盆帰り
7.盆帰り
周囲の山は紫色の夕闇に包まれ始めていた。
そこは山間の村の広場。にぎやかな、それでいて少しうら寂しい音頭が流れている。
中央にはやぐらが組まれ、そこから無数の提灯が四方八方に張り巡らされていた。やぐらの上では二人の男が半裸になって太鼓を打ち鳴らしている。その周囲でぐるりと円になって踊る浴衣姿の男女。そして、じいさん・ばあさんたち。
実際に体験したことがあるかどうかに関わらず、“ふるさとの盆踊り”は、日本人の脳の記憶回路に深く組み込まれた夏の風物詩だ。その郷愁を誘う光景がナーサリーライムのレクリエーションルームに出現していた。
レクリエーションルームは二階のちょうど真ん中あたり、一階の面談ロビーの真上に設けられている。小学校の体育館ほどの広さがあるが、最も大きな特徴は全体がバーチャルスタジオになっているということだ。
駐車場から戻ってきたテルミがそこに入ってくると、盆踊りはちょうど始まったところだった。彼女の目からは殺風景なスタジオにしか見えないが、じいさん・ばあさんたちにはかなりリアルな風景に見えるようだった。太鼓を叩いている男も、浴衣姿の若者たちもイザナミロボテクスから派遣されてきたヒューマノイドだが、盆踊りのかもし出す不思議な空気は、そんなことも気にさせないようだ。
彼女はテツの姿を探した。みんなが踊りを始めているのに、彼は額にヒョットコのお面を引っ掛けたまま、ひとりでポツンとその輪の外に立ち、ぼんやり踊りを眺めている。
―――やはり、ひとみのことを気にしているのだろうか・・・。
そう思ってテルミが声を掛けようと歩み寄った時、踊りの輪の中から仲間たちが脱け出してきてテツを誘った。
「どうした、テツ?」
「踊らないのけ?」
「こっちゃこ、ホレ」
仲間に促され、テツはお面をかぶって立ち上がり、みずから輪の中に入っていく。それを確かめてテルミはほっとした。
「あんた、なんでそんな格好のままなの?」
すぐそばで声を掛けたのは一条だ。あまり似合っているとは言えない藍染の浴衣を着込み、手には団扇を持っている。
「ま、ロボットにこういう夏の風物詩だの、日本人のわびサビを理解しろっても無理だと思うけど、少なくとも雰囲気はぶち壊してもらいたくないからね。すぐに着替えていらっしゃい」
「はい」
テルミが素直に従って、いったん立ち去ろうとすると、小田部の声が聞こえてきた。
「お盆、正しくは盂蘭盆と申しますが、これは祖先の霊を祀り、冥福を祈る行事として、わたしたち日本人の生活に深く根を下ろしています。当ホームでもこの季節には、盆帰りの出来ないお年寄りの方々のために、こういった盆踊り大会を毎年催すことになっております―――」
翌日、小田部は園長室でパソコンに向かって例の映像を使ったり、クイズのファイルを作ったりしていた。
「さて、それでは出題に移りましょう。祖先の霊に導かれたのか、この後、本当にポックリと逝ってしまわれた方がいます。それはこの中のうち、どなたでしょう?」
そこで画像が盆踊りから八人のじいさん・ばあさんの顔写真に切り替わった。その中にはテツも含まれている。画像が一通り出終わると、ふたたび小田部の声。
「オッズはご覧の通りです」
その日、死者が出たことでホーム内は少しざわついた。亡くなったのは、あのクロママだ。彼女は苦労多き人生を送ってきたと言うわりには、からだはすこぶる健康で、内臓器官には特にこれといった疾患もなかった。
「盆踊りなんて嫌だよ。からだを動かすのが面倒で」
と言っていたが、いざ始まると普段の彼女からは想像もできないほど楽しそうに手足を動かし、いつまでも踊りの輪の中に入っていた。そんな彼女に異変が現われたのは、盆踊り大会も終わり近くになってからである。
「さあ、これが本日の締めくくりの一曲です。皆さん、輪に入ってください!」
