真夏のデイトリップ
イザナミロボテクスのオフィス。
富士のデスクの電話が鳴ったのは、彼が出社してしばらく後だった。ディスプレイに表示された番号を見て、何かの予感が走った。
ゆっくりと受話器を取り上げる。
「もしもし、おはようございます―――」
富士はひときわ明るく、ひときわよく通る声をオフィス内に響かせた。
やっぱり。ナーサリーライムの小田部。慌てた声。予感は的中する。
話を聞きながら、頭の中にいくつかの映像を思い描く。
―――大きな木を見上げている子どもたち。
―――その横をすり抜け、走っていく虫捕り少年姿のテツとテルミ。
―――大きな川のような道路。
―――ヒッチハイクで大きなトラックを止めるテルミとテツ。
まるで二十世紀のアメリカのロードムービーのようだ・・・そう思ってクスリと笑う。
―――二人を乗せて走り去るトラック。
この想像図が正しいのか、正しくないのかは問題ではない。要するに・・・
富士は意識をもう一度電話に集中させた。
「わかりました。今回の件についてはわたしにお任せ下さい。テルミと玉田さんは間違いなくいっしょに行動していますね。大丈夫です。すぐに探し出しますから」
そう言って電話を切った。
ゆっくりと考えてみる。
通常の担当者なら大いに困惑する事態のはずだが、彼はそうではなく、むしろ楽しんでいる様子だった。
―――おれはこうなることを期待していたのだ。
自分で自分の気持ちを確かめると、気分が高揚してきた。仕事を始める時はいつもこれくらいテンションを高くしておきたいものだ。そう思い、ほくそ笑みながらデスク上のパソコンをリズミカルに操作する。
引き出されたテルミのデータ。製品番号の確認。
イザナミロボテクス製のロボットには、すべて発信装置が付けられており、管理者が簡単に居所を突き止められるようになっている。けれどもあまり手早くこの事件を解決してしまうのは惜しい。
また電話が鳴る。富士は即座に受話器を取り上げ、用件を聞いた。
「恐れ入りますが、実は一件、緊急のトラブルが発生しまして・・・ロボットが逃げたんですよ。そうなんです。クライアントの職場から逃げ出したんです・・・そういうわけで今日一日はこれを解決するのに手いっぱいになります。申しわけございません」
そう言って電話を切る。次に今日一日、外出することを受付に伝える。
パソコンに映し出されているデータを携帯用の端末にコピーする。
そんな一連の作業をしているうちに、富士はなんだかうきうきした気分になってきた。ほとんど踊り出したいぐらいの高揚感と言ってよかった。こんなにいきいきとした自分を感じるのは久しぶりのことだ。
車のキーやIDカードが上着のポケットに入っていることを確認し、愛用のバッグを手に取ると、オフィスを出た。エレベーターに乗る前に洗面所に寄り、用を足した後、手を洗う。まるで一つの儀式のように、たっぷりと時間をかけて指の一本一本を洗い清めながら、もう一度、テルミの顔を思い浮かべる。
「成長したんだね」
他に誰もいない洗面所に富士のつぶやく声がやたらと大きく響いた。
× × ×
その街の真ん中には美しい川がとうとうと流れていた。清流とまでは言えないが、透明度も高く、いろいろな魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
今から百年前、この川が家庭や工場から垂れ流される廃水でどろどろに汚れていたことも、もはや伝説の一つになっていた。社会の都市化・工業化を経て、昔ながらの美しい自然を取り戻したことは、この町に住む人間にとって大きな誇りとなっているのだ。
海まで続く広い川には昔ながらの舟運が甦っていた。ソーラーエンジンや燃料電池で動く貨物船は、港で積み込んだ荷物を上流にある街まで運んでいる。
それぞれの船にはコンピュータが搭載されており、港の近くの河岸にある〈リバーコントロールセンター〉ですべての船の運行管理が行なわれている。いわば一隻一隻がロボット化されているわけだが、それぞれには緊急対応することができるよう、やはり一台ずつロボットが乗り込んでいた。
ロボットたちは船がプログラム通りに運航されていることを確認しながら、川の流れや水量のチェック、そして、他の船とすれ違うタイミングなどにも気を配っていた。こうした業務に関する彼らのセンサーは実に精巧で鋭敏だ。人間で言えば、集中力が非常に優れていると言えるだろう。
パシャン!
