口調が尚更俺を混乱させていく。彼女が普通じゃないことだけはわかる。けれど、その正体はどこにも行きつかない。俺の理解できる域を完全に超えてる。
「あまり怒るな。うっかり殺してしまいそうだ」
「そうだ、それだよ!」
忘れてたけど、彼女は昨日俺を殺すと言った女だ。あの殺し文句だけは本物だったと思う。
「まあ、落ち着け。私も鬼ではないから、話し合いには応じてやる」
「だから、何で上から目線なんだ!?」
「愚問だな。私がお前の命を握っているからに決まっているだろ?」
「テメェは一体何者なんだって聞いてるだろ!?」
俺の気も知らないで、彼女は悠々としていた。何せ、突然現れて、キスして、殺すとか言う女だ。まともじゃないのはわかるけど、俺はそんなに暢気な性分じゃない。
「わからないか?」
「わかるわけねぇだろ!」
彼女はじっとその大きな目で俺を見るけど、わかってたら、こんなに頭の血管が切れそうなほど叫んだりしない。
「現時点でお前を殺す気はない。適当に説明してやるから落ち着け」
「テメェはさっきから何様のつもりなんだ! 目的は金か!?」
「ガキの小遣いなどいるものか」
わざとらしく溜め息を吐いて彼女は言うけれど、落ち着けたら苦労はしない。わからなくて、どうしようもなくイライラする。はっきりしないことは大嫌いだ。
「整形して出てこられたってわかんねぇんだよ!」
「整形? 何の話だ?」
俺は思わず叫んだ。叫んでしまった。その瞬間、彼女の眉間に皺が寄る。いかにも、予想外って顔で俺の方がビックリしたくらいだ。
「お前……俺に恨みとかあるんじゃねぇのかよ?」
何となく恐る恐る俺は問う。本当に彼女がわからない。今まで会ったことのないような人種だった。
「私にとってお前など無でしかない。くだらない妄想だ」
「ひどい言い方をするな」
彼女ははっきり言い切った。俺だってここにいる、二人っきりなのに、その目に俺を映しておきながら、全く見えていないかのように。
「さっきの答えだ。私は暗殺者……と言えば聞こえはいいが、ただの人殺しだ」
彼女はさらりと答える。だけど、俺はその言葉が冗談だとは思わなかった。そう言った彼女の目に偽りなんてなかった。その目だけで殺せると言っているかのようでもあった。
「じゃあ……親父、かよ?」
急に力が抜けた俺は床に座り込んで問う。そして、彼女の唇の端が吊りあがる。肯定、ってことか。
「言っとくけどな、親父は俺のためには絶対に動かねぇよ」
彼女が親父への脅しのために俺に近付いたとしても、親父は多分動じない。でなきゃ、あんな仕事やってないと俺は思う。そう親父の巽央は政治家だ。
それに親父にはもう一人、将来有望どころか、既に出来の良さをまざまざと見せつけてる息子がいる。俺の十も年上の兄貴央理も既に政治家だ。
「少しは頭も使うんだな」
「それしか考えられねぇだろ」
感心したように彼女は言うけど、流石に俺を殺すためにわざわざ暗殺者を雇う奴もいないだろう。恨みの対象が俺でなければ話は簡単だった。
「整形女の復讐劇を考えてたくせに」
「普通、暗殺者がやってくるとは思わねぇだろ。ドラマじゃあるまいし」
「それほどお前はひどいことを女にしてきたのか? 殺されても不思議じゃないようなことを?」
「だって……親父は、親父だ。それに、人質に取られても何の弱みにもならない俺が、そのせいで暗殺者に付き纏われるなんて、まずありえねぇ」
彼女は言う。だけど、彼女に俺の気持ちがわかるはずもない。俺にだって色々ある。俺との遊びに本気になるような馬鹿な女が何を考えるかも彼女にはわからない。そして、俺が親父をどんな気持ちで見てきたかも。
「随分、落ち着いたじゃないか」
「わかんねぇよ。現実味がなさすぎてどっか麻痺したのかも」
言われて、俺はイライラが収まったのに気付いた。結局、全部、彼女が正体不明のせいだった。彼女が暗殺者だってわかっても、驚くとか、怖がるとか、そんな気には全然なれなかった。だから、彼女は普通じゃないのかって納得したぐらいだ。
「さて、はっきりしたころで今日の夕食は何だ?」
「今日は……って、何でだよ?」
彼女の問いに俺は普通に答えそうになって、気付いた。なぜ、彼女がそんなことを気にするんだ?
「今日からここに住むからな」
「は?」
「お前を監視するために私はここで暮らす。お前に拒否権はないが、寝るのはソファーで我慢してやるから安心しろ」
「ふ、ふざけんじゃねぇ!」
俺は多分凄く間抜けな顔をしていたんだと思う。彼女はいかにも面倒臭そうに説明してくれたけど、「はい、そうですか」はありえない。
「どうせ、女は連れ込まないんだろ? 困ることなどあるものか」
「どうして、人殺しと一緒に住まなきゃいけねぇんだよ!」
「言ったはずだ。お前に拒否権はない。私が決めることだ」
彼女は俺の気持ちなんて全く無視だった。困ること? そんなの大有りに決まってる。何で、この俺が、いくら暗殺者だからって、女の言いなりにならなきゃいけないんだ!
