三十三、七夕〈上〉
恐ろしいほど平穏に時が過ぎてゆき、七月七日、七夕節がやってきた。
麗殊は淑華宮の門を幾度か叩いたが、答えてくれることはなかった。とはいえ、太皇太后の容態に異常はなく、宴は予定通りに開催できることとなった。
麗殊はいつもよりも早く起きて、眠い目をこすりながら、尚食局へと向かう。こんなに早く起きたのは、まだ充媛だった頃に、竹妃の件で黄瑞殿へと呼び出されて以来だ。
支度が始まった。麗殊は芙良を筆頭とした宮女たちに指示を出し、広い調理台に向き合う。食材は二日前には全て揃っており、準備万全の状態だ。
十数名の宮女が忙しなく働き、それらの仕込みをしていく。麗殊は厨房を歩き回り、異常がないか観察しながら、尚食局全体を監督する。
──椿妃様も、宴の朝は私と同じように過ごしていたのでしょう。
亡き伯母に想いを馳せる。麗殊と同じで食が大好きだったという彼女は、皆に美味しいと思って貰えるようにと願い、この献立を考えたのだと思う。
それがまさか、惨劇の宴になるなんて。
幻食の儀式を行うため、麗殊は料理の仕上げ、そして配膳の様子を観察することはできない。
──私がこの場にいなくて大丈夫かしら。
宴が開幕した後は、厨房の指揮は芙良に任せ、監視役を炉辰に担ってもらう。さらに、朔の計らいで蕾にも影から様子見をしてもらうことにした。
念には念を。万が一のことがあってはならない。……二十二年前のように。
仕込みが終わると、麗殊は一度桃晴宮に戻り礼装に着替えてから、栖遥と共に宴場・月燈殿へと向かった。
月燈殿は後宮の西、尚食局よりも南に建っている。広間の扉は既に開かれており、外からでも妃たちの話し声が微かに聞こえてくる。
麗殊が中に足を踏み入れると、後部に座す晏嬪と箏嬪がこちらに気が付き、ハッと目を見張る。それを合図にして、他の嬪たちの注意も麗殊に向き、広間の空気が変わった。
視線が痛く突き刺さる中、麗殊は広間の右端を通り、予め伝え聞いていた己の席へと足を進める。
視線の原因は自覚している。それは、麗殊の容姿がいつもと違うからだ。
母の記憶と己の想像を頼りに、なるべく椿妃に似るように化粧を施した。普段はない花鈿を書いて、目元と唇に鮮やかな色の紅を差してある。
椿の花が描かれた紅色の襦裙を纏い、いつもとは異なる鞋を履き、黒髪には金色に煌めく簪を。そして、手元には翡翠の腕輪を嵌めて。
そう、今日の麗殊は、南敬から預かった椿妃の遺品で着飾られていた。
今回は遠い過去の亡者が魂身だ。そして、麗殊は魂身の血縁である。遺品のみならず、椿妃と同じ血が流れる己自身が触媒となるようにと、気を引き締めてきた。
他の四夫人はまだ来ていない。これは序列の問題だ。もうすぐ梅妃が来るだろう。
予想通り、数分も経たずに梅妃が広間へとやってきて、麗殊の向かいの席に座した。妃嬪の席は東西に列が別れており、その両方が向き合う形に並べられている。
互いの目が会った瞬間、梅妃は眉を少し上げて奇妙な顔をしたが、すぐに微笑みに変わった。
ほどなくして、麗殊の右手側に菊妃が座った。
彼女はまじまじと麗殊を見つめ、にやりと口角を上げて言う。
「桃妃かい……? こりゃあびっくりした! いつもとは雰囲気が違うから」
「お久しぶりです。せっかくの宴なので張り切ったのですが、似合っているでしょうか」
「もちろん綺麗だよ。でもこの感じ、まるで儀式の──いや、なんでもない」
菊妃は言葉を続けようとして、途中で首を横に振った。
──流石、勘が良いのね。
麗殊が幻食の力を使おうとしていることに、気がついたのかもしれない。以前、菊妃は儀式を目の当たりにしており、何か感じるものがあるのだろう。