船が水面を突き進む傍らで銀色の魚が跳ねた。
ザバッ、パタパタパタパタパタ・・・・・
白い水鳥が舞い飛ぶ。
岸辺には葦などの水生植物が生い茂り、その向こうに見え隠れする草地の河原には美しい花々が咲き乱れていた。水の上を涼しげに飛び回っていたトンボが、へさきに止まって羽根を休める。太陽は西に傾き、水面は黄金色がかった光に満たされ始めていた。
船上で働くロボットたちの鋭敏なセンサーは、これら、仕事に関係のない動きにはいっさい反応しなかった。へさきに止まっていたトンボがふわりと浮き上がり、今度は甲板に出てきたロボットの頭上に止まる。ロボットは何も気にすることなく、船が河岸にある〈リバーステーション〉に着くのをじっと見守っている。
ロボットが無反応なので、つまらなくなったのか、トンボはまたすぐに羽をふるわせて空中に浮かぶと、岸の方へ飛んで行った。そして、土手で川辺の風景を眺めていたふたり―――正確にはひとりと一台―――の頭上をぐるぐると旋回した。
テツはすぐにそれに応じ、自分の頭上に高々と人さし指を突き出した。待ってましたとばかりにトンボはその先端に止まる。隣にいたテルミは驚いてそれを見た。トンボは完全に羽ばたきを止めて、大きな二つの目のついた頭をひっきりなしに動かしている。
得意げにニヤリと笑うテツに対抗してテルミが人さし指をさし出すと、お調子者のトンボはまたもや反応して、今度はテルミの指先に止まった。
じっとトンボの顔をのぞき込むテルミ。
―――仲間のロボットにこんな顔をしたのがいた・・・。
そう思ってクスリと笑う。
それにしても大きな目。この昆虫の目は〈複眼〉と呼ばれ、小さな目がいくつも集まって出来ているという。
―――この昆虫にとって、わたしの顔はどういうふうに見えるんだろう?
そんなことを考えていると、トンボは透き通った羽根を二、三度ゆっくりと上下させた。
―――おれはもう行く。
トンボの声が聞こえたような気がして、テルミは人さし指をそのまま空に向かって突き上げた。トンボは満足げに頭を動かし、またふわりとからだを浮き上がらせる。そして、テツとテルミの頭上をまたもやぐるぐると旋回すると、夕焼けに染まり始めた空の彼方へ消えて行った。
胸にじんわりと残るなんとも言えない思い。ここに来てよかった、とテルミはしみじみ思った。
この川とそれに連なる下町の風景は、イザナミロボテクスの社内とナーサリーライムの施設内しか知らなかった彼女にとって新しい世界だった。
αジェネレーションのアンドロイドには、より人間らしくあるために、働く環境には直接的に関係のない知識やイメージも数多く埋め込まれているが、ここで出会ったものはそうした自前の知識とはかけ離れていた。それらは独特の生あたたかい空気で彼女の全身を包み込んだのだ。
テルミは、その形にならない何かを抱きしめていたい、という思いにかられた。そんな思いにかられるのは、もちろん生まれて初めてのことだ。と同時に疑問も頭の奥底から湧き出てくる。
―――これは、“しあわせ”の一種なのだろうか?
思考はクリアにならなかった。いや、むしろクリアにしたくなかった、と言った方がいいのかも知れない。ぼんやりとしていたかったのだ。もしこれが、しあわせのひとつの形なのだとしたら、ぼんやりと、じんわりと感じて味わいたい・・・。
しかし、そんな頭脳の使い方は本来、不自然であることは、テルミ自身、よく知っていた。アンドロイドにはつねにクリアな思考が要求されている。明晰に物事を分析し、的確に状況を把握することこそ、彼ら・彼女らが第一に果たすべき役割なのだ。
テルミは頭を切り替え、別の方向から思考した。こちらはきらめくナイフのようにクリアだ。言い換えれば、ひとときのファンタジーから現実に立ち戻った。
今日、残された時間はほとんどない。もうとっくの昔にホームに帰っていなくてはならない時刻だ。いや、そもそも一条との最初の約束はお昼までには帰ってくるということだった・・・。
「どう、もう落ち着いた?」
テルミは黙って川の流れを見つめているテツに向かってたずねた。
「やっぱり、ここはテッちゃんの街なんだよね?」
テルミは重ねてたずねる。
ホームのコンピュータに入っていたパーソナルデータによれば、この川の流れる街は、間違いなくテツの出生地だ。しかも十八歳まで、つまり高校を卒業するまで、彼はこの街で暮らしていたことになっている。
なおも黙っているテツを見ながら、テルミは今朝この街に到着してから、つい先ほど、この河岸の土手に来るまでのことを順繰りに思い出した。
× × ×
「ヒッチハイクをしよう」と言い出したのはテツだ。
彼はそういう旅を経験したことがあるのだろう。それとも大好きな昔のアメリカのロードムービーの影響なのか、とにかくふたりで道路脇に立ち、腕を伸ばし親指を立てて車を止めようとした。
そんなに簡単に事が運ぶとは思えなかったが、意外にもすぐに一台の大型トラックが停まった。運転手は女性。ひとみよりも少し若く、二十代の半ばくらいに見える。茶色の髪をポニーテールに結った彼女は、サングラスを外し、目深に被っていたキャップのひさしを指でちょいと上げて、ふたりを見た。化粧っけのない顔。けっして美人とは言えないが、くるくるとした目と少しアヒルっぽい口もとが愛らしい。 テルミが行き先を告げると、二つ返事で乗せてくれた。
