セミ捕り日和
1.セミ捕り日和
ギラギラと輝く真夏の太陽。
その光をぜんぶ受け止めようーーーそんな勢いで両腕をめいっぱい広げ、巨大な木がそびえ立っていた。葉っぱの色は真夏の真みどり。もじゃもじゃと枝いっぱいに生い茂っているその中に隠れて、やつらがいるのだ。
チッチ、ミンミン、ニイニイ、アブラ、クマ、ヒグラシーーー小さななりで人間をビビらせるほどの大音量を発するセミたち。やつらはもの心ついて以来、春も秋も冬も知らない。この夏の真っ青な空、真みどりの葉っぱ、おいしい木の幹のジュース、そして、命のエネルギーを燃やし尽くす情熱的な恋こそが世界のすべてだ。
地上に上ってわずか数日、花火のような“虫生”は、せつなくて美しい。魂のぬけがらはアリたちにバラバラにされて、ふるさとである地の底に帰っていく。残酷なようだが、このならわしもまた、自然の法則にのっとった夏の風景のひとつだ。
とはいうものの、人間は、とりわけ、セミを捕りにやってきた子どもは、そんなことに思いをめぐらせているヒマはない。今、ここにも、麦わら帽子をかぶり、虫かごをたすきがけにし、虫捕り網を持った女の子が、目をらんらんと輝かせ、首の筋肉をいっぱいに伸ばして、頭上をにらみつけている。年の頃は六つか七つ。身長百十五センチほどの彼女にとって、セミが潜んでいる梢は、はるかに高く、ほとんど天上の世界に属している。
女の子はその世界を右手の人差し指でさっと示し、となりにいる男の顔を見た。そのときも彼女は首の筋肉を少し伸ばさなくてはならなかったが、男はすぐにしゃがんで、自分の目の高さを女の子のそれに合わせた。
男はセミのいる梢の場所を確かめると、ふたたび立ち上がる。身長は女の子の一・五倍。麦わら帽子、虫カゴ、虫捕り網といういでたちは女の子と同じ少年のようだが、彼はおとな、いや、すでにおとなを通り越していた。年の頃はおそらく七十をとうに超えているであろう。ようするにじいさんだ。しかし、そのじいさんの目は女の子に負けないほど輝いている。
じいさんはおもむろに自分が持っていた網を女の子に手わたす。そして、履いていたサンダルを脱ぐと、低い枝に手をかけ、ごわごわした木肌に足をかけて登り始めた。少年のようにスルスルと、とはいかない。一歩、二歩、三歩・・・皺にまみれた細い腕と脚が伸び縮みするたびに、ゆるゆるになったゴムのような筋肉がピクピクと震える。それでもゆっくり少しずつ、確かな動作をくり返し、自分の新しい可能性に挑戦するかのような様子で上へ上へと登っていく。もう少しだけ手を伸ばせば届きそうな、わずか一メートルそこそこ先にある小さな夢へ向かって。
ジーッ、ジーッ、カシュン。
小さな音を立てて、それまで絶え間なく動いていたレンズが止まった。視界に木登りじいさんを捕らえている。きちんと照準を合わせ、ズームイン。
まちがいない。たしかにあれは“テッちゃん“だ。
レンズの持ち主の頭脳はそう確かめる。そしてすぐさま、彼がいま現在置かれている状況が危険であることを察知する。信号が伝わるまでの時間は〇・二秒。
次の瞬間、今度は二本の脚の神経に別の信号が送られる。精巧に作られた鋼鉄のフレームを、やわらかな人工の肉と皮膚で包み込んだ美しい脚が、カモシカのようにしなやかに動き出す。
またたく間に加速し、走りのスピードはいっきにトップレベルまで上がる。伸び放題の夏草が疾風にあおられ、大きく揺らぎ、ざわめいた。そのランナーは走る一方、明晰な頭脳で目標までの距離と自分の速度とを合わせて計算し、到達するまでの時間―――十二秒六をはじき出す。
二百五十メートル先で風が巻き起こったとき、じいさんの目は梢にへばりついているミンミンゼミを捕らえていた。透き通った羽根、緑と黒のだんだら模様のからだ。じいさんはニンマリと笑って、下で待っている女の子に手を振って合図を送る。女の子はそれを見てうなずき、虫捕り網を手わたそうと、小さなからだをぐいっと伸ばした。しかし、それを受け取ろうと腕を伸ばしたじいさんのからだは、すでに使い古され、そこでバランスを保っていられるほどの強さを失っていた。
「あっ」と驚いた女の子の顔がななめになって見えた。
じいさんの頭に“万有引力”という言葉が思い浮かんだ。そうなのだ。地球の上ではリンゴはすべからく木から落ちる。ひとのからだもリンゴと同じ物体である以上、やはり落下する。その先にあるものは、地面にたたきつけられる衝撃と、そのすぐあとにやってくる激痛、そしておそらく、どの部分になるかはまだわからないが、打撲・骨折という大ダメージも。
と、そのとき、風が届いた。走りこんできた女―――そう、ランナーは女子選手だった―――が大きくジャンプし、落下してきたじいさんのからだを地面すれすれのところで抱きとめた。
ギギッ―――
ほんの一瞬、女のきゃしゃな両腕から、かすかに金属のきしむ音が漏れた。
セミの鳴き声が途絶え、代わりに小さなパタパタッという羽ばたきの音が耳にひびく。
抱きとめられたままの格好で、じいさんはほんの数秒前まで自分がいた木の梢の辺りを見上げた。そのそばで女の子はまんまるに目を見開き、ぽかんと口を開けて突っ立っている。彼女の頭の上を先ほどのミンミンゼミと思しき虫が、気持ちよさそうに透明の羽根を羽ばたかせながら横切って行った。
それを見て、じいさんは女の子に向かって照れ笑いを見せながら言った。
「すまん、逃がしちまった」
女も彼を抱えたまま、いっしょに微笑んだ。人をしあわせな気持ちにする、あたたかく自然な微笑み。長い間、それは人間だからこそ作り出せるものだと信じられていた。少なくとも二十一世紀の前半までは。