四、皇帝(上)
運ばれてきた昼餉を一人で味わっていると、情報収集に行っていた晏嬪と箏嬪が帰ってきた。壁と戸で仕切られているとはいえ、狭い宮であるので声や足音は聞こえてくる。
麗殊は彼女たちの会話から得た情報を整理しながら、麗殊は鶏を煮込んだ羹を飲み込む。今日はいつもよりも甘めだ。
「情報の統制は、主上の手回しなのかしら」
晏嬪と箏嬪の会話からして、女官も宦官も、竹妃の死について何も教えてくれなかったらしい。
そもそも、竹妃が暮らしていた宮は封鎖されており、関係者以外誰も立ち入れないようになっているのだとか。
凶事をあまり広めたくないというのは分かるが、これも例の問いのためだというならば、随分と念入りだ。
羹を飲み終え、平たい包子の最後の一欠片を頬張る。
小麦粉でできた生地は歯応えがあり、油の香りが効いていて美味しい。
しかし、通常とは異なり、生地の中に羊肉が入っていない。飲み干した羹も香辛料が控えめだった。
いつもより質素な食事は、竹妃の影響だろうか。
後片付けは尚食局の者に任せるとして、麗殊は出かける支度をする。腹も満たしたし、他の者に遅れをとってはならない。
身なりを整えた麗殊は、自室を出て門へ向かう。
すると、足音に気がついたのか、箏嬪が彼女の自室から出てきた。
「あら、どこに行くの?」
「黄瑞殿よ」
「えっ、まさか死因が分かったの!?」
目を見張る箏嬪に、麗殊は首を横に振る。
「それならどうして?」
「ちょっと気になることがあって」
言葉を濁すと、箏嬪は不思議そうな顔をしながらも「そう」とだけ言って部屋に戻って行った。先を越されないか心配なのだろう。
もちろん、麗殊はまだ何も分かっていない。だから、分かっている人に聞きに行くのだ。
──主上が問うているのは、ただの死因ではないわ。
既に自明なことを問いとして課すはずがない。賄賂を渡せば、真実などすぐに手に入れられる。
それを四夫人への昇進の条件にするとは考えられない。麗殊たちに調べて欲しいことは他にあるはずだ。
日中、黄瑞殿の大門は常に開かれている。代わりに、厳重に衛兵が左右を取り囲んでいるのだが、通る度に鋭い視線を向けられるので、少々気後れする。
明るい日が差し込む正殿前には既に先客がいた。麗殊と同じく白い襦裙を纏った娘が、背筋を伸ばして立っている。
そういえば、衛兵たちも今日は白を身に付けている。この後宮も、数日は色の無い景色に包まれるのだろう。
麗殊が控えめに歩いていくと、娘が振り返った。
「あら、あなたは」
そう言って目を細める娘には見覚えがあった。
今朝、黄瑞殿で一番に発言した雛嬪だ。九嬪の頂点であり、朧鳴帝からの渡りも何度かある。
「雛嬪様」
麗殊は軽く膝を折って挨拶をする。
九嬪は位が高い者から数えて三人ずつ宮が別れており、通称上嬪宮、中嬪宮、下嬪宮と呼ばれる。
それをもとに、自分より高位の宮に住まう嬪には礼を尽くさねばならない。
そのため、麗殊は晏嬪や箏嬪とは対等に接することができるが、雛嬪たちには下に出るのが鉄則だ。なんとも、複雑な上下関係である。
「ひと足遅かったわね。わたしの方が先よ」
「もしかして、問いの答えが分かったのですか?」
「ええ。主上は先に政務を終わらせると仰っているので、お待ちしているのよ」
雛嬪は得意げな顔を浮かべる。その足元はうずうずとしており、早く解答したくてたまらないのがうかがえた。
──これはどうなるかしら。
勅命を受けてから約八刻。その間、雛嬪が何をしていたのかは分からないが、もしも朧鳴帝の求める答えが得られたのだとしたら……。
いいや、そう簡単にはいかないはずだ。
「あなたはたしか、充媛……麗嬪よね。答えを見つけたの?」
「いえ、私は別件で」
尋ねられた麗殊は、緩く首を振る。実際には別件ではないのだが、ここは言わない方がいい。
「そう。あなたは下位だし、竹妃様について詳しいことは知らないでしょう?」