「人間の証明ってやつだろ」
走り出すなり、運転手の女は威勢のいい口ぶりで言った。テツとテルミは何のことだかわからない。
「ロボちゃんなら停まらないよ」
なるほど。テルミは合点した。
最近は自動車を運転するアンドロイドも増えた。特に荷物を大量に運び、乗車が長時間におよぶ仕事は、どんどんロボットのドライバーに置き換えられている。
〈ロボットは安全運転をお約束します〉
イザナミロボテクスもそんなキャッチコピーを掲げて、運送業界に自社製品、つまり、テルミの仲間を売り込んでいた。
たしかに安全運転のために長時間の休憩が必要な人間よりも、ロボットははるかに効率よく働くことができる。製品の値段や定期的なメンテナンス費は高くつくものの、運転手に毎月の給料を支払うことを考えれば、長い目で見た場合、ロボットの方がずっと安くつく。
人間を雇うか、ロボットを買うか。
経営者にとって、どちらが都合がいいかは明らかだった。
「長距離を運転するのは今月限りだよ」
彼女は来月からは宅配トラックの仕事に切り替えると言う。
「給料はずいぶん安くなるけどね」
一軒一軒の家庭を訪問して荷物を届ける宅配の仕事は、ロボットを嫌ったり恐れたりする人もいるせいで、まだまだ人間の受け持つ労働とされていた。しかし、イザナミをはじめとする各メーカーは、ここにもヒューマノイドを進出させようと着々と計画を練っていた。数年後には彼女はまた転職しなくてはならない状況に追い込まれるかも知れない。
運転手の女はそんな仕事についての愚痴なども交え、ペラペラといろいろなことを喋りながら、軽快にトラックを飛ばした。毎日ホームで老人たちの世話をしているテルミにとって、彼女のエネルギッシュな若さ・屈託のない明るさはとても新鮮に映った。
しかし、それと同時に妙な気分にも陥った。どうも彼女はテルミがロボットであることに気づいていないようなのだ。わざわざ自分から「わたしはロボットです」と宣言するのもおかしいので、彼女の話に合いの手を入れていると、自分がロボットなのか、人間なのか、よくわからなくなってきた。
両者の間にさまざまな問題があることは知っていた。けれども、これまで「人間になりたい」と願ったことや、ロボットであることを恥じたことは一度もない。自分は自分でしかないのだが、いざ「どちらかの味方につけ」などと言われたら、どうすればいいのだろう?
テルミがそんなことを考えているうちに、運転手は話題を自分の家族のことに変えた。彼女にも年老いた両親がいるのだが、住む家が離れており、めったに会えないのだと言う。
「と言うよりも、会いたくないと言うか、会うのが怖いのかな・・・」
ナーサリーライムの居住者の家族にもそういう人が大勢いる。
「それでその罪滅ぼしのためにあんたたちを拾ったのかな?」
運転手は前を向いたまま、自問自答した。
―――なるほど。
テルミは納得した。彼女はテツとテルミを親子と認識したのだ。それにしても、やはり人間の思考と行動は複雑怪奇だ。いったい彼女は自分の家族に対して、どんな思いを抱いているのだろう。
「ヒッチハイクに出会ったのも初めてだったし―――」
運転手は今度はちらりとテルミの顔を見た。目と目が合う。運転手は一瞬眉間に深く皺を寄せた。訝しげな表情のまま、すぐ前に向き直った。
車内の空気は微妙に変化していた。
「あんた、まさか・・・・」
運転手が口を開こうとした時、テツが窓の外を見て大声で叫んだ。
「川だ!」
それから十分あまり。
運転手はちょっとつたない観光ガイドのように、その川とふたりのめざす街について話した。彼女の知識はわずかなものだったが、それでも何も知らないよりははるかにましだ。
「そこで何をする?」
ひと通り、自分の知っていることを話し終えると、彼女はたずねた。
「家を探すんだ」
またまた大声を出して答えたのはテツだ。
「家?」
「ぼくの家だ」
街の入口でトラックは停車し、テルミとテツはトラックから降りた。
「どうもありがとう」
テツは座席に座ったままの運転手と握手した。
「気をつけるんだぜ、じいさん」
彼女はわざと乱暴な言葉を使って笑顔でテツを送り出した。そして、テルミにも手を差し出した。
「ありがとう」
テルミは彼女の手を握った。彼女はテルミの手のひらの感触を確かめるように微妙に指を動かす。そして、もう一度、目と目を合わせる。やや間を置いて、ひとこと。
「気をつけて」
運転手は先に手を放し、ふたたびハンドルを握ると、もうひとこと、ひとりごとのようにつぶやいた。
「ロボちゃんでも停まってくれるといいけどな」
彼女が何を言っているのかよくわからず、テルミはきょとんとしてそこに突っ立っていた。運転手は少しだけ振り返り、ニッと白い歯を見せてピースサインを送る。そして、トラックの巨体をゆっくりと発進させた。
「元気でなー!」
テツの大声を受けながら、大きなトラックはみるみる小さくなっていき、彼方へ消えた。