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三、野心

 朝日が登り、爽やかな夏の日差しが後宮を明るく照らす。

 黄瑞殿からの帰り道は来たときとは違い、往来に宮女たちが行き合っていた。

 皆、早朝から侍女も連れずに出歩く嬪たちに訝しげな視線を向けるが、話しかけてくることはない。こちらとしても何も答えられないので好都合だ。


「とんでもないことになったわね」


 割り当てられた宮に辿り着くと、麗殊はふらふらと自室の寝台に寄りかかる。ここは最低限の調度品があるのみの狭い房室だ。


 麗殊に侍女はいない。一人の方が気楽だからと家から連れて来なかった。

 妃嬪の中で、麗殊は新入りである。後宮が刷新されたのは二年前だが、事情があって、麗殊が妃嬪として後宮入りを認められたのは半年前だった。

 加えて、麗殊の号は充媛(じゅうえん)、九嬪の最下位だ。九嬪は全員同じ嬪とはいえ、その中でも位分けされているのである。待遇に大きな差はないが、その僅かな差を笠に着ている者も多い。


 このような理由から、麗殊は面倒を避けようと身なりを質素にして侍女も付けずにいる。但し、これは現状に合わせているだけであるが。


「しばらくは喪服かしら」


 麗殊は鏡の前に立ち、白い襦裙に着替える。

 灯華国の後宮では、妃以上の位をもつ妃が亡くなった際、最低でも七日は喪に服す決まりがある。

 白い衣裳を持ってきていて良かった。竹妃とたいした面識がないとはいっても、己も後宮の妃である以上、体裁は取り繕わなければならないだろう。


「ううっ、また鳴ってる」


 麗殊は寂しそうなお腹を擦りながら、日の当たらない棚に仕舞われていた木箱を取り出す。

 細い指で箱の蓋を開けると、中には白色にほんのり桃色が混ざったような丸い果実が一つだけ入っていた。


 これは、麗殊の大好物である水蜜桃だ。

 当初は隣にもう一つ入っていたのだが、数日前に食べてしまった。

 地方の領主からの奏上品を皇帝が妃に下賜したもので、麗殊の位には二つが最大である。

 これが四夫人ともなれば、九嬪の比にならないくらい、たくさんの桃を分け与えられているのだろう。


「もう食べちゃおうかしら……いいわよね?」


 麗殊は大事に取っておいた桃を手に取り、フフとだらしない笑みを漏らす。

 実は赤く染まった厚い皮に覆われており、ざらざらとした質感が、指先を弄ぶ。芳醇ではっきりとした香りが食欲を引き立てる。


 手持ちの桃はこれが最後だ。次はいつ貰えるかも分からない。けれど、我慢できない。


 かぷり。

 僅かな逡巡の末に、麗殊は小さな口を開いて桃を齧った。大好物を前にして、その手を止めることはできなかったのだ。


「はぁぁ、おいしい……!」


 果実は固めで歯ごたえがあり、少し酸味がある。個人的には甘い桃の方が好きだが、これはこれで美しい味わいだ。


「まあ!」


 ふと、戸口の方から驚くような声が上がる。

 麗殊が視線だけ声の方にやると、そこには眉をひそめた娘がこちらを覗くようにして、二人並んで立っていた。


「この子ったらこんな状況でも桃が一番なのね」

「いつもそうだけど、あなたが食べるときってちょっと気味が悪いわ」


 控えめな白い襦裙を纏った娘たち──充儀(じゅうぎ)充容(じゅうよう)が順に麗殊へ声をかける。二人は麗殊と同じ九嬪であり、黄瑞殿の広間で皇帝の勅命を聞いていた。

 後宮で自分の宮を持てる妃は、皇后と四夫人のみだ。それより下位の妃は複数人でひとつの宮を分け合っている。

 麗殊はこの二人と共に同じ宮で暮らしていた。九嬪の中で下から数えた三人である。


(あん)嬪、(そう)嬪」


 舌に残っていた桃を飲み込み、戸口に立つ二人の名を呼ぶ。

 九嬪の中では、互いに格式張った号で呼び合うのが煩わしいという理由──鄒嬪の提言である──から、それぞれの名の字を取って呼ぶのがしきたりになっている。

 そのため、麗殊は充儀を晏嬪、充容を箏嬪と呼び、彼女たちからは(れい)嬪と呼ばれていた。


