瞬きしたら
西洋剣術の道場からの帰り道。夜空の星に目を奪われ、空を見上げて瞬きをした瞬間、その夜空が黒い手袋に変わっていた。無数の宝石が縫い付けられた手袋。
なにこれ。
もう一度瞬きをした。黒い手袋に煌びやかな装飾。視界は全く変わらない。ぱちぱちと瞬き。首を傾げて体を見下ろす。黒いドレスにこれまたキラキラしい宝石の意匠。視界に薄いヴェールの端っこが見える。ピンときた。
これ、花嫁衣裳だ! え、なんで? ジャージは? カバンは……? 私の大事な剣はどこいった!?
わたわたと周囲を見回す。足を動かそうとして、自身が座っていることに気がつく。一瞬前までは立っていたのに謎である。床には豪華な絨毯が敷かれ、その上に長いヴェールが広がっていた。
「どうなってんの!?」
……っ! 声が違う!
喉元を押さえて目を見開いた。
普段聞き慣れたアルト声が、少し掠れたソプラノ寄りの声に。喉を押さえて気づいた喉の痛み。もしかして、泣いてた?
目元を押さえると、濡れた感覚が手袋越しからでも伝わってくる。それと同時に怒涛の感情が押し寄せてきた。
嫌! 嫌よ! 結婚なんて嫌! 信じていたのに! あんなに優しい従兄だったのに! 酷い裏切りだわ……。お父様、お母様っ! わたくしはどうしたらいいのっ!? 逃げたい、逃げなければ! 簒奪者などに正統な資格を与える訳にはいかないわ! でも、どうしたら……こんな塔に閉じ込められてっ。このまま結婚させられてしまったら……誰か助けてッ
成人してこのかた、泣いたことなんてアニメ映画を見たときくらいだったのに、ぶわりと涙が溢れ、止まらない。自身の感情でもないのに、混乱と絶望と恨みに支配される。
さめざめと泣いていると、剣術の鍛練で鍛えられた勘のいい耳に、扉の外から塔を登ってくる硬質な足音が飛び込んできた。
簒奪者ッ! まさか、今日……なの!? ……死んでしまいたい!
「死にたいとか言うなッ!!」
聞き捨てならない感情に、気がついたら怒鳴りつけていた。内なる感情が静まり返る。ちょっとした罪悪感が頭の中を過ぎった。
扉から誰かが入ってくる。騒つく胸中から推測すると、簒奪者がきたらしい。警戒しながら、いつでも攻撃できるよう体に力を込めた。
「エレノア。いつまでも泣いて私の手を煩わせるな。私が疑われるだろう? 君を無理やり花嫁にしようとしているのではと。優しくしているうちに、泣き止むといい」
絨毯に落とした視線の先。鉄の装飾が施された革靴が目に映り、かがみ込んできたらしい男の指がヴェール越しに顎を掴んできた。ぐいっと上向かされて視線が交差する。
……っ。お父様とお母様を殺した手で!
「触らないで」
エレノアと呼ばれたこの体の嫌悪感と、自身が見知らぬ男に無遠慮な扱いを受けた怒りで、冷淡な声が出た。
睨みつけた先には、白銀の髪を首元で括り、切れ長の黒目を考えるように細めた、酷薄そうな男の顔があった。
「急に強気だな。昨日までは泣き叫ぶことしかしていなかったというのに。私は今の方が好みだぞ。結婚式が楽しみだな?」
唇が近づいてきて総毛立つ。
このっ! 痴漢があぁぁ!
奪われる前に、ドレスの裾を翻して、男の腕を捉えて組み伏せた。その動きで目の前を薄く覆っていたヴェールが外れ、視界が広がった。
男が体の下で呻いている。その姿を冷たい視線で見下ろしながら、何か武器になる物を持っていないか目で確かめた。
男の腰に剣が差してある。これ幸いとその剣を奪い取り、剣先を男に向けた。
……重いっ。この体、一応は鍛えられているみたいだけど、私の体よりも非力だ……。ここは逃げるが勝ち!
「追いかけてきたら殺す」
引き摺るように剣先を男に向けながら、すり足で背後の扉まで移動する。
「……エレノア? その剣は私の物だ」
上体だけ起こして乱れた前髪を整えながら、視線を向けてくる男。その表情には少しの困惑と、それ以上に不気味な微笑が浮かんでいた。
気持ち悪ッ!!
首筋に鳥肌を立てながら、男を威嚇して扉から飛び出し、塔の階段を駆け下りる。とは言っても、重いドレスと剣に重心を振り回され、歩き降りると言った方が正しかったかもしれない。
階段の終わりまで降りると、塔の出入り口に二人の剣士? 兵士のような人影が外を向いて立っていた。
この剣じゃ、まともに戦えない。レイピアみたいな細い剣はないの!? エレノアが持っても動けそうな剣は?
物音を立てないように一階を見渡す。壁際に複数の武器が置かれた棚があった。その中に持ちやすそうな短剣と細剣があるのを目敏く見つけ、小さく拳を握りしめた。
きたこれ! 運は私の味方だ! 良かったね、エレノア。これで結婚の危機は去るよッ! あんな不気味な男と結婚してなるものか! でも、このドレスも邪魔なんだよね……宝石は逃亡資金になりそうだけど、服は……あの見張りから奪おう!
