二十七、暗雲
麗殊たちは後宮の黄瑞門で馬車から降りると、護衛の役目を終えた蕾は颯爽と姿を消した。麗殊と朔は再び二人きりになる。
朔が「桃晴宮まで送っていく」というので、その言葉に甘えて二人で帰路を辿る。火馨の入った袋は朔が持ってくれた。
──薬屋を後にしてから、朔殿はずっと上の空だわ。
日照りの中、麗殊は薄紅色の傘で陽を遮りながら、歩みを進める。隣で朔も同様に歩いているが、その足取りは重い。彼の表情も、琥珀色の瞳も濁っていた。
朔に何があったのか。麗殊が薬屋の店主と話している間に、彼の様子が変わった。いや、その前から少し変だったが、それは麗殊が余計な質問をしたからだ。今の翳りは別の種類のものの気がする……。
矯の薬師の表情といい、やはり彼と朔は知り合いで、なにか裏の事情があるのではないか。そのせいで朔は悩んでいるのでは。
疑念が絶え間なく頭に過り、麗殊は口を閉ざして物思いにふける。その時。
「うっ」
鋭い痛みがこめかみを突き刺した。キーンと耳鳴りがして、思わず両手で耳を覆う。からん、と音を立てて傘が地面に落ちた。
息が苦しい。竹妃の、梅妃の、菊妃の記憶──直近の幻食で見た記憶が断片が滝のように押し寄せてくる。
ぐらりと足がよろめき、平衡感覚を無くして身体が足元から崩れる。倒れる、そう思い麗殊らぎゅっと目を瞑る。瞬間。
「桃妃!」
朔が異変に気がつき、麗殊の身体を抱きとめた。
目の前には彼の胸板があり、腕は背中に回され、麗殊は彼の中にすっぽりと包み込まれていた。
重い頭をもたげて朔の顔を見ると、彼は不安を滲ませた表情でこちらを見下ろしていた。
「どうした……?」
麗殊はその間も絶え間なく痛みに襲われ、縋るように朔の服を握って、なんとか言葉を紡ぐ。
「さ、朔殿……あたまが、痛くて……」
「もう薬の効果が切れたのか……やっぱり休むべきだった」
朔は眉間に皺を寄せて、苛立ちを滲ませた声で吐き出す。そして、虚空に向かって「蕾!」と配下の名を呼んだ。
「仮宿から俺の薬箱を持ってきてくれ。その後、主上に連絡を。この果実は菊妃に、彼女には心配をかけないよう桃妃のことは伏せてくれ」
「御意」
蕾は頭を垂れてすぐに去っていく。
その後、ただ荒い息を吐き出すだけの麗殊を、朔は両腕で抱き抱えて、桃晴宮まで運んでくれた。
男装のままぐったりとして戻ってきた主人見て、炉辰と栖遥は悲鳴のような声を上げた。朔はてきぱきと彼らに指示を出し、麗殊を寝室へと運ぶ。
すぐさま蕾が戻ってきた。朔は彼が持ってきた薬箱を受け取り、房室の卓の上で開く。箱の中から小瓶を取り出して、寝台の上の麗殊の元まで運んだ。
「飲める?」
朦朧とする麗殊に朔が問いかける。耳鳴りの中聞こえたその声に、こくりと頷く。
朔は麗殊の首裏に腕を差し込み、支えてくれる。彼の手を借りて、小瓶の中の液体を飲み込んだ。今朝摂取した鎮痛薬と同じで、爽やかな喉越しの液体だ。
「ふっ、はぁ……」
途端に息苦しさが薄まり、徐々に耳鳴りも消え、頭痛も弱くになってきた。
麗殊が呼吸を整える横で、朔は栖遥から桶を受け取り、白い手巾を水で濡らす。強く絞ったその手巾を持って寝台の傍に膝を付き、麗殊の額に乗せてくれる。冷たい感触が気持ちいい。
朔の腕が離れていく。甘い香りが鼻をくすぐると同時に、赤い花が視界を掠める。右袖の内側に隠れた白い腕に、それは咲いていた。
──この花は。
刹那、麗殊はずっと前にもこの痣を見たことがあることに思い至る。腕から漂う甘い香りも、覚えがあった。
「ま、待って」
麗殊はハッとして起き上がり、朔の腕を掴む。
「何?」
朔は瞠目し、困惑の表情を見せた。
「その腕の痣は何? 私、その紅い花の刻印を持つ人を他に知っているわ……」
麗殊は一昨日に見た夢、六年前の記憶を手繰り寄せる。
額を撫でられた時、あの薬師の腕にも、赤い花の象った痣があるのが見えた。最初に朔の痣を発見した時に見覚えがあると感じたのは、薬師の腕を見たことがあったからだ。
突然の告白に、朔は愕然として己の腕を見つめる。そして、やんわりと麗殊の手を振り解いた。
「……この痣のことを知っていたのか」
「痣のことは知らないけど、同じ花を持つ人は知ってる。さっきの、矯って薬師よ」
不調の中、麗殊は言葉を詰まらせながら話す。
一方の朔は唇をぐっと噛み、難しい顔をして麗殊を見つめる。
その後、僅かに瞳を泳がせ、口を開いた。
「俺の母は、矯の生まれなんだ」
朔の言葉に、麗殊は息を呑む。赤い花は、矯氏の印だったのか。
──なら、主上が朔を寵愛するのは朔殿が矯氏だから?
若くして大医となったのも、薬学医学に精通する特異な一族だからと考えれば納得がいく。もしかしたら、朔も異能を持っているのかもしれない。
──薬屋の前で様子がおかしかったのは、おじさんが同じ矯氏だと知って驚いたからなの?