その後、蘭妃と皇后、皇太子、そして皇太后が広間に到着し、最後に朧鳴帝がやってきた。朔は朧鳴帝の側近たちに混じって、壁沿いに立っている。
広間の前方中央に玉座があり、全体を見渡せるようになっている。朧鳴帝の両隣に太皇太后と皇后が、皇后のすぐ傍にまだ十にも満たない皇太子が座していた。
麗殊は四夫人の中では最下位のため、席は九嬪ほどではないが玉座から少し距離がある。とはいえ、その顔をうかがうのには支障ない。
玉座にどっしりと構える朧鳴帝は、麗殊の姿を認めると琥珀色の目を丸くさせた。そして、眉根に皺を寄せる。
──驚いたかしら。
椿妃は彼の記憶にも残っているはず。
朧鳴帝の様子が確認できたので、今度は視線だけを動かして、太皇太后の様子を盗み見る。
宴に参加できてはいるものの、やはり体調が優れないのか表情が固い。淑華宮の侍女も気遣わしげに主を見守っている。
──上手くいけば、今日で全ての謎が解けるわ。
晴れやかな宴の場とは対象的に、麗殊は緊張で手に汗を握る。今日の儀式は絶対に失敗できない。
酒宴に入る前に、七夕節の儀礼が行われる。
天女に祈りを捧げるという名目のもと、自身の針の腕を示した品物を皇帝に贈るという伝統があるのだ。
麗殊も形式上、刺繍を施した手巾を一つ用意した。裁縫は得意ではないが、五日あればなんとか形になるものができた。
「ふむ、良い品だな」
というように、朧鳴帝の反応は無難なものだったが、それは良しとする。
他の后妃、特に九嬪は朧鳴帝に見初められるため、この儀礼に心血を注いでいたが、麗殊の目的はそこにはない。
儀礼が終わり、いよいよ酒宴の幕が上がる。
幻食の儀式が近づくにつれて、期待と不安に気持ちが昂ってきた。
朧鳴帝が全体に告げる。
「此度の食膳は桃妃が考えてくれたのだ」
その言葉を聞いた周囲の視線が、こちらに集中する。事前に情報は回っていたので周知の事実だが、その眼差しからは感心や嫉妬、様々な感情が見て取れた。
麗殊は粛々と立ち上がり、その場で拱手する。
「はい。私に任せてくださいました。今日の献立は、蓮の実と冬瓜の羹、菜燜飯、鰣魚、巧果です。縁起を担げる夏らしい食材を選びました。ぜひ、青梅酒と併せてお召し上がりください」
すらすらと説明した後、秘かに目を動かして、朧鳴帝と皇太后の顔色をうかがう。
朧鳴帝は興味深げに麗殊を見ていたが、皇太后の視線はこちらに向けられていない。二人とも、二十二年前の献立と同一であることに気がついているかは不明だ。
麗殊は小さく息を吐き、入口の扉へと顔を向けて告げる。
「それでは、配膳をお願いします」
すると、衛兵が扉を開き、外から尚食局の宮女たちが食膳を持って入ってきた。彼女たちは粛々と朧鳴帝や后妃の前にある卓に食膳を並べる。
「まずは、蓮の実と冬瓜の羹です。蓮の実は天女のような清らかさを、冬瓜は邪気祓いの意を込めて。滋養もありますので、温かいままでお召し上がりください」
配置が終わると、芙良が全体に告げた。彼女には、麗殊の代わりに酒宴の仕切りをお願いしたのだ。
芙良の前説を聞いた后妃たちは、「いい香り」と目の前の羹に夢中になる。
「朕もいただくとしよう」
朧鳴帝が匙でとろみのある羹を掬い、口にした。それを皮切りに、他の者も手をつけ始める。
──いよいよね。
麗殊は左手で右手に填めた翡翠の腕輪を撫でる。
そして、誰にも聞こえないように小さく、しかし深く心を込めて、詠ずる。
己が知る限りの魂身──椿妃の姿を想像し、この二十二年間の甜氏の想いをかけて。
「──依代は姿を映し、餐は心を解く。味わうは余情、探るは真意。汝の記憶、この身に宿らん」
──記憶よ、お願いだから繋がって。事件の真実を私に見せてちょうだい……!
