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八、儀式〈下〉

 麗殊が頼んでから、半刻ほどして朔が数名の宮女を連れて竹枢宮へ戻ってきた。予想よりもかなり早く、顔には出さなかったが、麗殊は密かに驚いた。


 陶鼓に許可を得て、麗殊たちは膳の間に移動する。竹妃が生前、食事の際に使っていた一間だ。幻食の儀式では、場所も重要なのである。


 宮女たちは慣れた動きで、食卓を整える。

 料理が次々と並べられ、房室は芳醇な香りで満たされていく。

 麗殊は立ったまま食膳に一通り視線を滑らせ、近くの宮女に尋ねる。


「これ、昨日の昼餉と全て同じですか?」

「は、はい。食材が残っていましたので、昨日と同じ者たちで再現しました」

「ありがとうございます……! 忙しいところに無理なお願いをしてしまい、申し訳ありません」


 唐突な依頼にも関わらず、手を尽くしてくれた宮女たちに礼を述べる。

 儀式で用いる料理は、探りたい記憶──今回ならば竹妃の死に繋がる記憶──と近しいものが好ましい。そのため、今回は竹妃が死の直前に食したであろう昼餉を用意してもらった。

 料理の再現度において多少の差異は問題ないが、同じであるほど儀式は上手くいく。竹妃との繋がりが強まるのだ。


 朔が宮女たちに「ご苦労」と小さな金塊を渡し、監督用の一人を残してそれ以外は仕事場へ戻らせる。明らかに人を使うことに手馴れているのが分かる。

 尚食局が本来の職務から外れた仕事をこなしてくれたのは、朔の存在が大きい。麗殊だけでは、彼女たちは動いてくれなかっただろう。これが朔の、ひいては朧鳴帝の権威なのだ。


充媛(じゅうえん)、俺には礼を言ってくれないのか? 帳簿に記録があるとはいえ、仕事の流れを乱してしまうから頼むのは大変だったよ」

「ありがとうございます! 本当に助かりました」

「どうも」


 素直に頭を垂れると、朔は満足気な表情を見せた。


「儀式を始めます」


 麗殊は陶鼓と朔を見て、宣言する。陶鼓は今から行われる儀式が何かを知らないだろうが、口を挟まずにいてくれる。


 裙の裾を持ち上げ、ゆっくりと食卓の前の椅子に腰を下ろす。

 豪勢な膳に無意識に喉が鳴るが、今は自身の食欲など無視だ。己の存在を限りなく薄くして、深い奥へとし舞い込まなければ。

 麗殊はすう……と深呼吸をして、口上を唱える。


「──依代(よりしろ)は姿を映し、(さん)は心を解く。味わうは余情、探るは真意。(なんじ)の記憶、この身に宿らん」


 瞬間、房室が静まり返る。

 麗殊を包み込む空気は先程までと一転して、冷たく張りつめた冬空の下のような心地に変化した。


 ──これが、竹妃様の感覚……。

 昨日の竹妃は、このヒリついた寒さの中にいたのだ。

 麗殊は心の赴くままに膳へと手を伸ばす。儀式中は、魂身が食した順番に沿うようにして、麗殊の手が自ずと動くようになっている。


 最初に選んだのは、酸梅湯(サンメイタン)だった。麗殊は両手で碗を持ち上げて、口元に傾ける。

 喉越しが良く、優しい味わいの中に爽やかな酸味を感じる梅湯だ。温かいそれは身体に染み渡ってくる。


 舌で味わった後、麗殊は卓に碗を置いて目を瞑る。

 その刹那、脳がぐらりと揺れた。どこからか葉擦れの音が聞こえると共に、鼻先を甘やかな梅の香りがすり抜ける。

 このときの世界が揺らぐ感覚は己の意識と魂身の記憶が繋がった生じるもので、甜氏は"憶潜(おくせん)(きざ)し"と呼んでいる。

 兆しを感じたということは、麗殊の意識を竹妃の記憶へと繋げることに成功したのだ。


 ──見えてきたわ……いい感じ。

 瞼の裏に魂身の鮮明な記憶が映し出されていく。


 記憶の中の竹妃は、麗殊の知らぬ地にいた。

 そこは楓幻城から遠く離れた郊外らしく、周囲に山々が聳え立つ自然豊かな土地だ。そこに建てられた竹枢宮より一回り大きな殿舎の一室で、竹妃は過ごしていた。

 窓の外で葉擦れの音がする。梅の香りは、庭に植えられた背丈のある梅の木から漂ってきていた。


 房室の中には、竹妃の他に陶鼓、侍女と宦官が数名、そして見慣れぬ背丈の高い茶髪の男がいた。体格や服装からして宦官ではない。


犀佳(せいか)様』


 房室へと招かれたその男は柔らかく微笑み、竹妃の名を呼ぶ。

 その声が竹妃の中にじんわりと心に染み渡る。彼女の頬は自然と緩み、目を細めて男を見上げた。

 

 かちり。

 そこまで追体験したところで、麗殊の意識が急速に浮上していく。

 幻食の儀式には、記憶の断片は無作為に途切れ、食べ進めなければ次の記憶には繋がらないという条理が存在する。


 ──今の男、ここに来るまでに見かけた人だわ。彼はいったい……?