「はい、北方から嫁いできた聡明な方ということくらいしか……」
明らかにこちらを見下している言いぶりだが、実際に麗殊は竹妃のことをよく知らない。
竹妃は北方の土地を治める領主の娘で、知識豊富で聡明な姫だったと聞く。
麗殊も遠目ではあるが何度か目にしたことがある。そのときは、皇帝より十も年下ということを感じさせない落ち着いた雰囲気を感じさせた。
「ふふ。もう順番は変えられないから、教えてあげるわ」
雛嬪は笑みを浮かべながら話し始める。この時点で、自分が合格を貰えるものだと思い込んでいるようだ。
「わたしは竹妃様の宮へ何度かお邪魔したことがあるの」
「えっ、そうなのですか」
「そうよ。ある日、竹妃様の宮へ向かう際に、たまたま大医と居合わせてね。どうやら竹妃様は持病をお持ちで、その大医は主治医だとか」
大医とは、皇帝の許可を得て後宮に出入りできる特別な医官のことだ。その数は限られており、宦官ではなく男性性を持ち得る官吏である。
実力を認められた者のみが大医となることができ、彼らは主に皇帝や妃嬪、宮女、宦官たちの診察・治療を行う。
間違いが起きないように、滅心散という特殊な薬を服用しているという噂も聞いたことがある。
「竹妃様はご病気を抱えていらっしゃったのですね」
持病があったとは初耳だ。本当に亡くなったのは病のせいなのかもしれない。
「そうなの。数ヶ月前には郊外の離宮で療養していたけれど、近頃も体調が優れず、ご自分の宮に引き篭ってばかりいたそうよ。宮女たちのはなしだと、それはどうやら持病のせいらしいって────あら、」
雛嬪の話の最中で正殿の扉が開かれ、孟飛が「昭儀様」と呼ぶ。
「ご不幸はそういうことよ。それじゃあ、ごめんなさいね」
雛嬪は麗殊に微笑み、そして瞬時に憂い気な表情に変えて、正殿の中へと入っていく。
狡猾な娘だ。皇帝の前では竹妃を悼む様子を見せようとしているのだろう。
勅命を受けてから、皆して竹妃への追悼よりも自身の栄典ばかり気にしている。
薄情だと思うが、蠱毒の壺とも称される後宮とはそういうものなのだろう。仲が良いふりをしていても、互いの隙を狙っているのだ。己が成り上がるために。
「……私も同じね」
麗殊は自分がこの場にやってきた理由を省みて、呆れの混ざった息を零す。
己が今願っているのは、どうか雛嬪が気を落として出てきますように……ということだ。
数分間その場で待っていると、正殿の扉が重々しく開かれ、その中から雛嬪が現れた。
彼女は悔しげに下唇を噛みながら、早足に歩いてくる。そして、佇む麗殊をぎろりと一瞥して、鼻を鳴らして去っていく。
苛立ちを隠さない様子からして、雛嬪は朧鳴帝から合格を貰えなかったのだろう。
──少なくとも、持病のせいではないのね。
その事実に麗殊は安堵する。まだ己に勝機はあるのだ。
病に関していえば、最近は国内で原因不明の疫が流行っているという。
だが、疫による死人は出ていないと聞いたし、竹妃の件とは関係ないだろう。
もしも疫が原因ならば、悠長に妃の昇進試験などをしている場合ではなく、後宮中が大騒ぎになっているはずだ。
──それでは、いったいなぜ亡くなったのかしら。
その他の病だろうか。毒による謀殺ということも有り得えなくはない。後宮は恐ろしいから。はたまた、自害か。
麗殊が思索していると、突然すぐ近くから「充媛様」と名を呼ばれる。
「は、はい……?」
驚いて顔を上げると、数歩先に孟飛の姿があった。深く考え込んでいたため、足音に気が付かなかったのだ。
「申し訳ありません、気が付かず……」
「いえ。あなたも謁見をご希望ですか」
「はい。お目通り願えればと」
麗殊が頭を下げると孟飛は頷き、「どうぞ」と言って手のひらで正殿を示す。早速、中へ入れてくれるようだ。
孟飛に案内され、麗殊は大きな正殿の中へ恐る恐る足を踏み入れる。
まさか、直接皇帝と対面する初めての機会が、このような形になるとは思ってもみなかった。