そうアナウンスが響き、最後の曲が始まった。ずっと踊り続けていたクロママは軽く汗を拭い、元気よく再び足を踏み出したのだが、そこで急に胸を押さえて屈み込んでしまったのだ。
曲はなおも続いていたが、異変に気づいたスタッフたちが彼女に駆け寄り、踊りの輪の中から引き出した。テルミも慌ててそこに駆け寄る。
心臓発作。
彼女がそんな症状を起こすのは初めてのことだ。スタッフの一人が落ち着いた動作で人工呼吸を始める。介護施設に勤めるヒューマノイドは全員、こういう応急措置の技術を持っている。
何回か深呼吸するうちに、クロママの息は回復してきたかに見えた。うっすらと目を開ける。一瞬、周囲に安堵の空気が広がった。
「もういいよ」
彼女は蚊の鳴くような声でそれだけ言うと、再び目を閉じた。そこにいた全員が不思議そうに顔を見合わせる。テルミをはじめ、ヒューマノイドたちはそのセリフにどんな意味があり、どう反応したらいいのか、戸惑ってしまった。
「何やってるの、続けて!」
そこに居合わせた一条の怒鳴り声が飛んだ。スタッフが慌てて人工呼吸を再開する。しかし、クロママの心臓が再び動き出すことはもうなかった。
最後の曲が終わって盆踊り大会は終了し、周囲は慌しくなった。
「もういいよ」
テルミはクロママの最後のひとことを心の中で反芻していた。
―――助かりたくなかった? もう生きていたくなかったということ?
「『苦労だらけの人生だった』と、いつも言っていたからな」
背中から小田部の声が聞こえる。
「死ぬ時はほとんど苦労がなくて、よかったのかも知れん」
テルミは今度はその小田部の言葉を心の中で反芻する。
―――人間は複雑だ。自分の学習はまだまだ足りない。
彼女はそう思い、自分がロボットであることを改めて認識した。
そうこうしているうちに病院のスタッフが三人(リーダーは人間だが、残り二人はアンドロイド)やって来て、レクリエーションルームからクロママの遺体を運び出していく。これから病院で死因の調査が行われた後、遺体は遺族のもとに引き取られる。
テルミはクロママの遺族、つまり家族を想像してみようと試みた。彼女が苦労して育て上げたという子どもたちは、今、どんなおとなに成長しているのだろう? 夫は来るのだろうか?
よく聞かされた愚痴の中から思い浮かぶ彼女の夫の人間像は、まず、お金を稼ぐことが下手な気の小さい男。お酒が好きで酔うと彼女につらく当り・・・
「テルミ!」
またもや一条の怒鳴り声。
「なにボケッとつっ立ってるの。あんたは花屋に電話して」
死の翌日、集会ホールではフェアウェル・セレモニーが開かれた。夏のはじめにひとり亡くなっているので、この夏二回目のセレモニーだ。ほぼ一ヶ月に一度くらいの割合で開かれていると言ってもいい。要するにお葬式なのだが、小田部の発案で、湿っぽくなく、みんなで楽しく仲間の旅立ちを見送ろうということで、花がいっぱい飾られ、まるでちょっとした結婚式のように華やかに行なわれる。
じつはこれもナーサリーライムのセールスポイントの一つになっており、小田部はことあるたびに行政機関などに連絡し、ゲストを招いていた。しかし、このセレモニーに故人の家族がやってきたことはない。ほとんどの場合、家族はすべてのことが終ってからひっそりと現れる。クロママの場合も同じだった。
数日後。
午後遅い時刻になって、中年の男と女が大きなトランクを持ってナーサリーライムを訪れた。悲しげな、というよりは不機嫌そうな顔立ち。どちらの顔にもクロママの面影が強く映し出されている。どうやら彼女のよく口にしていた〈頭が良くスポーツも万能、母親にめっぽう優しい息子〉と〈いっしょによくお菓子を焼く娘〉の成長した姿らしい。
