家族
6.家 族
子どもの頃からにらめっこでは負けたことがなかった。生まれながらにコツを心得ているのだ。このタイミングで表情を崩せば絶対に相手は耐えられなくなり、破顔する。そのときの笑い声の響き、張り詰めていた空気が一気に緩む感じは、彼女―――里中ひとみにとって至福の味わいだった。
にらめっこにおけるこの無類の強さが、人生に与えたメリットは小さくない。他人とコミュニケーションを取る中で生まれる様々な種類の駆け引きは、多くがにらめっこにおけるそれと共通していたからだ。
とは言え、もちろん例外はある。その最たるものは恋愛。特に結婚にいたる恋愛には彼女の“にらめっこテクニック”はまったく意味をなさなかった。どこで表情を崩すべきか混乱し、相手の心はもとより、自分の気持ちをコントロールすることもままならない。
しかし、ひとみにとってその体験はとても新鮮で、これまでのようにスムーズにいかないコミュニケーションにちょっとした感動を覚えた。そして幸いにも相手との関係はより充実したものになり、半年前に婚約。結婚はもう目の前にある。
さて、もう一つの例外は、今、目の前に座っているじいさん―――テツである。
こぎれいに整えられたナーサリーライムの面会ロビー。ここは入居しているじいさん・ばあさんと、その家族や身元引受人が面会する場所になっている。外光がたっぷりと入るゆったりしたスペースに、いくつも並んだソファセットの、少し渋めのオレンジ色、それとコントラストをなす観葉植物の濃い緑が落ち着いた雰囲気をかもし出している。
ひとみとテツはそのソファの一つに向き合って座り、もう二十分近くもひたすらにらめっこを続けていた。二人がこうしてにらめっこをするのは今日が初めてではない。ひとみはしばしばナーサリーライムを訪れ、テツと会っている。特に婚約をしてからは、より足繁く通うようになっていた。頬にかかってくるほつれ毛をうるさそうに指で後ろになでつけ、もう一度、ひとみは上目づかいにテツの顔を覗き込む。するとそれに応じるかのように、テツもひとみの顔を覗き込む。はたから見ればたしかににらめっこだ。ただし、目的は相手を笑わせることではない。
「どう、思い出した?」
ひとみがそう問いかけると、テツは目線を外して大きなあくびをした。
「だめか・・・」
ひとみの方は大きなため息をつき、がっくりと肩を落とす。
「せっかく来たのに」
そう言ったのはテツの方だ。
ひとみは思わず苦笑しながら、
「それはわたしのセリフでしょ」
「いつも言っている」
「そうね。でも、これからはあまり来られなくなるかも知れないわ」
「来ない?」
テツの声にやや不安げな気持ちが混じった。それを察したひとみは、少しだけためらったが、思い切って言った。
「結婚するの」
三秒間ほどの沈黙の後、テツはいきなり立ち上がり、大声を張り上げた。
「パラララララーン、パラララララーン・・・・」
調子ははずれているが、間違いなく結婚行進曲のメロディだ。
他のじいさん・ばあさんたちやスタッフたちが何事かと集まってくる。ひとみはびっくりして止めようとしたが、歌が終わる頃にはすっかり人に取り囲まれていた。
「結婚おめでとう!」
テツのひときわ大きな声と集まった人たちの拍手がロビーに響きわたる。
ひとみは当惑しながらも、突然訪れたお祝いのセレモニーに感激し、「ありがとう」と、テツや周囲の人々に頭を下げた。
見上げれば真っ青な空。てっぺん近くでは灼熱の悪魔のような太陽がギラギラと輝いている。その強烈な日差しを浴びて、だだっ広い駐車場に停めた車はこんがりローストされていた。
―――車内は想像を絶するサウナ状態だろう。
覚悟を決め、ハンドバッグから取り出したリモコンのボタンを押す。カチャリというキーが開く音が、周囲のセミの大合唱の中で響く。そのとき―――
「ひとみさーん!」
キーのさらに何倍もの音量で声が響いた。
振り向き、サングラスをずり下げると、玄関口から二つの人影―――テツとテルミが手を振りながら走り寄ってくるのが見える。
ひとみも二人に歩み寄って行き、先に口を開いた。
「今日はどうもありがとう」
「いいえ、こちらこそ。本当におめでとうございます」
テルミが屈託のない口調でそう言うと、その横でテツがまたもやアカペラで結婚行進曲のメロディを奏でた。
「パラララ、パーンパンパパンパンパンパン・・・・・」
ひとみは愛おしそうにテツを見やった後、テルミに言う。
「本当にすごく元気になった。あなたのおかげね」
その言葉にテルミの顔から微笑みが消え、小首を傾げる。このあたりの微妙な心理と動作との連携が、まだまだ人間に及ばず、ロボット的なところを感じさせる。
ひとみがそう思っているところへ、テルミがややためらいがちに質問を投げかけた。
「あの・・・どうして結婚すると面会に来られなくなるんですか?」
「また来るわよ。ただ―――」
