五、皇帝(下)
黄瑞宮の正殿は、皇帝との謁見の間とされている。
中央奥にある大きな玉座に朧鳴帝が座っている……はずなのだが、予想外に彼の姿は見えない。物理的に帳で仕切られているのだ。
──普段も、こうやって帳を?
麗殊にとってはこれが初の謁見であるので、これが平常なのか分からない。もしかしたら、先程の雛嬪のときは帳を上げていたのかもしれない。
孟飛によって背後の扉が閉められ、陽の光が閉ざされる。
礼を述べて名乗らなければと、麗殊は前に進み出て恭しく拱手する。すると、こちらが口を開くよりも先に、帳の奥から低い声が聞こえきた。
「甘い香りがする。そなた、桃でも食ったのか?」
おもむろに読めない声色で告げられ、ひゅんと背筋が冷える。
「は……はい、不躾で申し訳ありません」
麗殊は慌てて頭を垂れる。目など合うはずがないのに、まるで蛇に睨まれた蛙のような心地だ。
──ちょっと待って、どうして分かるの……?
たしかに水蜜桃を食べたが、その後に昼餉を食べた。房室では香を焚いていたため、食事の香りなど残るはずがない。幼い頃から桃を摂取しすぎたせいで、その香りが身体に染み付いているのか。第一、帳越しに分かるはずが……。
狼狽える麗殊を見透かしたように、帳の向こう側からフッと微かな笑い声が降ってくる。
「冗談だ。そう固くなるな」
朧鳴帝の言葉に空気が和らぎ、麗殊は詰めていた息を吐き出す。
「名は?」
「充媛、甜麗殊と申します。主上の御前に侍ることができ、至極光栄に存じます」
麗殊は緊張が拭えぬまま膝を折る。
初のお目見えだというのに、見苦しい姿を晒してしまった。
「ほう、そなたが甜氏の娘か。あの人喰い族の」
「な……」
予想外の言葉に、喉が引き攣る。
まさか、皇帝にその俗称で呼ばれるとは。
──そうよ……主上は椿妃様のことを知っているんだわ。知らないはずがないもの。
椿妃については現在禁句となっているため、知る者は限られるが、朧鳴帝は立場上把握しているはずだ。
甜氏の過去、己に託された悲願の原因。麗殊はそれらを思い出し、歯を噛み締める。
「……僭越ながら、我々が人間を喰らうというのは誤りです」
名誉を鑑みて、麗殊は恐れながら訂正を入れる。
甜氏は決して人間を喰らうことはしない。喰らうのはあくまで触媒であり、その記憶と心に触れるだけだ。
しかし、椿妃を知る朧鳴帝からすれば、麗殊の言葉は偽言にしか聞こえないだろう。
気を悪くしたか、と背に汗を握る麗殊に対し、皇帝は「ふうん」とつまらなそうな返事をする。
「違うのか。まあ、そういうことにしておこう」
どうやら、機嫌を損ねた様子はない。麗殊はそのことに安堵すると同時に、困惑を隠せない。
帳の向こう側に鎮座する主の人柄が、一向に掴めないのだ。
──何を考えていらっしゃるのだろう。
朧鳴帝の言葉のひとつひとつは決して軽くなく、彼が話す度、麗殊に威圧感ともいえる圧迫感を与える。
しかし、どこか空気のように宙に浮いているように感じる。己はまだ、この方と同じ場に立てていない。
「それで、そなたは何を言いに来たんだ。まさか、また死因は持病などと言うのか?」
「いいえ。私は主上にお聞きしたいことがあり、参上いたしました」
「言え」
麗殊は固唾を飲み込み、覚悟を決める。
ここからは賭けだ。己の直感を信じるのだ。
「恐れながら、竹妃様がどのようにして亡くなられたのかをお教えていただけますか」
ゆっくりと言葉を紡いだ後、麗殊はじっと帳を見つめてその中をうかがう。しかし、何の反応もない。
