三十二、疑念
麗殊は漆塗りの箱を胸に抱え、司察局を出て、足早に帰路を辿る。提灯が夜道を照らし、頭上には小さな星々が輝いている。
南敬という存在が居てくれたことは幸運だった。最後に聞いた彼の推測は己と同じで、やはり──。
考え込んでいると、突然、後ろから肩をとんっと叩かれる。
「きゃっ」
「桃妃、あたしだよ」
飛び退いて後ろを振り向くと、そこには髪を下ろした菊妃が立っていた。湯上がりなのか、とてもいい香りがする。
「菊妃様……あんまり驚かせないでください」
「はは、悪いね」
夜道なこともあり、心臓が止まるんじゃないかと思った。麗殊は跳ねる鼓動を感じながら、抱えた木箱をぎゅっと胸に抱き寄せる。
菊妃はそんな麗殊を見つめて首を傾げる。
「こんな時間に侍女も付けないで何してたんだ」
「……菊妃様こそ」
「あたしは眠れないから散歩してたんだよ。別にぃ? 庭先からこそこそ歩く桃妃が見えたからとかじゃないぞ〜」
目を細めて口角を上げる菊妃に、ぎくりとする。
そういえば、桃晴宮から司察局へ行くには菊河宮の前を通る。どこからか見られていたのか。そういえば、菊河宮は門が開いていたような気もする。
菊妃は腕を麗殊の肩に回して言う。
「主上は皇后様の所へ行ったってさ。あたしたちのとこには来ないんだし、茶でも飲んで一緒に夜を更かそうじゃないか」
この方は少し強引なところがある。断れそうにもなかったので、麗殊はぎこちない表情で頷いた。
そのまま近くの菊河宮まで連れられた麗殊は、菊妃の房室に案内された。卓を囲んで座ると、錦浮がお茶を運んで来てくれた。
「その箱はなんだい。司察局で何してたの?」
菊妃は不思議そうな顔をして、麗殊が卓に置いた箱を指さす。
「ええと……以前訪れた際に忘れたものを取りに行っていたんです」
「ほう、それはご苦労さま」
付け足された「随分大きな忘れものだね」という台詞は聞かなかったことにする。
麗殊はぼんやりと箱を見つめ、菊妃に尋ねる。
「菊妃様は、先々代の後宮にいた四夫人の一人、椿妃をご存知ですか」
「突然へんなことを訊いてくるね」
「最近、彼女に関するある噂を耳にしまして」
「ふうん……」
常日頃から情報収集をしている菊妃ならば、椿妃のことも知っているかもしれない。
菊妃は顎に指先を添えて話す。
「詳しくは知らないけど、その名は聞いたことあるよ。有能な妃だったんだろ。あんたと同じで。……そうだ、南敬って男をこの前見かけただろ?」
まさについ先程会ってきた男の名前を出され、麗殊はぎくりとする。
菊妃はこちらの心境を知ってか知らずか、目付きを鋭くさせて言葉を続ける。
「あの時に話した南敬の罪についてだが……あいつはその椿妃ってお妃様の宮に忍び込んだから、刑を受けたらしいんだ」
「え」
「流石、皇帝が見初める姫なだけあって、宮中でも彼女に傾倒する者は少なくなかったとか」
南敬が椿妃を信じてくれていたことの裏付けが取れた。彼は、椿妃に想いを寄せていたのだ。重刑を食らってもなお、彼女への想いはそのままに……。
菊妃が訊いてくる。
「あんたが聞いた噂ってのもそのことじゃないの?」
「は、はい……実は、そうなんです。色々宮中の人物と複雑な関係があったと聞いて、菊妃様はご存知なのかなあって」
麗殊は曖昧に笑って誤魔化し、考える。
尚食局からの帰りに見かけたあの集団。
『反主上派の古臭い宦官たちだ。急進的な主上の政策に対して不満を持ってんだよ』
菊妃はそう言っていたが、その不満はもしや、変わり者皇帝の政策に対する政治的な立場からの反発ではないのでは。
太皇太后とその血を引く朧鳴帝に対して私怨を抱き、彼らは反勢力となっているのではないか……。
甜氏以外にも二十二年前の事件を風化させないよう動いてくれている人達がいる。そう考えるととても心強い。
麗殊はお茶を飲み干すと、立ち上がり、箱を胸に抱えて頭を下げる。
「すみません、美味しかったです。そろそろ戻らないと侍女たちに心配されてしまうので」
「そう。何か悩んでることでもあるんだったら、あたしに言いなよ。あんたはあたしの恩人なんだから」
「……はい、ありがとうございます」
優しく微笑む菊妃に、麗殊はもう一度礼をした。
その夜、懐かしい夢を見た。
夢ではなく、かつて麗殊が幻食の儀式で見た母の記憶の再現、と言った方が正しいかもしれない。
神顕山の森林の中で、仲の良い姉妹──幼い頃の椿妃と麗殊の母が二人で遊んでいた。その途中で、それぞれ木の実を取ってきて、その大きさで勝負することになった。
おかっぱ頭の母は、木々の間に落ちている木の実を必死に探す。その途中で、白い兎がぴょんっと跳ねるのを見つけた。
母は兎を捕まえ抱き寄せるが、足で蹴られ逃げられてしまう。その場に転んで母は膝を擦りむいてしまい、泣き声を上げる。
『うぇぇんっ!!』
『大丈夫!?』