そこでテツはピタリと歌うのを止め、二人の会話に割って入った。
「もういい。二度と来るな。おまえと話すことはない」
驚いてテツを見るひとみとテルミ。
「では、さらばだ!」
それだけ言うと、テツはくるりと回れ右をして、もと来た道をまっすぐに帰って行く。
「テッちゃん!」
追い駆けようとしたテルミの腕をひとみがつかんだ。
「あの人、ちゃんとわかっている」
「何を?」
「わたしが新しい家族を欲しがっていること。その代わりに自分を捨てようとしていることも」
「ステル?」
テルミの頭は混乱した。〈捨てる〉とは、この場合、適切な言葉ではない。たしかにひと昔前までは、自分の親の面倒を見るのがやっかいになって、施設に預けっぱなしにするという、いわゆる〈姥捨て〉が大きな社会問題になっていたらしい。
しかし、高齢者人口が爆発的に増えた後の社会福祉政策が功を奏し、現在はそうした問題はほぼ解決されている―――少なくとも研修ではそう習っている。ましてや、目の前のひとみは〈姥捨て〉をするような冷酷な人間でも、いい加減な人間でもないはずだ。ホームに入居している保護者の中で彼女ほどまめに見舞いに訪れる人はいないはずだが・・・。
そこまで考え、テルミは思い切って尋ねた。
「どうして“捨てる”必要があるのですか?」
「わたしはあの人の家族じゃないのよ」
ひとみは意外なセリフで切り返した。
「知らなかった? わたしはあの人の奥さんでも娘でもない。親戚ですらないわ」
「でも、テッちゃんをこのホームに連れてきたのは、あなたじゃないんですか?」
「そうね」
と言った後、ひとみは口をつぐんだ。
テルミはその沈黙の意味を図りかね、次のセリフを待っていたが、なかなか出てこない。
実はひとみ自身もテツと自分との関係はよくわかっていなかった。
年齢の差は四十歳以上。親子関係も婚姻関係もない。広く言えば、やはり“愛人”ということになるのだろうか……しかし、その言葉に付随するセクシャルなニュアンスは微塵もない。
「わたしが子どもの頃の些細な思い出で繋がっていたの。だから身寄りのないあの人を放っておけなかった―――」
やっとそれだけ言ってテルミの表情を見る。やはり理解できていないようだ。無理もない。
「よくわからないかも知れないわね」
「わたしが人間じゃないからですか?」
ひとみは大きくかぶりを振った。
「そんなことはない。人間だってわからない人が多いわ。いいえ、ほとんどの人にはわからないんじゃないかしら」
ひとみはそう言って、もう一度、テルミと向き合った。
テルミの目は美しく澄んでいるが、そこにはロボット特有のうつろさも潜んでいる。彼女はそのうつろな部分を少しでも埋めてやろうと、何かもうひとこと言わなくては、という衝動に駆られた。
「あなたはロボットだけど、人間よりも人間を理解している。いえ、しようと努力している」
言い終えて、余計なことだったかも知れない、と少し後悔した。どうしてそんなことが断言できるのか、うまく説明することができない。ただ、自分がそう感じていることは事実だが。
二人の間を大きなトンボが二匹飛び交い、そのうちの一匹がテルミの頭に止まった。黙ったまま、そうっと手を伸ばしてそのトンボを捕まえようとしたが、間一髪のところで逃がしてしまった。青空の彼方へトンボ―――あれはきっとオニヤンマだろう―――が舞い上がる。二人はそれを見上げて互いにニコリと笑った。
「それじゃ行くわ。あの人をどうぞよろしくお願いします」
ひとみはテルミに頭を下げ、車のドアを開けた。車内からあふれ出た熱気がからだにまとわりつく。 一瞬怯んだが、そのままシートに滑り込み、エンジンを掛けた。
そのとき、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
ひとみは一瞬それに反応したが、よく聞くと自分のではない。テルミはもう一度、ひとみに向かって軽く頭を下げると、おもむろに電話に出た。
「もしもし、テルミです」
電話の向こうで一条が声を上げた。
「面会はもう終わったんでしょ。早く戻ってきて。レクリエーションタイムよ!」
「わかりました」
テルミが電話を切り、向き直ると、ちょうどひとみが車を発進させるところだった。窓の向こうからハンドルを握ったひとみが手を振った。テルミも手を振って応えると、車はそのまま駐車場を横切り、ナーサリーライムから去って行った。
――― 一分間だけ考えよう。
テルミはそう思った。
テツとひとみを繋ぐものは何だろう?
愛?
そうだ、愛だ。しかし、愛にもいろいろある―――いや、いろいろあると聞いた。
どんな愛なのだろう? 二人の間にはどんな思い出があるのだろう?
そこまで思考して、タイムリミットが来た。一条の怒った顔が目に浮かぶ。テルミは気持ちを切り替え、からだを玄関口に向き直した。およそ百二十メートル。それから五秒後には彼女は玄関のドアを開いていた。