馬車の中で
私の姿を見たアナベルちゃんの両親(仮)は、それぞれ異なる反応を示してきた。
榛色の髪と目をした父親は、アナベルを抱えながら無表情になり、アナベルと似た容姿の母親は、こちらを見ると目をまん丸にして、ますます取り乱しはじめた。
「あらあら、まあまあ! どうなさったの? 髪が濡れていらしてよ! 服も汚れて……も、もしかして、不埒者にでも襲われて?! た、大変! 可哀想に、こちらにおいでなさいな」
本気で心配してくれる彼女に、今までの緊張が一気に瓦解して、どっと涙が溢れ出した。
優しい……優しすぎる。私なんて怪しい人物でしかないだろうに。このまま一人で頑張らないといけないのかと思ってた。エレノアの記憶だって断片的で、私は私で誰だか分からないし。こんな状況で無事に生き延びられるのか怪しかった。どうしよう、この人たちに助けを求めてもいいんだろうか……。ルシアスには絶対捕まりたくない……。でも、この人たちのことを私の事情に巻き込みたくもない。何も分からない世界で一人なの、怖いよ……。
項垂れて目元を擦る。その場から一歩も歩けず、震える口から嗚咽を零すことしかできない。
「お姉ちゃん、どこか痛いの? 大丈夫?」
「……とりあえず馬車に乗りなさい。泣いている子どもを見捨てるほど、トゥルー家は落ちぶれてはいないよ」
肩に暖かな手が触れてきた。顔をあげると心配げな表情をした三人が見つめてきていた。
「あ、ありがとう……ございます」
三人の優しさに救われながら、たどたどしく言葉を発して、体が勝手に貴族的な礼をする。
こんなお辞儀、私したことないっ。やっぱり私は……エレノアなのかな……。た、多重人格とか? もうやだ。考えるのやめよう。ルシアスに捕まらなければ何でもいいや……。
「君は……いや、貴女は高貴なご令嬢のようだね。何か事情がお有りとお見受けする。礼はいいから、ひとまず馬車の中で体を休ませるといい」
涙を拭い、もう一度深々と礼をして背筋を伸ばした。
◆◆◆
馬車の中は四人で座っても広々としていた。
汚れた服装のまま座るのは忍びなく、躊躇していたら、夫人がもう使わない布切れ(どう見ても綺麗なハンカチだった)と言って、私が座る位置にそのハンカチを敷いてくれた。
夫人の好意を無下にもできず、恐縮しながら座りほっとため息をついたのだった。
「お姉ちゃん。さっきはお菓子あげれなかったから、はい、どーぞ!」
「アナベルちゃん……ありがとう」
隣りに座った少女が差し出してきたビスケットらしき物を受け取り、一口食べる。
「美味しい……っ」
なんでこの体はこんなに涙脆いんだろう。人の優しさって、こんなにも有り難いものだったかな……。
「お姉ちゃん、そんなに泣いたら溶けちゃうよ? どこが痛いの? アナベルが、痛いのお空に飛んで行けーってしてあげる!」
斜め下から覗き込んでくる少女。思わず抱き締めたくなり、服が汚れてると自重した。
代わりに自身の目を擦り、涙を必死にとめる。
「お姉ちゃんはね……これからどうしたらいいのか分からなくて。自分が誰だか分からなくて、怖かっただけなんだ。心配してくれてありがとう」
本音を吐露してしまった後、はっとしてアナベルの両親の方を見た。
ヤバくない? 今私、不審人物で危険人物で記憶喪失の三重苦みたいな人間だと思われたんじゃ……。ば、馬車から放り出される? いや、この人たちはそんな人じゃないとは思うけど。あぁぁ、軽く口が滑った。どうしよう、どうしよう!