「真の食とは、口だけでなく全身で味わうものなのよ」


 麗殊が諭すように話すと、晏嬪はその猫目を、箏嬪は垂れた目を細めて、やれやれと首を横に振る。


「もう、またわけの分からないことを」

「変わり者は放っておきましょう」


 そして、二人は足の向きを変えて、隣接した箏嬪の房室へと入っていった。


 ──私も変わり者なのかしら。

 麗殊は桃を食みながら考える。まさか、皇帝と同じように称されるとは。

 まあ、人それぞれ持ち得る感覚は違うから、理解されなくとも構わない。自分自身が幸せであればそれでいいのだ。


 水蜜桃を食べ終わり、睡魔に襲われて椅子の上でうとうとしていると、突然、房室の戸が開かれた。


「麗嬪、いる?」


 控えめな声が降ってきて、麗殊は瞼を持ち上げる。

 垂れ目の箏嬪だ。彼女は麗殊の姿を認めると、すたすたとこちらへ近寄ってきた。

 こちらから親睦を深めようとしたことはないが、この娘はなにかと麗殊に構ってくる。話し相手は一人よりも二人の方がいいというだけかもしれない。


「どうしたの?」

「その……麗嬪は考えた? 竹妃様のこと。どうして逝去されたのか分からなくって。検視官に聞けばいいのだろうけど、恐ろしいわ」


 そう語る箏嬪は、表情に悲壮感を漂わせている。自分と同じ後宮の妃嬪の死に、なにか感じるものがあるのだろう。


 それにしても、箏嬪は皇帝の問いの本意を理解しているのだろうか。

 誰かに聞いてすぐに分かるものではないはずだ。でなければ、わざわざ大々的に課す意味がない。

 ……などと、目の前の娘に言っても話をややこしくするだけなので、麗殊は無難な言葉を返す。


「わたし、竹妃様とは全く関わりがないから何も分からないわ」

「やっぱりそう?」

「ええ……箏嬪は妃になりたいの?」


 麗殊が尋ねると、箏嬪は微かに肩を揺らして、そして頷いた。


「それはそうよ。もしも四夫人の位に上がれたら、食膳も衣裳も宮も豪華になるわ。それが、主上の寵妃ともなれば、周囲からの目は一変する。お母様とお父様だって喜んでくれる。そうでしょ?」

「そうかもしれないわね」

「かもって、まるで他人事ね。あなたも九嬪なのに」


 箏嬪が呆れたような視線を麗殊に向けたそのとき、忙しない足音ともに強い呼び声が飛んでくる。


「箏嬪!」


 今度は猫目の晏嬪だ。彼女は箏嬪と麗殊を交互に見て、つかつかと房室に立ち入ってくる。


「どうしたの?」

「もう。この子を焚き付けないでよ。竹妃になれるのは一人だけなんだから、今のは敵を増やす行為よ」

「ご、ごめんなさい……でも、この子は興味ないみたい」

「そうなの? まあ、いいわ。さっそく竹妃様と関わりのある女官に聞きに行きましょう。あと五日間しかないわ」

「ええ」


 箏嬪と晏嬪は会話を終えると、麗殊に手を振り、房室から出ていく。二人は後宮入りする前から仲が良いというし、一緒に情報収集をしにいくのだろう。


 ──もちろん、私も昇進する気よ。

 麗殊は口角を上げて、卓に置いた水蜜桃の空箱に目をやる。

 こちらとしても、このまま充媛として一生この狭い宮で暮らしていくつもりはない。

 位が上がれば下賜される桃も増える。皇帝に気に入られれば、さらに増えるだろう。桃以外にも、世界各地の美味なる食材を食べられるに違いない。だが、それはおまけだ。


『おまえは食欲以外の欲が乏しいけれど、此度に限っては野心が必要よ。機は逃さないで』


 都に来る前、母から告げられた言葉。

 しばらくは様子見だと思って我慢していたが、今こそが好機なのかもしれない。


「──真相を暴き、(てん)氏の誉を取り戻せ」


 麗殊は目を瞑り、胸に手を当てて呟く。

 元より、麗殊が妃選抜に挑んだのは全て甜氏ため……朧鳴帝に近づくためである。桃を食べに来ただけではない。決して、それを忘れてはならない。

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