白い結婚を終えましたので、蜜蜂と辺境へ参ります 〜「巣箱など置物だ」と笑った旦那様、今年の果樹園は実りませんよ〜
三年のあいだ、庭の隅で蜂を飼っていた妻の話です。
一話で終わります。旦那様は、悪人ではありません。ただ、庭の奥まで来なかっただけです。
旦那様が書類を読み上げているあいだ、わたしは窓の外を数えていた。
四十七、四十八。
巣門の前を出入りする数だ。三月の下旬にしては多い。暖かい日が続いたから、群れが早く育っている。この調子だと、分蜂は四月の頭だろう。
「アデルハイト」
「はい」
「聞いているか」
「三年の期限が本日で満了、と伺いました」
旦那様は、少し黙った。それから書類を卓に置いた。
「そうだ。婚姻はもともと、同盟の担保だった。北の街道が通り、担保は要らなくなった」
「存じております」
「白い結婚のままだったことについては、その、こちらにも」
「お気になさいませんよう。取り決めのとおりでございます」
五十一。五十二。
旦那様が、わたしの視線を追って窓の外を見た。庭の奥、生垣の向こうに、白く塗った箱が並んでいる。
「まだあれをやっていたのか」
「はい」
「巣箱など置物だろう。庭に置いておく分には構わんが」
三年前、嫁いできた月にも同じことを言われた。言葉まで同じだった。旦那様は、この三年で一度も生垣の向こうへは来ていない。
わたしは膝の上で手を揃えた。数えるのをやめた。
「白い結婚を終えましたので、蜜蜂と辺境へ参ります」
「……蜂を、持っていくのか」
「わたくしのものでございます」
「それは構わんが」旦那様は眉を寄せた。「辺境などへ行かずとも、実家に戻れば」
「トアリンゲンの辺境伯さまが、蜜源のある土地をお貸しくださるそうです」
「蜜源」
「花のことでございます」
旦那様は「ああ」と仰った。分かっていない声だ。それで話は終わりになった。
◇
巣箱を車に積むのに、三日かかった。
蜂は夜のうちに巣門を閉じて運ぶ。日が昇る前に出れば、道の揺れで群れが荒れにくい。庭師のヴィムが手伝ってくれた。三年、水をやる場所を代わってくれた人だ。
「奥様。箱が三つ、余っております」
「置いてまいります」
「中身は」
「ございません」
ヴィムが、わたしの顔を見た。
「置物がお好きでいらっしゃるようでしたので」
これは意地だ、と言ってから思った。思ったが、直さなかった。空の巣箱を三つ、もとの位置に並べて、生垣の内側から見ていちばんよく見える角度に、向きまで揃えた。
◇
蜂は、蜜を集めているように見えて、花粉を運んでいる。
運ばれた花粉が雌しべに着いて、はじめて実になる。梨も林檎も、自分の花粉では実がならない。別の木の花粉が要る。それを運ぶものがいなければ、花はただ咲いて、ただ散る。
レンフェルト公爵領の果樹園は、丘の南向きに二百本ある。
わたしは三年、四月のはじめに巣箱を果樹園の風下へ移し、花が終わると庭へ戻していた。誰にも言わなかった。聞かれなかったからだ。
旦那様は、収穫の帳面はご覧になる。梨の出来がよければ「今年は天気がよかった」と仰る。悪ければ「霜だ」と仰る。
三年とも、よい年だった。
◇
トアリンゲンは、公爵領から馬車で六日の北にある。
石の多い土地で、麦は痩せるが、蕎麦と菩提樹と石楠花がある。花の種類が多いということは、春から秋まで途切れなく蜜が採れるということだ。
辺境伯テオドールさまは、着いた日、巣箱の前にしゃがみ込んで動かなくなった。
「触ってはなりません」
「分かっている」と言いながら、顔は近づけたままだった。「これは、出ていっているのか。入っているのか」
「両方でございます。出ていくのが仕事に行く子で、脚に黄色いものを付けて戻るのが、花粉を持ち帰った子です」
「花粉」
「果樹の実は、これがないとなりません」
辺境伯さまは、しばらく巣門を見ていた。それから立ち上がって、上着の膝を払った。
「働きに出ているのか」
わたしは、返事をするのに少し間を置いた。
三年、置物と呼ばれていたものが、その日、働き手になった。
「はい。日の高いうちだけでございます」
「では、日が落ちたら休ませてやってくれ」
その言い方で、この土地でやっていけると思った。
◇
トアリンゲンの果樹園は、三年で四十本から百二十本になった。
村ごとに巣箱を置いた。蕎麦の村、菩提樹の村、石楠花の村。蜜の色も匂いも違うので、桶に村の名を書いた。行商が来るようになり、行商が来ると、よその土地の話も一緒に来る。
レンフェルトの話は、果実商が持ってきた。秋に蜜を買いつけに来る男で、南の街道を回ってくる。
「あちらの梨、年々おかしくなってましてね」
「おかしい」
「はじめは数が減って、次は形です。片側だけ膨れて、こう、傾いてる」
男は指で歪んだ丸を作ってみせた。
「今年はもう、樽で買う人がいません。旦那様は霜のせいだと仰るそうですがね、霜の年は花が落ちるでしょう。あちらは、花だけは咲くんですよ。咲いて、そのまま散る」
「そうですか」
「奥様、あれは何のせいですか」
わたしは桶の蓋を閉めた。
「わたくしには、分かりかねます」
嘘だった。
果実商は首を捻って、それから思い出したように言った。
「そういえば、あちらのお庭に白い箱が三つ並んでましてね。よく手入れがされてる。あれは何です」
「置物でございます」
◇
四月のはじめ、いちばん古い巣箱の前に、蜂が団子になって垂れ下がった。
分蜂だ。新しい女王が育って、古い女王が半分の群れを連れて出ていく。巣が壊れたのではない。増えたから、分かれる。
辺境伯さまが、走ってきた。走ってくる人ではないので、驚いた。
「アデル。あれは、逃げるのか」
「増えたのでございます。今年は二つに分かれます」
「二つ」
「はい。ですので、置き場をもう一箇所」
辺境伯さまは、垂れ下がった蜂の塊を見上げた。そのまま、こちらを見ずに言った。
「アデル。来年も、ここにいてくれるか」
わたしは、袋の口を縛る手を止めなかった。
「群れが分かれますと、置き場を決めるのに冬のあいだ相談が要ります。日当たりと、風下と、水場との距離です」
「ああ」
「ご相談さしあげても、よろしいでしょうか」
「ああ」
辺境伯さまは、二度頷いてから、動きを止めた。それから耳のあたりを赤くして、蜂の塊のほうへ向き直った。
わたしは袋の口を縛り終えて、脚立を取りに行った。日が高い。この時間の群れはおとなしい。今日のうちに、新しい箱に移してしまいたかった。
お読みいただきありがとうございました。
蜂は蜜を集めているつもりで、花粉を運んでいます。本人にその自覚は、たぶんありません。
この「葉山みのり」名義では、一話で終わる話を書いています。
・跡継ぎを十四年仕込んでいた妻の話 『「初恋の方のお子を跡継ぎに」と仰いますので、娘と出てまいります』
https://ncode.syosetu.com/n7238mn/
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・白い布を三年ぜんぶ縫っていた妻の話 『婚姻届に旦那様の署名がありませんでしたので、この白い結婚は無効です』
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・鳴っていない鐘の刻に断罪された令嬢の話 『聖女を突き落とした刻、わたくしは宰相閣下と密室におりました』
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