「教えてくだされば、私は彼女を心より悼むことができます。主上の求める答えのために動くこともできるはずです」
麗殊がはっきりとした口ぶりで言い切ると、朧鳴帝は帳の奥で、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「合格だ。今朝から数人、答えを申し出てきたが、問いの本質を見抜いたのはそなたが初めてだぞ」
嬉々とした声色で語る朧鳴帝に、麗殊はほっと息を吐き出す。
当たりだ。やはり、己の推測は正しかった。
「孟飛、帳を上げろ。朕はこの娘と話をする」
朧鳴帝に言われた通り、孟飛は粛々と帳を上げる。
麗殊は逸る鼓動を抑え、その場に膝を着き叩頭して待つ。無礼があってはならない。
「面をあげよ」
先程よりも鮮明に声が響き、麗殊はおずおずと頭を持ち上げる。ドク、と胸が高鳴る。
──この御方が、今上帝……。
朧鳴帝、齢三十、先帝の第二の皇子である。髭を生やしていないからか、その容貌は想像以上に若々しい。
衣裳は豪奢なものではなく、無色だった。
それでも、布地には銀糸を使って龍の刺繍が施されているので、頭上の冠と合わせて権威がひと目てわかるようになっている。
麗殊は今朝から度々白を目にしているが、その度に竹妃が死んだのだと実感する。
最も麗殊の目を引いたのは、その琥珀の瞳だった。漆黒の瞳孔と対照的にその虹彩は橙色をしており、光を反射して煌めいている。まるで、威光が集約しているかのように。
他の誰とも異なるその輝きに、この方こそが国を統べる皇帝であると、瞬時に悟る。
麗殊は初めて見る己の主の姿を、暫しの間ただ呆然と仰いでいた。
朧鳴帝は麗殊を見下ろして、命令する。
「立て」
許しを得て、麗殊は身体を起こす。すると、先程よりも玉座との距離が近づき、そこに座す主の顔がより鮮明に見える。
「竹妃は自害した」
朧鳴帝はただ事実報告をするかのように平然と述べた。
十分な間を置かずに告げられた言葉に、麗殊は反応が遅れ、はく、と口を動かす。
自害──自死、自殺。竹妃は己で、己の命を絶ったのだ。
麗殊は無意識に朧鳴帝の言葉を反復する。
「自害?」
「ああ。遺体が発見されたのはそなたたちを呼ぶたった数刻前。発見したのは、可哀想なことに彼女の侍従だ」
「そうだったのですね……」
自害の線は既に考え済みだったこともあり、驚きよりも納得の方が強い。後宮内の人間の死因は他殺や自害が少なくないとか。
死因が分かったところで、麗殊の中に新たな疑問が生まれてくる。竹妃はどうして自害したのか。皇帝から寵愛される煌びやかな高位の妃であるのに、そのどこに命を儚む理由があったのだろう。
麗殊の考えに呼応するかのように、朧鳴帝が瞼を下げて語り始める。
「朕には彼女が自分の命を終えた理由が分からない。誰に聞いても知らぬと返ってくるばかり。思い当たることもない。知りたくても、一向に分からないのだ」
朧鳴帝は憂い気な声音で分からないと述べるが、その表情からは煩慮がうかがえない。腹の底が読めないのだ。
「もちろん、他の四夫人や皇后にも尋ねてみたが見当がつかないという」
「それで、私たちを集めたのですか?」
「ああ」
朧鳴帝は頷き、口角を上げる。
「だが、もとより九嬪全員を頼りにしたわけではない。──朕の狙いはそなただ」
「え……?」
「甜氏の女は"食解き"という儀式を行い、謎を解くことができるのだろう?」
朧鳴帝は微かに挑発的な色を滲ませて、麗殊に問いかける。
こちらを射抜く蛇のような鋭い目。
身体の奥の方まで見透かすようなその琥珀の目が、麗殊を突き刺す。