「私はレイン」
不意に彼女が言った。
「レイン、それが私の名前だ。よろしく、リオ」
「レイン? 変わった名前だな。そりゃあ、純日本人なのにオリビアとかライアンってヤツとかいるから不思議でもねぇけどよ……あ、コードネームか?」
てっきり純日本風の名前が来ると思っていた俺はちょっと呆気に取られた。
レイン……雨、なんて合うような、合わないような。正直、俺のリオなんて女の名前みたいだし、日本っぽいかって言うと微妙な気もするけど。
「雨の日に拾われた。だから、レイン。それだけのことだ」
「単純だな」
「そんなものさ」
淡々と言うレインになぜか俺の方が寂しくなった。俺にとって親は当然の存在だけど、誰しもがそうではない。一般の家庭に生まれた平和な子供が暗殺者になるとも思えない。
「って、よろしくじゃねぇよ!」
一歩も二歩も三歩も遅れて気付いた。誰が暗殺者とよろしくできるか! 騙されるな、俺。
「よし、今晩はピザだな」
「勝手に決めるな!」
一体、何がよしなんだ。そして、何でピザなんだ。彼女がどこからともなく取り出したのは多分俺が電話台に置いてたピザ屋のチラシ、たまにダチが遊びに来た時ぐらいにしか頼まないけど。
「つーか、暗殺者のくせにピザなんか食べたいのかよ……まあ、たまにはいいか」
レインはわけわかんないけど、最近は食べてなかったと思うと食べたくなる。
そうして、俺と美少女暗殺者の奇妙な生活は始まってしまったのだった。
それから数日、レインはすっかり俺の生活の一部になってしまった。当たり前みたいに彼女との朝が始まり、夜が終わり、また朝が来る。
特に身の危険を感じることもなく、どちらかと言えば護衛のような気がしている。歳も近い彼女との生活は妙に楽しかった。
ただし、俺が学校に行っている間、レインが何をしているのかはよくわからない。学校に潜入してくるわけでもなく、俺の漫画を読んだりDVDを見たりCDを聴いたりして過ごしているらしいが、それが全てじゃないことはわかってる。
レインには仲間がいるのだろうか。上司がいるのだろうか。依頼主とは会っているのだろうか。依頼主は一体誰なんだろうか。
疑問はそれこそ雨のように降り注いでくるけど、彼女にぶつけられそうになかった。きっと、もうとっくに後戻りできない状態になっているのに、聞いたら袋小路に追い込まれる気がしていた。
だから、仕事のことは絶対に興味本位では聞かないことにしていた。
けれど、そんな俺の疑問の一つは勝手に答えがやってきた。
ある日、俺はレインと街に出ていた。休みの日に家でダラダラしてても退屈で、外でフラフラした方がましだと思ったら、レインもついてきた。だから、二人でファーストフードを食べたり、服を見たりしてみた。レインはポテトが時間が経つと急速に不味くなることに文句を言っていた。けれど、そんなことが楽しかった。
そして、思ったことが一つある。絶対に口に出しては言えないけど、レインは案外可愛い。見た目じゃなくて中身が。きつい性格をしてるとは思うけど、それだけじゃない何かがある。それは、もしかしたら、“人間らしさ”というものなのかもしれない。
次はどこに行こうかなんて言ってたら、不意にレインが立ち止まり、振り返った。
「レイン」
呼びかけるその声に俺も振り返った。そこに立っていたのは若い男だった。
多分、俺よりもちょっとだけ年上、背が高くて、引きしまった肉体に、日本人離れした顔立ちをしている。金に染めた髪、まるでライオンのような風格の男だった。
「レオ、そっちの仕事はいいのか?」
「ああ、問題ねぇよ」
レインが問いかければ、レオはぶっきらぼうに答えた。
「レイン、こいつは?」
「私のパートナーのレオだ。拾われた時、人食いライオンみたいだったから、レオだそうだ」
「やっぱり、アレなんだよな?」
「ああ、アレだ」
何となく想像はついていたけど、俺は一応聞いてみた。レインのパートナー、つまり、このレオもレインの仲間、暗殺者だってことだ。
「まあ、お前ならターゲットに情を移すこともねぇか」
レオの言葉は俺の胸に突き刺さった。今まで吐きかけられたどんな言葉よりも。いや、二番目だ。その冷たい眼差しもあの人には及ばない。あの人は暗殺者じゃないけど。
「またすぐに一緒にいられるようになるな」
多分、レオはレインが好きなんだ。そう思った。レインは「女々しいことを言うな」なんて言ったけど、俺は彼女にとってターゲットの息子に過ぎない。
俺が、どんなにレインを可愛いと思ったって、その毒舌が心地よいと思ったって、もう一度キスをしたいと思ったって、今度は俺からしたいと思ったって、ずっと一緒にいたいと思ったって、レインは簡単に俺を殺せる。俺の心も体も打ち砕ける。俺が女をあしらってきたように。
だって、彼女がくれたあの冷たいキスは死の口付けだったのだから。