その声を聞きつけた椿妃が、慌てて駆け寄ってきた。
母が兎に襲われたことを話すと、椿妃は穏やかに諭す。
『気をつけないとだめよ。兎はかわいいけれど、意外と凶暴なの』
痛い、怖かった、と涙を流す母を抱き締め、椿妃は言う。
『ごめんね、駆けつけられなくて。これからは何があっても、お姉ちゃんが絶対に守ってあげるから大丈夫よ』
優しい声色で告げられた言葉。自分を守ってくれると約束した頼もしい姉の姿。
それは、母の記憶に強く刻み込まれていた──。
窓から差し込む光を瞼越しに感じて、麗殊は夢から覚める。
──我ながら、夢が現実の影響を受けすぎてるわね。
そんなことを思いながら、就寝用の衣から普段着の襦裙に着替えた後、栖遥から一通の文を手渡された。
どうやら、蕾が朔からの文を届けてくれたらしい。朔は今日、大医としての業務が忙しいらしく、直接ここへは来られないのだとか。
文の一枚目には来月開催される七夕節の宴の概要が記されており、二枚目には二十二年前に行われた七夕節の宴の献立が写されていた。
今年の七夕節の宴に参加するのは、皇帝・皇太子・皇后・四夫人・九嬪、計十六名と側近や護衛たち。
七夕節は女子の裁縫や機織りの上達祈願が目的のため、宴は後宮内の宴場で開かれ、外朝の官吏たちは参加しない。比較的小規模な宴だ。
──肝心の献立はどんな感じかしら。
麗殊は文の二枚目に目を通す。
献立は菜燜飯、鰣魚、蓮の実と冬瓜の羹、巧果。その材料も詳細に記録されているので、準備は順調に進められそうだ。
宴に思いを馳せるうちに、昨夜の南敬との会話が蘇ってくる。
『南敬殿は、誰が怪しいと思いますか』
『太皇太后──当時の皇后が怪しいと思っています。彼女に対する黎晟帝の寵愛は冷めており、彼女が椿妃様や槐妃様に激しく嫉妬していたことは有名でしたから。それに、椿妃様が亡くなる直前、皇后は牢に様子を見に来ています。……彼女がやったという証拠はないため、推測にすぎませぬが』
──私も考えたことはあるけれど、やっぱり真犯人は太皇太后様なのかしら。
情勢的に嫉妬が動機だと考えると辻褄も合うような気がする。
そもそも、いつ槐妃の食膳に毒を仕込んだのか。隙があったのか。誰か手先がいたのか。なぜ、椿妃は自ら死を受け入れたのか。なぜ、この事件を公にせず、隠そうとするのか……。
謎は犯人だけではない。状況も、椿妃自身の想いも全て不明瞭だ。
やはり、記憶をこの目で確かめねば──。
麗殊は昼餉を食べ終わった後、芙良に宴の献立と用意して欲しい材料の種類と量を伝えた。用意する食膳は三十から四十ほど。当日は麗殊が指揮を執り、尚食局の宮女が十数名調理を担う。責任重大な仕事である。
日が傾き始めた頃、麗殊は悩んだ末に、ある場所を訪ねることにした。
黄瑞殿の西には先代の后妃が住まう宮が立ち並んでいる。その中でも一際大きな淑華宮、そこに太皇太后が暮らしているという。
栖遥と共に淑華宮に行くと、ちょうど宮の中から、侍女を連れた梅妃が出てくるところだった。
思いがけない遭遇に、麗殊は「梅妃様?」と驚きの声を上げる。
こちらに気がついた梅妃も、ぎょっとした様子で「どうしてここに……」と呟いた。
「太皇太后様とお話をされていたのですか?」
「ええ、少しお茶をしていたの。桃妃も?」
「はい」
「そう。それじゃあ、わたくしはこれで」
梅妃は曖昧に微笑み、そそくさと去っていく。
前に梅泉宮で話した時と比べて随分素っ気ないが、そういうものなのだろうか。
不思議に思いながら開かれた門の前まで歩み寄ると、太皇太后が敷居のすぐ傍に立っていた。梅妃を見送るためだろう。
太皇太后は麗殊を見るなり、顔を歪め、房室の中へと戻ろうとする。
「太皇太后様、桃妃、甜麗殊です。少しだけお話を……!」
「悪いけれど、あなたと話すことなどないわ。帰りなさい」
太皇太后はこちらに背を向けたまま、年季の入った声色でぴしゃりと言い放つ。
麗殊は食い下がらずに「ですが──」と続けるが、侍女が眉をひそめながら、間に割って入ってくる。
「太皇太后様はお加減が優れないのです。お引き取りを」
侍女はそのまま淑華宮の門を閉じてしまった。
立ち尽くす麗殊に、栖遥が気遣わしげに声をかけてくる。
「桃妃様、今日は無理そうですね」
「そうね……」
明らかに避けられてる。今の様子からしても、やはり、麗殊──甜氏に対して何か後ろめたい事情があるのは間違いない。
朧鳴帝は、太皇太后はもう長くないと言っていた。七夕節まで持つのかも分からないと。
もしも、麗殊が真実を知る前にこの世を去ってしまったらどうしよう。そんな不安が募る。
──はやく、はやく宴の日が来て。
ずっと二十二年前の事件に頭を悩ませている日々は、息が詰まって仕方がない。それに、他人の生死に己の私利私欲を絡めて考えるのも心苦しい。
重圧を感じる閉ざされた門の前で、麗殊は小さくため息を零した。