──主上は最初から、私の実力を測るつもりだったのね……。
麗殊は悔しげに下唇を噛む。
朧鳴帝は、端から甜氏の力を使うつもりだったのだ。九嬪を集めて全員に問いを与えたのは、こちらの闘争心を煽るため……。
この男は、甜氏が名誉を取り戻すために麗殊を送り込んだことを承知していたのだろう。昇進という褒美を与えれば、甜氏は必ず飛び付いてくると踏んだのだ。
「竹妃様の死の理由を突き止めることができれば、四夫人になれるのですよね」
麗殊は朧鳴帝を見上げて言う。
最初から手のひらの上だったというのは気に食わないが、この好機を逃すわけにはいかない。
「ああ。納得のいく答えが得られれば、相応の地位を授けよう。甜氏への待遇の見直しも考えてやるぞ」
「ありがとうございます」
朧鳴帝の言葉に、麗殊は深く頭を下げる。
「さて、聞くのを忘れていたが、そなたは竹妃の死に心当たりはあるか?」
「ありません。ですが、何の理由もなく命を終えることはないはず……必ずや、私が突き止めてみせましゃう」
麗殊が胸に手を当てて心意気を示すと、朧鳴帝は「頼もしいな」と笑う。
「調査の期間、自由に動いてもよろしいですか?」
「好きにしなさい。なにかあればこいつを使え。──朔」
朧鳴帝はおもむろに、麗殊の背後に向かって呼びかけた。その瞬間、こつこつ、と床を踏む音が聞こてくる。
「え?」
麗殊は咄嗟に振り返る。すると、そこには一人の男が立っていた。
光に当たると濃紺に見える黒髪を後頭部で結い、飾りのない金の簪をひとつ挿して留めている。白い官服は後宮内でよく見かける宦官のものとは異なり、上等な絹の羽織を重ねている。
その容貌だけ見れば、歳は麗殊よりいくつか上なだけのような若々しい印象を受けた。
男は光の入らない切れ長の瞳を細め、その視線で麗殊を捕らえた。
──この人、いつからここに!? というか誰!?
麗殊は男の姿を認め、大きく目を見張る。決して広間が暗いわけではなく、明るく照らされている。調度品も最低限で、隠れられるような場所はない。
麗殊が帳の中に足を踏み入れたときは朧鳴帝以外の姿はなかった。帳の外にも、孟飛しか見えなかったのに。
「朔は朕の私的な配下だ。一応、太医でもあるから後宮に出入りできる。これをそなたに付ける。きっと役に立つだろう」
「は、はい。お気遣いありがとうございます」
麗殊は慌てて朧鳴帝の方へと向き直り、その場で頭を垂れる。
大医という役職は、先程雛嬪と交した会話の中で出てきた。宦官以外で後宮への出入りを認められる特別な高官である。
まだうら若く見えるのに、そのような大それた地位にいるなんて一体何者なのだろう。
──主上の私的な配下だから、通常の大医とも違うのかしら。
朔というこの男は、もしや監視役なのだろうか。麗殊が不振な行動をした際に、すぐに捕えられるようにと。
甜氏の己にとっては、後宮入りを許されたこと自体が幸運なのだ。監視くらい甘んじて受け入れよう。むしろ、今まで何も付けずに放っておいてくれたのが寛大すぎたのだ。
「俺は朔。俺のことはあなたの手下だと思ってくれて構わないよ」
考え込んでしまった麗殊に朔は歩み寄り、思いの外柔らかい声で話し、にこりと微笑む。
「……よろしくお願いします」
朔に対して、麗殊は曖昧に頷く。
近くで見るとかなりの美丈夫だ。目鼻立ちがくっきりとしており、肌艶が良い。
この男は只者ではないだろう。麗殊は直感的にそれを理解した。
朧鳴帝も腹の底が知れないが、この男も得体の知れない謎めいた雰囲気を纏っている。気を引き締めなければ。