祈りに目を瞑った瞬間、ぴしりと全身の筋肉が緊張する。肌で感じる空気が変わった。
温かい碗を持ち上げ、銀の匙で羹を口に含む。蓮の実のほくほくとした食感、冬瓜の柔らかくも瑞々しい舌触り。塩味のある羹が染み込んでいて、飲み干すと全身が温まる感覚がする。
麗殊は頬を緩ませ、碗を卓に置き、ほうっと吐息を零す。
──来た!
瞬間、がくんと視界が揺れた。
焼けるような痛みに頭が疼く。網膜に映る宴場の景色が渦を巻く。
気がつけば、麗殊は月燈殿ではなく尚食局の厨房に居た。成功した。椿妃の記憶と繋がったのだ。
宮女たちが働く厨房の中で、椿妃は腰に手を当て、調理台の上の仕込みが終わった料理を見渡して、満足気に呟く。
『後は尚食たちに任せて……この献立で喜んで貰えるといいのだけれど』
肩の力を抜いて、小さく息をつく。
そのとき、背後から『椿妃様っ』とあどけない声で呼びかけられる。
不思議に思って振り向くと、背丈の小さな少年がすぐ傍で椿妃を見上げていた。
『まあ、朧鳴殿下。どうしたのですか?』
緩く束ねた黒髪に琥珀色の瞳。まだ成熟していない丸くかわいらしい顔立ち。──幼き日の朧鳴帝だ。
朧鳴は俯いて、少し恥ずかしげに言う。
『ごめんなさい。月燈殿へ行く最中に、いい匂いがしたから来てしまいました……』
司膳たちを見やると、彼女たちは朧鳴を見て苦笑を浮かべた。皇太孫を追いやることはできなかったのだろう。
椿妃は膝を折り、朧鳴に微笑みかける。
『殿下はお鼻が良いですね。でもまだ、功果以外は未完成なのです。宴では温かいものをお出ししますからね』
『わあっ、楽しみです』
『さあさ。厨房は危険なので、私と一緒に月燈殿に戻りましょう』
そう語りかけると、朧鳴は素直に頷く。椿妃は厨房の入口へと歩いていく幼子の背を見守り、尚食局を纏める尚食に伝える。
『尚食、仕上げと配膳をお願いね』
『承知しました』
尚食が頷く。椿妃よりも背丈が低く、柔らかな黒髪とおっとりとした目元が特徴的な人だ。
椿妃は厨房を見渡した後、朧鳴の背を追って月燈殿へと向かった。
かちり。
記憶の切り替わる音が響き、意識が現実に戻ってくる。
宴の参加者は皆雑談に花を咲かせ、麗殊のことなど気にしていない。
その中で朔がこちらを見つめて、片眉を上げる。麗殊は彼の方を向き、小さく首を横に振った。
──今のところ、記憶に不可解な点はない。
椿妃があのまま月燈殿に向かったならば、槐妃の食膳に毒を仕込む隙はない。特に、怪しい動きをしている人物もいない。
それよりも、だ。麗殊が気になったのは幼き朧鳴帝と椿妃の関係性である。互いに顔を合わせたことがある程度だと思っていたのだが、予想以上に親しげだった。
──今の記憶にも、何か意味があるはず。
事件の真実を知りたいと願って見えたのだから、そこに何か手がかりがあったのだろう。
ともあれ、次の記憶を見なければ。




