プール日和
2.プール日和
その広々とした庭には、美しい緑の芝生が敷き詰められていた。真夏日が続く中でも、毎朝の水やりと三日に一度のていねいな刈り込みによって元気を保っている芝生は、ここで暮らす人たち、ここを訪れる人たちの目を楽しませ、足もとをやさしく包み込んでくれる。さらに、この芝のグリーンをベースに、赤、白、オレンジ、黄色、むらさきなど、花壇に植えられた花々が放つ鮮やかな色彩。
「美しい・・・」
女は思わずそうつぶやいた。
ここは美しい。そして何よりも嬉しいのは、自分にはこの庭を美しいと感じる“こころ”があるということ。こうした“こころ”を与えてくれた生みの親に感謝しなくては―――彼女はこの芝生に足を踏み入れるたびに、思いを新たにする。
「みなさん、お暑い中をお越しいただき、誠にありがとうございます。本日はどうぞごゆっくり〈ナーサリーライム〉の園内をご見学ください・・・・」
マイクを通して園長の声が聞こえてきた。それとともに水の跳ねる音とにぎやかな歓声も耳に入る。どうやら庭の一角にあるプールに人が大勢集まっているようだ。
「おろせ」
背中で声がする。もちろん、彼女がおぶっているテツの声だ。セミ捕りをしていた公園からここまで来る間に眠ってしまったのだが、気配を感じて目を覚ましたらしい。
彼女がその場でしゃがむと、彼は急いで背中から下りて、猛然とダッシュ、した気持ちになった。実際にはその気持ちと裏腹に脚がまったく前に出ていない。
「テッちゃん、気をつけて!」
ヨタヨタとあぶなっかしく走っていくテツの背中に向かって、テルミは思いきり声を張り上げた。
小学校にあるような二十五メートルの水色のプールでは三十人ほどのおとなたちが、それこそ小学生のように水遊びに熱中していた。男も女もみんなカラフルな水着を着けている。しかし、彼ら・彼女らの張りをなくした肌と崩れた体型はその水着にあまりに不釣合いだ。
プールサイドにはそんな老人たちを冷ややかに見つめるいくつもの目があった。男と女、合わせて十人ほど。暑いが彼らはそれなりにきちんとした服装を整え、中にはネクタイを締め、ぴっしりとスーツを着込んだ男も混じっている。
そんな見学客たちを前に、マイクを手にしたひとりの中年の男が、陽気に身振り手振りを交えながら説明を行っていた。彼ももちろん礼を失することのないよう、プールサイドにはどうにも似合わない上等のダークスーツに身を包んでいる。
「今、人生のラストステージに立った人たちにとって、何よりも大切なことは、大いなる心の解放です」
男のかたわらで女がにっこり笑ってうなずいた。やや太めながら、若々しくメイクアップしたその中年女は、純白のナース服を着込んでいる。彼女は説明する男と見学客を交互に見やり、そのままでは口がゆがんでしまうのではないかと思うほど、大げさな作り笑いをキープしている。
男はときどき降りかかる水しぶきを気にすることもなく、老人たちの上げる歓声に負けまいと声を張り上げた。
「この特別養護老人ホーム〈ナーサリーライム〉では、その心の解放ということを、可能なかぎり実現できるよう、毎日さまざまな工夫を凝らしております。たとえば―――」
そこで見学客たちは息を呑んだ。
プールで遊んでいた三人ほどのじいさんたちが巨大な水鉄砲で、話している男の背中に集中放水したのだ。その三人組とともに、まわりにいたじいさん・ばあさんたちがいっせいにケタケタと異様な笑い声を上げる。
一瞬、男は顔を歪ませたが、すぐさま笑顔にもどって背後を振り返り、いたずらジジイたちに手を振った。ところが、そこへすかさず二発目の集中放水が浴びせられる。たまらず男がよけると、今度はその水が見学客たちに引っかかり、ちょっとした騒ぎになった。
男が冷静さを装いながら説明を続ける。
「こうした水遊びを行うことに関しては、安全性などの面で懸念を抱かれる方も大勢おられるでしょう。しかし、ご安心ください。当ホームでは優秀なお世話係を揃えて対処しております」
ナース服の女がさっと手を挙げて合図を送ると、プールサイドにある更衣室からの七人の男女のスタッフがさっそうと現れた。いずれも水着姿が若々しく、まぶしいほど健康的だ。
三人はいきなりプールに飛び込んで、いたずらジジイたちを制し、残りの四人は服を濡らしてしまった見学客たちのケアをする。女性には男性のスタッフ、男性には女性のスタッフ。間近で見るとドキドキしてしまうような美男美女たちが、きれいに統制された動きで、混乱していたその場をあっという間に収めてしまった。
場が落ち着きを取り戻したところで、マイク片手の男―――ナーサリーライム園長・小田部晋作は、ナース服の女―――同看護士長・一条紀子に濡れた背中やお尻のあたりをタオルで拭いてもらいながら、高らかな口調でスタッフたちについて紹介する。
「今、飛び出してきたお世話係たちは、すべて〈イザナミロボテクス〉の最新モデルです」
