第一話:濁り酒
江戸の下町、街灯によりほのかに照らされた夜道が淡く光る。静まり返った路地には、遠くで猫の鳴き声がかすかに響くだけだった。源蔵は小さな商家の帳場に座り、手元の帳簿を眺めながら、深いため息をついた。商売敵の藤吉の店は、いつも客で賑わっている。自分の店の売れ行きが落ち込むたび、胸の奥に重く冷たいものが積もる。
「どうして、俺ばかりが…。」
つぶやく声は、寂れた帳場の薄暗闇に吸い込まれていった。利益の差、客足の違い、何が駄目なのか頭の中でぐるぐると渦巻く。やがて、心の奥に冷たい決意が生まれた。嫉妬と苛立ちが、計画の形を取り始める。
どの商店も店じまいを始めた頃、源蔵は徳利を携え、店先の小道に出た。月明かりに照らされた石畳を踏む足音が響く。
「ちょっと一杯どうだ、藤吉」
酒豪で有名な藤吉は嬉々として源蔵の店の裏庭へ足を運ぶ。源蔵は心の奥で、冷ややかな期待と焦燥を交錯させながら、藤吉を案内した。
「この井戸、昔から綺麗で美味い水がこんこんと湧き出てるんだ」
夜も更け、へべれけに酔った藤吉に和らぎ水を求められた源蔵は微笑み、石畳の先にある古井戸を指さした。
「せっかくだから、ちょっと飲んでみるかい?」
月光に照らされた井戸の縁は冷たく湿り、静かな水面が黒い影を映している。
源蔵と藤吉は水面を見つめていた。心中の嫉妬と冷酷な計画を実行する覚悟、そして不安をじっと抱えた。源蔵は藤吉の後ろに周り、肩を力の限り押した。藤吉はあっという間に視界から消え、水面に小さなさざ波が広がり、かすかな呻き声が闇に吸い込まれる。しばらくすると夜の静寂だけが残った。
それからというもの、源蔵の商売は順調だった。藤吉の件は酒癖の悪い彼に不運が重なったのだろうと納得された。月日が流れ、源蔵は商店を大きく改装し、ついでに新しい井戸を掘り、古い井戸は埋めてしまった。
新しい井戸から引かれた水は、前と同じように澄んでいた。桶に注ぐときの冷たさも心地よく、生活や商売に使う水として理想的に思えた。しかし二月もすると、水の色に微かな濁りが見え、流れる音にもどこか不自然な違和感があった。
夜になると、水面に見覚えのある影がちらつき、微かに誰かのすすり泣く声が聞こえるような気がした。源蔵は藤吉の呪いではないかと布団の中で怯えていた。




