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三十四、七夕〈中〉

 残りの羹を飲んでいると、時を見計らって、宮女たちが別の食膳を広間に運んでくる。


「こちらは、菜燜飯(ツァイメンファン)鰣魚(シーユー)です」


 と、芙良が告げる。

 

「菜燜飯は、鍋で米と野菜類をじっくり炊き込んだ料理です。具材は芥菜、葱、豆、椎茸、木耳などをたっぷり混ぜて、五穀豊穣の祈願にもなるようにいたしました」


 ほのかに湯気のたつそれを、麗殊はぱくりと頬張る。野菜の甘みと(ジャン)の風味が合わさって、非常に旨味がある。少し焦がした部分はとても香ばしい。

 鼻腔に幸せな香りが満ちると共に、思考が記憶の中へと潜っていく。


 気がつけば、麗殊──椿妃は宴の席に座していた。

 各席に食膳が運ばれているのを見るに、既に天女へ祈る儀礼は終わり、酒宴が始まっているようだ。

 椿妃は顔を緩ませながら、羹を飲み、菜燜飯を食べ進める。その途中。


『椿妃』


 右隣の席の姫に呼びかけられ、椿妃は微かに肩を揺らす。

 そして、手を止め背筋を伸ばし、『槐妃様』と隣を向く。

 光の加減で濃紺に見える黒髪は綺麗に整えられていて、ぷっくりとした唇が艶やかで美しい。反対に、切れ長の目からは涼し気な印象を受ける。

 瞳の色は異なるけれど、目を細めた時の雰囲気が朔とよく似ている。


『あなたったら、いつも食事に夢中ね』


 槐妃は口元に手を添えてくすりと笑う。襦裙の裾の隙間から、手首に咲く花の紋様が垣間見えた。本来の紅色よりもかなり薄まっている。


『このお料理、とっても美味しいわ。わたくし、木耳が好きなのよ』

『お口に合ったようで嬉しいです』


 椿妃は誇らしげに口角を上げ、二人の様子を眺めていた黎晟帝も『流石、椿妃だな』と満足げに笑う。

 皇太子の隣にちょこんと座る朧鳴も、場の空気に合わせて控えめながらも、ぱくぱくと美味しそうに食べてくれていた。

 とても穏やかな酒宴のひとときだ。

 ひしひしと肌で感じる、皇后と他の四夫人より放たれる嫉視の矢から目を背ければ。


 かちり。

 視界が一瞬暗くなり、意識が現実へと浮上する。目の前の光景は記憶の中のものと似ているが、雰囲気がまるで異なる。今の方が全体的に賑やかだ。


 ──まだ異常はなかった。槐妃の様子にも変わりはなかったし……けれど、もう毒は仕込まれている可能性が高いわ。次の料理が、それだもの。

 こちらの考えに呼応するかのように、芙良が同時に運ばれてきた料理の説明を始める。


「こちらは鰣魚シーユーです。春から夏にかけて現れる魚ですが、今回は生姜と共に酒で蒸し、とろみのあるたれと合わせました。貴重な縁起物ですので、この機会にどうぞ」

 

 麗殊は司察局で閲覧した記録、そして先日朔から貰った太医局の記録を思い返す。当時、毒が仕込まれていたのはこの鰣魚シーユーだ。毒は、非合法に裏で流通している猛毒だったという。


 ごくりと固唾を呑み、箸で摘む。たれによく絡んだ脂の乗った身を食みながら、麗殊はとてつもない違和感を覚えた。

 どういうわけか、全く味がしないのである。この魚は元々淡白な味だが、それにしても味が無いというのはおかしい。たれもかかっているのに。


 ──何か、いつもと違う……?

 そう思うが、儀式によって思考と身体が切り離されているため、手が止まることはない。

 奇妙な感覚に

 突然、憶潜の兆しが現れた。普段よりも視界がぐるぐると回り、頭が熱くなる。

 記憶の中に吸い込まれていく。深く、深くへと。


 視界が切り替わった。

 先程と同じ宴席。目の前には器に盛り付けられた鰣魚(シーユー)がある。椿妃はそれを頬張り、想像通りの味付けができていることに安心した、そのとき。

 隣から、ドスッ! と大きな物音が響いた。椿妃は驚きに手を止めて、そちらへと目を向ける。


『槐妃様っ!?』


 同時に、娘の甲高い叫びが耳をつんざく。槐妃の侍女だ。


『ひっ』


 心臓が跳ね、口から情けない声が漏れ出る。

 目の前で、先程まで背筋を伸ばしてしゃんと座っていた槐妃が髪や襦裙を乱して、仰向けに倒れている。美しい微笑みを見せていた姫が、今や唇の隙間から泡を吹き、反り返った睫毛の下で白目をむき出しにして……。


『何事だ……!?』


 広間の前方から戸惑う朧鳴帝の声が聞こえ、椿妃は我に返る。

 そのまま槐妃の傍にしゃがみ込み、侍女に問いかける。

 

『どうされたのですか!?』

『と、突然、お倒れになられて……!』


 侍女は口元を両手で覆い、恐怖に染まった表情を見せた。

 だめだ、痙攣してしまっている。槐妃に持病があるという話は聞いたことがないが……ではなぜ。

 彷徨う椿妃の視線が、卓上の食膳にたどり着く。そこには、槐妃の食べかけの菜燜飯(ツァイメンファン)鰣魚(シーユー)が残っている。


 ──待って、鰣の匂いがおかしいわ……まさか、毒?