ドレスの裾を捲りあげ、武器棚まで移動した後、重い剣を棚の横に立てかけ、短剣と細剣を手に取った。床に細剣を置く。
短剣の鞘を抜き、ドレスの邪魔な布を切り裂いた。ドレスの膨らみを作っていた布も脱ぎ去り、肌着を大胆に縦に割いて、足の間に通し、腰の後ろでズボンのように結んだ。
ドレスに付いていた宝石は、取れるだけ剥ぎ取り、胸元に押し込んだ。ジャラジャラするけど仕方ない。
何度か屈伸し、腕を回す。よし、これなら動ける! だけど……この髪も邪魔……かも。エレノア、切ってもいい?
乱れた銀髪が動く度に目にかかり、先程から収まりが悪かった。心の中に問いかけると、胸がズキリと痛み涙が盛り上がる。それでも「いいよ」と言われたような気がした。
ごめんね、エレノア。
短剣の剣身に悲しげな深緑の目が写り込んだ。綺麗な目。こんな時でなければ、この目ももっと明るく輝いていたのだろうか。唇を引き結び胸の痛みごと髪を切り捨てた。頭上から鋭い視線を感じ上を見る。あの男が、階段の縁からこちらを覗いていた。片眉を上げ、余裕そうな微笑を浮かべている。そこで高みの見物でも決めてるのか。追ってこないならどうでもいい。
涙を拭い前方を見つめる。ドレスの切れ端でベルトを作り短剣を腰に差す。細剣を床から持ち上げ、鞘を付けたまま正眼に構える。一度目を閉じて深呼吸。
かっと目を見開き極力音を立てずに兵士の後ろまで駆ける。それでも石畳からは走る音が反響し、兵士が振り返りかけた。
背後からの奇襲。卑怯者と罵られても構わない。こちとらエレノアの尊厳がかかってる!
体格の大きい方の兵士の後ろ膝に柄を叩き込む。短い悲鳴を発してくずおれた男の背に馬乗り。首筋に細剣の先端を渾身の力で叩き込み意識を刈り取った。
「何やつ! ……ッ……!?」
もう一人、倒れた兵士よりも小柄な男。驚愕の視線を向けてくるのに勢いよく接近し、細剣の鞘が付いたままの切先で胸元を突こうとして弾かれた!
内心舌打ちして半身の構えを取り、兵士の剣と合わせ払い除ける。
男は混乱の眼差しをこちらに向け、呆然と斜め上に振り払われた手元を見ている。
戦場での思考停止は死を意味するのに! 私にはチャンス!
がら空きの顎先に刺突を繰り出し、男の脳を揺らした。目前の兵士はふらりとよろめき、背後から倒れ込んだ。
詰めていた息をゆっくりと吐き出す。心臓が激しく鳴動しているのを感じる。額と首筋、脇の下にじっとりとした汗が浮いているのが分かった。当然だ。今まで殺す勢いで戦ったことなどなかったのだから。
……生きてる? 生きてるよね……。
大柄な男の呼吸を確かめ安堵のため息を吐き、小柄な男の口元に手をのせ、またも安堵する。
生きてると分かれば遠慮はいらない。素早く小柄な男の服を剥ぎ取り、ドレスを脱ぎ捨てて着替えた。
……着たはいいけど、なんか嫌だ……エレノア、知ってる服屋とかないかな……? 身を潜めながらできるだけ早めに着替えたいよね……。
心の中で問いかけても、彼女からの返事は無かった。
エレノア? どうしたの……エーレーノーアー! ……も、もしかして、今の戦いで気絶……しちゃったとか!? ちょ、ちょっとエレノア!! 私この状況も場所も何もかも、情報ないんだけど! と、とにかく、移動手段!!
夜空を見上げて急に不安が押し寄せてきた。こんなどことも知れない場所で、もし魔物とかいる世界だったら……無闇に動き回るのも怖い……。だけど、逃げないことには何の解決にもならない。エレノアの返事がないのを心細く感じながらも、近くの木に繋がれた馬を見つけて、その馬と目を合わせる。
乗馬も一応習ってみたけど、私あんまり馬から好かれないみたいなんだよね……この子はどうだろ。乗せてくれる……?
馬の目に兵士の服装をした、ざんばらの銀髪と深緑の目を持つ細身の少年が不安げな表情で映り込んでいた。
髪を短くしたことで、美少年になってしまったらしい。ということは、綺麗なドレス姿だったさっきまでは、絶世の美人さんだったと……。ごめん、エレノア。髪切っちゃって。本当にごめん! うーん、十六、七歳くらいかな。こんな若さであんな男と結婚させられそうだったなんて、なんて不条理な世の中だ!
馬の背を恐る恐る撫でてみる。拒絶される感じはしない。兵士の服装が功を奏しているのだろうか。
馬に飛び乗り、木と繋がっている縄を短剣で切り離す。
馬の腹を蹴るとちゃんと動き出してくれた。安心した。
塔から遠ざかりながら、轍の跡がある道を走らせる。普段誰かが通っている道なら、もしこの世界に魔物がいても、安全だろうと思うから。
月光だけが一人の少女と馬のゆく道を照らしていた。
◆◆◆
階下から睨みつけてきた従妹。つい昨日までとは全くの別人だった。
塔に幽閉してから三週間。そろそろ心も折れる頃かと思えば、変な方向に振り切れるとは。
地面に倒れている兵士二人を無表情に見下ろす。
涙で潤んだ深緑の目が、それでも燃える闘志を宿して自身を映し出した瞬間。
歪な笑みが唇を彩る。男の目が仄暗く輝き、遠ざかっていくエレノアの背を追うように正面を向いた。
「面白い。か弱い体力でどこまで逃げ切れるものかな。私を退屈させるなよ?」