ふたりはろくに言葉を交わすこともなく、また、案内された部屋に飾られた美しい花の佇まい―――ベッドの脇にあるテーブルの上には黒い喪章付きのリボンで束ねられた白い百合の花が飾られていた―に心奪われることもなく、クローゼットやサイドボードの引き出し、ベッドの下などから手早く荷物を引っ張り出し、次々とトランクに詰め込んでいく。作業はわずか十分あまりで終了し、二人はそそくさと部屋を出た。そして、そのまま面談ロビーへ向かう。
ロビーの一角のテーブルには同じように白い花が飾られ、小田部と一条が神妙な顔をして二人を出迎えた。そこで二人は顔を見合わす。男(おそらく兄であろう)は小田部たちに向かって自分の腕時計を指し示し、あまり時間がないことを知らせた。
「お時間は取らせませんので」
小田部はにこやかに言って、二人をソファに座らせる。
「病院ですでにお聞きになっていると思いますが・・・・」
と、まず、クロママの死の経緯について説明。次いでホームに入居してからの生活の様子について説明した。
二人は何かの儀式の参列者のようにおとなしく話を聞き入れ、時に相づちを打ち、笑みを作ったり深刻な表情を作ったりして、およそ十分ほどの間、“遺族としての義務”を果たした。
最後に小田部は持っていたプラスチックバッグの中から、これまたプラスチックで出来たオカメのお面を二人に向かって差し出した。
「これは盆踊りの時にお母様が最期まで身に付けていたものです」
クロママの息子と娘は戸惑って互いに目を見合わす。
「もし必要なければ、こちらで処分させていただきますが・・・」
その助け舟で戸惑いは安堵に変わった。
「はい、結構です」と、息子が喜び勇んで言おうとした時、
「くれ!」
ロビーにこだまする声に四人が振り返ると、そこにテツが立っていた。
テルミがロビーにやって来たのは、クロママの子どもたちがナーサリーライムを立ち去り、それを見送った小田部と一条も園長室に戻った後だった。ひとり残ったテツがお面を被ってソファに横たわり、しきりに顔を上下左右に動かしている。
「何してるの?」
テルミが声をかけてもテツは動きを止めない。
「やめなよ、テッちゃん」
「帰れないな・・・」
ポツリと洩れるテツのつぶやき。
「今、なんて言ったの?」
思わず聞き返すテルミを見て、テツはおもむろにお面をはずした。
「あいつは家に帰ったんだろう?」
その問いかけにテルミの頭脳はまた一瞬、混乱し、テツの顔とオカメのお面とを交互に見やった。
「ぼくの家はどこだ?」
これにはテルミは反応した。
「あなたの家はここ」
「ちがう」
即座に打ち返したその声の響きは、思いもかけないほど強かった。
「ここは本当の家じゃない。ぼくはどこで生まれて、どこで大きくなったんだ?」
かつてない迫力で詰め寄ってくる。
「おまえは知っているのか?」
テルミは答えることが出来ず、黙って頭を横に振った。それを見たテツはひどく苛立ち、おかしな声を上げて、手にしたお面をいきなり壁に投げつけた。
ノックをして園長室のドアを開けると、小田部と一条の会話が耳に飛び込んできた。
「この五年間であの二人が来たのは、それぞれ一回ずつですよ。ほとんどウバ捨て状態だったんですから」
「そうだね。最後くらいちゃんと話を聞いてもらわないとねぇ・・・」
小田部がそうぼやくと同時に、一条は開いたドアのところに立っているテルミに向かって尋ねた。
「どうしたの?」
「これ―――」
と、テルミはオカメのお面を出した。
「ああ、それはもういいよ。あのお二人は玉田さんに下さったの」
「そうですか・・・・」
「わざわざご苦労さま」
珍しく一条にねぎらいの言葉をかけられ、出て行こうとしたテルミの耳に再開された二人の会話が入ってきた。
「そういえば一条君、あの人のパーソナルデータは?」
「はい。午前中にすべて削除しておきました」