 食膳に顔を近づけ、唖然とする。己が食べた物は甘いだけの香りがしたが、槐妃に出されたものからは微かに苦味を覚える。


『はやく大医を!』


 黎晟帝が側近に指示を出すのを耳にしながら、椿妃は身体が冷えていくのを感じる。


 ──いったいどうして。私が離れた後、誰かが何かしたの? いえ、そんなことよりも、槐妃の様態は……。

 宦官が広間に駆け込んできて、槐妃の身体を運び出していく。

 ただ眺めることしかできない己が情けなくて、椿妃はぐっと下唇を噛む。


 ──槐妃様はかなり危険な状態だわ……。

 こんなときに、矯の力が使えないなんて。

 先日まで続いた疫病の治療にあたっていたから、今は呪術を使う力が切れていると槐妃が言っていた。

 それに、彼女自身は既に意識を失ってしまっている。矯の力は使えない。あの魔法のような力があれば、すぐに回復できたのに。


 宦官たちへの指示を終えた黎晟帝が、今度は全体に問いただす。


『何か知っている者はおらぬか!』


 騒々しかった周囲が、瞬時に沈黙する。黎晟帝の顔がますます険しくなっていく。

 突然、玉座の近くにいた一人の宮女が大きな音を立ててその場に膝を着いた。


『申し訳ありません、申し訳ありませんっ!』


 宮女は黎晟帝に向かって叩頭し、大声で何度も謝る。その宮女は、今朝まで尚食局で一緒だった尚膳だ。

 尋常ではない様子に、黎晟帝が尚膳に『何か知っておるのか? 面を上げよ』と声をかける。

 すると、尚膳はおずおずと頭をもたげ、震える声で語り出す。


『私、……ち、椿妃様が槐妃様の器に何かを仕込むのを見てしまったのです』

『え?』


 思わぬ台詞に椿妃の表情が固まる。

 この人は、いったい何を言っているの。


『料理の隠し味のようなものかと思ったのですが、今から考えれば、あれは毒だったのかもしれないと……』


 尚膳が話し終えると、宴の場にいる全員の視線が椿妃に向いた。皆、得体の知れないものを見るような怯えた目で、こちらを凝視してくる。


『なんだと……?』


 黎晟帝に見つめられ、椿妃はようやく息を吐き出す。

 慌てて拱手し、その場に平伏して弁明する。


『主上、何かの間違いです! 器は用意しましたが、何も仕込んでおりません。私はこの席にいたため、食膳の仕上げにも携わっていないのです!』


 嫌な汗が伝い、前髪が額に張り付く。どくどくと激しく脈打ち、息が荒くなる。


『椿妃はそう言っておるが……尚膳、本当に見たのか?』

『どうして、私めが嘘をつくことなどできましょうか。私も信じられないのですが、この目に焼き付いてしまっているのです……!』


 間を置かずに、皇后が話し出す。


『まさか、椿妃が槐妃に毒を盛るなんて、ねえ……。でも、辺境の娘ですし不気味な異能を使えるもの。いつか何かを仕出かすと思っていましたわ』


 彼女の言葉に同調するように、『ええ、皇后様のおっしゃる通りですわね』と、残りの四夫人や侍女が頷く。


 ──何がどうなって……?

 訳の分からない状況に、目の前が真っ暗になる。毒どころか何も入れていない。知らない。後は尚膳に全て任せると────まさか。

 最悪の事態に思い至り、椿妃は瞠目する。


 そんな中、皇太子の傍の朧鳴が立ち上がり、『おじい様っ』と黎晟帝に呼びかける。


『聞いてください! 椿妃様はそんな──』

『ああ、朧鳴! おまえも椿妃の悪行を見てしまったのね、そうなのね……!?』

『朧鳴、そうなのか!?』


 何かを言いかけた朧鳴だったが、皇后と皇太子に口を挟まれ、困ったような顔で黙り込んでしまう。

 皇后が朧鳴の肩を掴み、その小さな耳に何事かを囁く。

 やがて、幼い皇太孫は両隣の祖母と父親、祖父である黎晟帝を交互に見遣った後、俯きがちにこくりと頷いた。


 ──そんな。

 椿妃は際限なく目を見開いて、その場で絶句する。全身が凍り付いて身動きがとれない。

 皇后、皇太子、槐妃の侍女、他の四夫人。今まで親しくしてくれていた人達から、憎悪や侮蔑の眼差しを向けられる。

 そんな中、椿妃は無意識に助けを求めるような目で黎晟帝を見ていた。


『主上、私は何もしていませんっ! 主上……!』


 信じてくれという祈りも虚しく、いつも目尻の皺を寄せて優して微笑んでいた皇帝は、今は読めない琥珀色の瞳で己を突き刺した──。

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