 親しげに竹妃の名を呼んでいたのは、竹枢宮へ向かう際に目に付いた茶髪の男だった。


 彼の正体について深く考える間もなく、麗殊の手は再び操られるように動き出す。

 次は糖醋魚(タンツーユィ)だ。黄金色に輝く魚の切身にとろりとした甘酢餡が絡んでいる。

 麗殊は箸を取ると、一口分をそっと口に運ぶ。舌の上に濃厚な甘味と酸味が広がり、あの憶潜の兆しが再び現れた。


 今度の記憶も、景色は先程見た山奥の殿舎のままだった。

 竹妃はまた同じ房室にいるようで、薄衣だけを羽織って寝台の上に横になっていた。頭を動かして右側に視線をやると、あの茶髪の男が瞳を揺らしてこちらを見据えている。

 妙に親しげな男は余裕なげな表情のまま、竹妃の傍に近寄ってくる。そして、天蓋から吊るされた紗を閉め、竹妃の頬に手を──。


 かちり。

 憶潜が途切れ、膳の間に意識が戻る。やけに心臓が早鐘を打ち、身体は熱を持っていた。


 ──……これは、大変な事態だわ。

 嫌な予感が麗殊の頭を掠める。仮に男が竹妃の侍従だとしても、今のは明らかに主従関係に収まらない場の雰囲気だった。

 一度頭を整理する時間が欲しいが、一度幕を開けた儀式は止められない。


 動揺からか麗殊は食事を急ぐように、白い山薬粥を匙で掬って口にする。微かに甘く、ほのな滋味が身体を温めてくれる。


 兆しが現れた後に見えた景色は、前のものとは変化していた。

 異なる装いの一室で、薄暗い燭台の灯りだけが照らす中、竹妃は文卓に向かっている。卓上には無地の紙が、手には筆が握られていた。

 竹妃は憂いげにため息を零した後、紙に筆を滑らせる。


"近頃のわたしは、いつ天から罰を下されるのだろうかと恐れてばかりいます。主上の御顔を見上げることさえ、できなくなってしまいました。とても辛くて、いっそのこと死んでしまいたい。だけれど、願わくば──"


 そこで手が止まり、竹妃は窓の外に視線をやる。丸い窓はちょうど庭に面しており、鯉の棲む池の水面が月光に照らされてきらきらと輝いているのが見えた。


 かちり。

 現実に戻ってきた麗殊は、思考の隙を得る前に、間を置かずに蜜漬けの杏を齧る。

 甘酸っぱいその艶やかな果実は、本来ならば麗殊の心を躍らせただろう。しかし、今は食の悦びを感じられずにいる。少量しか食べていないのに、麗殊の食欲はすっかり消え失せていた。


 ぐらりと兆しを感じ、気がつくと竹妃は竹枢宮の膳の間にいた。

 昼下がりにも関わらず窓を閉め切った薄暗い房室の中で、竹妃は食卓を前に座っている。それは、現実の麗殊の前に並べられた昼餉と全く同じだった。

 麗殊は、これはまさしく昨日の記憶だろう……と確信する。憶潜の最終地点、儀式が終盤を迎えたのだ。


 竹妃は麗殊と同じようにして、杏の蜜漬けをひとつ食む。その味を感じる前に、突然、視界がぐらりと揺れた。


『うっ……』


 竹妃は呻いて椅子から滑り落ちる。危機一髪、床に倒れて身体を打つ前になんとか背凭れを掴み、体勢を保つことができた。

 しかし、血の気が引き、頭がずきずきと疼いて痛い。

 竹妃はハッとして己の腹に手をやる。そして、眉をしかめて荒い息を吐き出しながら、微かな声を紡ぐ。


『主上、大変申し訳ございません……私は本当に、なんてことを……』


 それは痛切な、今にも泣き出しそうな声音だった。


「っ……!」


 瞬間、麗殊は目を覚ました。

 途端に今までの夢うつつな感覚は消え失せ、全身にどっと疲れが押し寄せる。


 憶潜の兆しはもう来ないと直感で理解する。儀式が完遂したのだ。

 死霊相手にしては充分な収穫量だ。ここまで鮮明に見えるとは予想していなかった。死んでからまだ日が経っていないのと触媒が豊富だったからかもしれない。


 ──竹妃が居たあの場所はどこなのかしら。それに、私の推測が正しければ、あれは密通(禁忌)よ。なんてことを……。

 

 色香を放つ宦官ではない男、竹妃の悲痛な想いと皇帝への謝罪。

 記憶の断片を繋ぎ合わせれば、麗殊の中で恐ろしい仮説が導き出される。これは、己が覗いていいものなのだろうか──。

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