「……記憶を失くしてしまうほど、辛い目に遭ったのね!? もう大丈夫よ。ステファン。困っている子どもを見捨てることなんてしないわよね?」
扇で口元を隠したロザリナが、榛色の目を悲しげに垂れさせてこちらを見た後、横に座っているステファンに強気な視線で目配せをする。
「そうだなロザリナ。……どうすればいいか分からないのであれば、アナベルの遊び相手になってみるのはどうだろう? そろそろ、本格的に礼儀作法も教えなければならない時期なのだが、貴女の作法をアナベルに見習わせてやってはくれないか?」
思いも寄らない申し出に目を丸くする。
ステファンさんの提案はすっごく助かることだけど、私のスキルって西洋剣術と付け焼き刃の乗馬術くらいで。礼儀作法は専門外だってば。エレノアの記憶を漁ればいいのかもしれないけど、もっと混ざって私が私じゃなくなったら……怖くて漁れないって! でも! 居場所ができるのは、願ってもないし。
「あの、私、礼儀作法を教えられる自信がなくて。逆にご迷惑になってしまうのではと思うのですが……」
口元を押さえながら視線を逸らす。
「その心配は必要ないと思うのだけれど。ステファンもそう思うわよね?」
「お姉ちゃんの動き、絵本の中の王女様みたい! とっても綺麗だよ?」
「ロザリナとアナベルの言う通りだ。貴女の所作には端々から気品が漏れ出ているよ。記憶がなくても体は染み付いた作法を忘れてはいないらしいね」
口元を押さえている指を見て、愕然とする。
こんなに淑やかな動作、今までしてきた記憶ないんだけど! かんっぜんに無意識だった……。エレノアの体だから文句を言えることじゃないんだけど、勝手に体が動いてるの怖すぎ!! このまま剣術の動作を忘れてしまったらどうしよう……忘れないように毎日鍛練しないとだ。
「行く場所がなかったので、そう言って頂けるのであれば、有り難くその役目を引き受けます。あの、これからよろしくお願いいたします」
戸惑いながら頭を下げる。どっと疲れが押し寄せてきた。夜通し馬を走らせたつけが回ってきたらしい。
「こちらこそアナベルをよろしく頼むよ。ただ、貴女に記憶がないのは承知していることだから、気負わなくても大丈夫だ。遊び相手として教えてくれるだけでいい。実は、もう礼儀作法を教えてくれる夫人は決まっているからね。貴女に居場所を与えてあげたかったんだ。回りくどくてすまないね」
優しさの中に申し訳なさが混じったような表情。
気を遣ってくれたんだ。いい人過ぎない? この人たちが悪い人に騙されないか心配になってきたんだけど。この恩はいつか返さないと。……ところで、いったいどこに向かってるんだろう……。あと私、自己紹介も何もしてない。何たる不覚!
「いえそんな。拾って頂けただけでも有り難いのに、ここまで気を遣って頂いて。自己紹介もできない身ですが、とても感謝しています」
「そう言えば、わたくしたちも自己紹介をしていないわ?」
「遅くなったが、私たちは南方の隣国ミルドネス帝国のトゥルー伯爵家だ。私はステファン・トゥルー。こちらは妻のロザリナ。そして、娘のアナベルだよ」
伯爵が夫人とアナベルを順に紹介してくれた。
南方の帝国貴族……これなら、あの男から逃げ切れそう。この人たちがルシアスの味方だったらって怖くてエレノアの名前を出せなかったけど、正直に名乗っても良かったかも……やっぱりやめとこう。エレノアはこの国の王女様なんだよね……トゥルー家を巻き込まないためにも、素性は隠しておくべきだ。
考え始めた途端、胸中からエレノアの叫びが湧き上がる。
お父様とお母様からエイラと呼ばれていたわ。もうそう呼んでくれる人はどこにもいないの。また呼んで貰いたい……っ!
「エイラ……私のことはエイラと呼んで下さい。なぜか懐かしく感じるんです」
彼女の叫びに突き動かされ、切実な声が出た。
どうしても私はエレノアに逆らえないらしい。言葉にならない諦念を抱えて、そのまま糸が切れたように視界が暗転した。