「ありがとう。相変わらずそういう仕事は速いね―――」
そこまで聞いてドアを閉めた瞬間、テルミは一つのひらめきを覚えた。しかし、それとともに邪悪な映像も思い浮かんだ。
尖った角、牙、尻尾、醜く歪んだ顔―――昔ながらのキリスト教世界の悪魔のイメージ。
人間の心の中には神と悪魔が住んでいる。真に人間を理解するためにはその両方を知り、自分でも心得なくてはいけない。そういう思想のもとに、イザナミロボテクスはヒューマノイドの心に神だけでなく、悪魔のイメージを植え付けた。つまり、テルミが覚えたそのひらめきは悪魔のささやき声にも似ていたのだ。ついでながら、なぜか人間は「神様のように聡明だ」というよりも「悪魔のように頭が切れる」という表現の方を好んで使いたがる。
夜空に満月。
見回りも終わり、スリープモードに入る時刻だったが、テルミはホームのセキュリティシステムを通して残業申請を行なった。二時間以内の残業であれば、こと細かなチェックは必要ない。
それからデスクに向かうと自分のパソコンを起動させた。ホームのサーバーにアクセス。さらに進み、自分の記憶しているパスワードを幾つか打ち込んでいくと、全入居者のパーソナルデータの入口に辿り着く。そこで数日前に自分が言った〈プライバシーの侵害〉という言葉を思い出し、ひとり苦笑した。コンピュータが世界中に普及し、あらゆる種類の情報のやりとりと経済活動とが密接になった二十世紀末から、いわゆる先進諸国では、個人情報の保護は社会全体の重要な課題となった。
―――その人をひとりの人間として十分に知り得るためには、その人のどんな部分がわかっていればいいのだろう?
ふとそんな思いにとらわれ、これから自分がやろうとしていることの意味を問い直した。
個人情報の調査は、ロボットが侵してはならない人間の領域だ。もし侵せば、もちろん犯罪行為とされる。にも関わらず、彼女の中で不思議なほどためらいはない。それがテツに対する愛情なのか、自分自身の好奇心なのかはよくわからない。が、すでに心の中の悪魔は、愛嬌のあるキャラクターに変化していた。
モニターの画面に目を移すと、パーソナルデータの入口でコンピュータはパスワードの入力を命じている。このパスワードは小田部か一条しか知らない。しかも三回間違えて入力した場合はアラームが鳴り、連結されているセキュリティシステムが即座に動き出す仕組みになっている。
テルミは目をつむり、ひとつ深呼吸をした。
パスワードは一年に四回更新される。総管理者である小田部は伝統的な日本の風習に愛着を持っており、その幾つかを園内のイベントとして実行している。そして、五文字以上・十文字以内のシンプルな単語であるはず。
テルミは目を見開いて画面に向き直り「bonodori」と打ち込んだ。
パーソナルデータの入口が開き、入居者のリストが現われる。選択するのは、もちろん〈テツハル・タマダ〉。ここでもう一つパスワードが必要になる。
テルミは彼のパーソナリティから連想されるいくつもの単語を頭の中で次々と検索していった。残ったのは五つ。これ以上絞り込むのは無理だ。しかし、失敗は二回しか許されない。彼女はもう一度呼吸を整え、今度は小田部の顔を思い浮かべた。
―――園長はパスワード一つにあまり複雑なことは考えない。いちばん単純なもので勝負しよう。
そこで打ち込んだ単語は「hyottoko」。コンピュータが考えている。
「いち、にぃ、さん」
小さく口に出してカウントすると、三秒後に画面が転換し、テツのパーソナルデータが現われた。
テルミは両目の間―――鼻筋のいちばん上の部分の皮膚の下に埋め込まれた小さなスイッチを左手の人差し指で押しながら、右手に持ったマウスで画面をスクロールさせていく。画面上の膨大なデータが視覚を通し、秒速で電子頭脳に記憶されていった。