幸せクローバー
ね、知ってる?
四つ葉のクローバーを見つけると、幸せになれるんだって。
小春日和だったせいか、滅多に通らなくなった場所まで、俺は犬の散歩がてら足を伸ばした。小学校脇へ伸びる堤防である。普段の散歩コースとは逆方向で、何やら不思議な感覚がする。
懐かしいって言うのかな、こういう感覚って。
意外性のある景色の変化もなく、両手の指で足りる年齢だったころと同じに見えた。川の景色だ。当然なのかも知れない。
その散歩中、見つからない、見つからない、と小さな女の子がしゃがみ込んでいた。あまりこの辺りではみかけないタイプだ。やわらかそうな癖毛に覆われた顔が、今にも泣きそうだった。草原で懸命に目をこらしている。
友だちと遊び回るべき年頃なのに、一人きりだった。すぐそばの公園からは笑い声がするのに。
そういえば昔、あんな子がいたっけ。
可愛いかったけど、大人しくて人の輪に入れなかった女の子。転入生だった分、余計にクラスから孤立していたのを覚えている。そうだ、あれは俺の初恋だったから――と過去に浸った瞬間、犬のチロルのヒモが手からすっぽ抜けた。
真っ黒でつぶらな瞳と一瞬視線が交わった。遊んでくれるの? とばかりに走り出した大型犬は、こともあろうに少女へとまっしぐらだ。きゃ、という小さくも引きつった悲鳴がする。
「待った! チロル、こっち!」
慌てて持って来たチロル用のボールを構える。真っ白でクマみたいな大型犬は、寸前でターンした。ぽーんと投げると、チロルがジャンプして器用にキャッチする。もっと投げろと持って来るので、さらに投げる。今度はさっきより遠く。それを数回繰り返す。巨体が小さなボールに目の色を変えて飛びかかる様は、冷静になると怖いものがあるな、と苦笑した。
「あっぶなかった……」
大人しい良い犬だけど、たまにアクセル全開になる。そのタイミングが、ぼろぼろのタオルを見つけたときとか、川へダイブするときならまだわかるが、突如やってくるから困るのだ。よーしよし、とふかふかの毛を撫でながら、こちらを窺う視線にやっと応じることができた。
「ごめんね、驚かせて。怪我はしてない?」
強ばったままの少女は、ふるふると首を振る。怯えているのか、硬い表情だった。だがチロルのほうは好奇心いっぱいに少女へ鼻面を寄せた。念のために、と紐を短く持って笑いかける。
「よかった。このでっかい犬はチロル。噛んだりしないから、大丈夫だよ」
行儀良くお座りしたチロルを、恐る恐る撫でようとする小さな手。それをべろんと舐めるチロル。一瞬だけ固まった女の子が、ふわりと微笑んだ。それが懐かしい笑顔と重なった。初対面でチロルを怖がらない子は珍しい。人の頭以上に大きな顔をした犬なのだ。
まして、小学生の低学年ともなれば、泣き出されても仕方がない。
(あれ? 子ども相手には大人しいもんだけど、いつにも増して大人しいな)
尻尾がゆさゆさと揺れているが、チロルは少女を困らせていない。大人しく撫でられるままである。
「何を探しているの? ずっとここにいるよね。迷子じゃない?」
女の子はおろおろと表情を変えた。話したほうが良いのか、黙るべきか、やっぱり助けて欲しいのか。
(無口な子だけどかわいいな。全部目に出ている)
それが好ましかった。笑いを堪えると、少女は唇を結んでそっぽを向いた。バカにされたと思っただろうか。言い繕おうとしたとき、足下の緑が何なのか、気づいた。
「あ。もしかして、四つ葉のクローバー?」
当たったらしい。魔法使いでも見るように瞳が輝いて、うん、と少女は頷いた。
「あげたい子がいたの。幸せがありますようにって。いいことが起こりますようにって」
すっくと女の子は立ち上がった。可愛らしい服が泥だらけになったのは、チロルに驚いて転んだだけじゃないはずだ。両手と両膝をついて、一生懸命探していたのだ。
「でも、もう行かなきゃ。暗くなっちゃうから」
「見つかったんだ?」
女の子はふわりと微笑んだ。
「ううん、いらなかったのかも。みーちゃんもチロルも全然変わってない。あのころと同じなんだもの。よかった」
え、と思う。赤い夕日が差し込んで、手をかざした。その一瞬のうちに、女の子の姿は消えていた。たそがれが映し出した幻のように。
気づけば、手のひらに四つ葉のクローバーが三つ、乗せられていた。
(ああ……そういえば)
あの一時期だけ同じクラスだった女の子は、転校先で亡くなったのだった。子犬だった(そのころからでかかった)チロルの散歩がきっかけで仲良くなったあの子を、ずっと記憶から閉め出していた。
「四つ葉のクローバーが見つかったら幸せになれるんだよ、か」
その話を教えてくれたのもあの子だった。
あの子が引っ越すギリギリまでクローバーを探したけど、全然見つからなかった。ようやく見つけた一つを握りしめて、走った。しかし、間に合わなかった。思い出すと苦いものがこみ上げてくる。
「そうだったな。この辺り来なくなったのも、思い出すのが嫌だったからだ」
転校直後、事故で亡くなったあの子にクローバーを渡せていたら、未来は変わっていたかもしれないのに、と。
だが、それを忘れるだけの時間は流れていた。深かった傷はとうにふさがっていて、事実だけが心に刻まれている。傷跡を残しながら、それさえ包み込むように。
「ずっと探してくれていたのかなぁ」
手のひらに乗せられたクローバーは吹いたら飛んでいきそうなほど、軽い。ささやかな幸運を、あなたに。そう小さな少女が微笑んだ気がした。――心配をかけたのかもしれない。やさしい子だったから。
同意を得るようにチロルを撫でようとして、ふっと噴きだした。
その鼻の頭にも、幸せをもたらしてくれるクローバーが乗っていたから。
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