見学客たちの間から大きなどよめきがあふれた。
紹介されたお世話係のスタッフ―――〈イザナミロボテクス〉の最新モデルたちは、その場で深々と お辞儀をする。見た目はもちろん、小さなしぐさの一つ一つまで、人間とまったく違いがわからない。
一人の見学客の女はメガネをずり上げながら、かたわらにいる男性ロボットの顔をしげしげと覗き込む。するとロボットがフッと微笑を見せる。女はびっくりして顔を赤らめ、思わず目をそらす。胸にキュンときたのが傍目からもわかる。そんな光景を目の当たりにして、小田部と一条も満足げに笑みを浮かべた。
と、そのとき、園庭の向こうから「おーい!」と呼ぶ声がした。
全員が振り返ると、じいさんがひとり、ヨタヨタとおぼつかない足取りで走ってくる。それを見て、プールの中のじいさん・ばあさんたちが口々に叫ぶ。
「テツ!」
「テッちゃん!」
テツは大きく手を振り、プールサイドに走りこんでくる。
「おれも入るぞ!」
「玉田さん!」
一条が声を上げると、プールの中にいたお世話係のロボットの一人が、あわてて水から上がり、テツを制止しようとした。
しかし、そんな時に限ってテツの動きはすばやい。とても年寄りとは思えないような身のこなしで、捕まえようとやってくるロボットから身をかわし、プールへ思いきりダイブする。
「泳げないんじゃなかったか?」
小田部が一条にささやく。
一条は目を剥き、声にならない叫びを抑えるように、両手で口をふさいだ。
そこへ空を切って浮き輪が飛んできた。
テツは空中でそれをキャッチして、そのまま着水。
輪っかの中にからだを入れてプールの水に浮かぶと、まわりのじいさん・ばあさんたちはやんやの喝采を送る。
「誰が浮き輪を・・・」と、小田部と一条が後ろを振り向くと、彼女が立っていた。
「テルミ」
一条がつぶやく。
それが彼女の名前―――いや、ナーサリーライムが購入したイザナミロボテクス社の製品のニックネームだった。
テツのダイブによって、じいさんばあさんたちは大きくはじけた。
「みゅーじく!」
真っ赤なビキニを着たばあさん―――どうやら彼女はそのむかし、それなりに名の売れたミュージシャンだったらしい―――が、よく通る声を上げると、プールサイドのスピーカーから陽気なロックンロールが流れてきた。二十世紀製の大衆文化が最も劇的に進化したといわれる一九六〇年代に大ヒットを記録した曲で、その後もポップス系音楽のスタンダードナンバーとして愛好されている。
ばあさんは流暢な英語でその歌をうたいながらテツの手を取り、踊り始めた。周りのじいさんばあさん、そして、お世話係のロボットたちも口々に歓声・奇声を上げながら、からだをツイストさせる。
テルミも音楽に乗って、プールの縁の上を踊りながら回っていく。リズミカルでシャープなからだのキレ。その姿はまるでミュージカルスターのようだ。
そして、曲のクライマックスを迎えると、彼女は高々とジャンプし、美しいフォームでプールの中へ飛び込んだ。そこでまたもや、じいさんばあさんたちははじけとんだ。
「まさしく“心の解放”というやつですな」
見学客のひとりがボソリとつぶやく。
「は、はい・・・」
小田部と一条は笑顔で取り繕うが、そのあとは言葉が出てこない。
「こんな施設は初めてだ」
「あら、どういう意味ですか?」
「ふざけている」
「あら、素晴らしいじゃないですか」
「そうですよ。他のところではこんなしあわせそうなお年寄りの顔は見られませんよ」
「でも、いくらなんでもやりすぎだ」
「いいじゃないか、これくらいやった方が」
見学客の間から賛成・反対の声が乱れ飛ぶ。
「スタッフだってすてきじゃないですか」
「ロボットだ」
「介護ロボットがこれからの老人介護に必要不可欠なのは、もう常識じゃないか」
「しかし―――」
「あなたはロボットを差別するんですか?」
「時代おくれもいいところよ!」
「まあまあ、みなさん、落ち着いて」
と、エスカレートする言い争いに割って入ったのは小田部だ。
その小田部に見学者のひとりが質問した。
「あの最後に出てきたカッコいい彼女、彼女も〈イザナミロボテクス〉ですか?」
「そうです」
小田部は答えて、コホンとひとつ、咳払いをする。
「当ホームでいちばん優秀な介護ロボットですの」
一条は笑顔をキープしたまま、そう答えると、クルリと後ろに首を回した。プールの中ではじいさんばあさんたちがますます盛り上がっている。一条はその中心にいるテルミを怒りのこもった目でにらみつけ、再びクルリと笑顔を見学者たちにもどす。
それからしばらくの間、小田部と一条は、テルミが介護ロボットとしていかに優れているか、ナーサリーライムの事業にどれだけ貢献しているか、さらに高齢者福祉を考える上で、彼女の存在・パフォーマンスがいかに貴重なデータになり得るか、といったことをえんえんと説明しなくてはならなかった。