朔がいつから宮中にいるのかは分からないが、二人に面識はなかったのだろうか。これは己が甜氏であるからこその偏見だが、辺境の族というのは大抵閉鎖的で、属する人間を一通り把握していそうなものなのに。
思考の波に呑まれる麗殊に、朔は低い声で「桃妃」と呼び掛ける。
「あなたは、自分を助けた恩人が《《あの矯氏》》だと知ってどう思ったの。俺が矯氏の人間だと分かって、何を感じてる?」
光のない琥珀色の瞳が麗殊を突き刺し、背筋に冷たいものが走る。朔は、朧鳴帝や太皇太后と同じ蛇のような眼差しをしていた。
問いかけの意味がわからず、麗殊は動揺する。
「どうって、私、あなたが何を聞きたいのか分からないわ……。矯氏のことも詳しくは知らないし……」
眉尻を下げて戸惑いがちに言うと、朔はぎょっとした様子で呟いた。
「まさか、何も知らないのか……?」
朔はその場に立ち上がり、呆れたような顔をして麗殊を見下ろした。
そして、吐き出すように言い放つ。
「あなたは椿妃、椿妃と彼女のことばかり口にして、全てを知ったつもりでいるけど、本当は何も知らないようだね」
それは、普段の朔からは考えられないほど尖った声音だった。
麗殊が言葉を発する前に、朔は無表情のまま袖を捲り、手首の裏にある痣を麗殊の身体の上に翳す。
「汝の気を鎮め、陰陽を調和し、邪を祓わん」
赤い花が仄かに光り、麗殊の身体を照らした。光が消えると朔の痣の色が薄まり、薄紅に変わった。
「何を──」
「矯氏の呪いだ。全身の気が弱ってる。今日は一日寝ていなさい。後で薬を調合してあなたの侍女に渡すから、それを飲むんだ。そうしたら、脳の疲れもすぐに治まる。分かったな」
抑揚のない声で告げ、麗殊に背を向ける。そのまま薬箱を手にして、房室を出ていった。
彼の放つ冷たい空気に触れ、麗殊はただ唖然として、閉まった扉の木肌を見つめる。
「私は何も知らない……って、なら、あなたは何を知っているの?」
呟く声が震える。朔の失望の理由は見当もつかない。
太陽が雲に覆われて、窓から差し込む光が消えていく。やがて、麗殊の房室を暗い影が包み込んだ。
***
朝日が登り、小鳥が鳴く。宦官や宮女たちが忙しなく動き始める。
目覚めると、すっかり身体が軽くなっていた。脳が揺れるような頭痛も収まって、視界が鮮明に広がっている。
寝台の上で上体を起こした麗殊は、両手を膝の上に乗せて開いて握り、身体の感覚を確かめる。
──この十数日で積もり積もった疲労が、一夜にして軽くなった。
まだ全身のだるさは残っているが、それはただの風邪くらいのものだ。昨日までの不調は明らかに癒えている。
六年前、あの薬師も一夜で麗殊を回復させていた。矯氏の呪術というのは本当に魔法や神の力のようである。
昨日は朔が去ってから何も手につかず、昼餉も夕餉もろくに取れないまま薬だけを飲み、寝てばかりいた。
しかし今日は、ぐううと腹が鳴いている。朝餉を食べる元気もあるらしい。完全に回復し切っている。
栖遥が粥を作ってくれたので、麗殊はそれを有難くいただいた。葱と生姜の入ったそれは芯から温めてくれる。病み上がりだというのに二杯も完食した麗殊を見て、栖遥は安堵の表情と共に苦笑を見せた。
朝餉を食べてしばらくすると、菊妃が見舞いに来てくれた。斜め後ろに小さな木箱を抱えた侍女が控えている。たしか、錦浮という名だ。
菊妃は麗殊の房室に立ち入ると、張り詰めた表情で頭を下げた。
「桃妃、すまない……あたしのせいだよ。ちょっとしたことで力を使わせてしまって」
「そんな、頭を上げてください」
菊妃が謝る必要などない。今回のことは麗殊の自業自得なのだ。
麗殊は慌てて弁解する。
「倒れたのは、私が体調管理を怠ったせいです」
そして、菊妃に想いの丈を伝える。
「思い出の味というものは一生心に残る大切なものだと思います。私も食べることが大好きだからこそ、その想いを大切にしたい……。宝物のような記憶を見せていただいて、ありがとうございました」
「そんなの、お礼を言いたいのはあたしの方さ。昨日、桃妃が買ってきてくれた果実で饅頭を作ってみたんだ。そしたらもう、懐かしくて、泣いてしまった。本当にじじさまの味がしたよ」
菊妃は心底嬉しそうに語った。その顔を見て、麗殊も胸を撫で下ろす。無事に祖父の味を再現できたようで良かった。
そして、錦浮から木箱を受け取り、それを麗殊に差し出した。
「これはあたしが作ったやつだ。じじさまの美味しい饅頭を、あんたにも味わって欲しくて」
はにかみながらそう言って、「もちろん、調子が良くなってからな」と付け加える。
「わあっ、ありがとうございます!」
麗殊は目を輝かせて木箱を受け取る。まさか、貰えるとは思っていなかった。未知の果物、火馨を使った饅頭は、果たしてどんな味がするのか。また新たな食の楽しみが増えた。
静養の邪魔をしてはいけないからと、菊妃はすぐに帰って行った。
菊妃の望みを無事に叶えられたので、これにて今回の食解きは完遂したといえる。気がかりなことが一つ消えたのはいいが、今の麗殊は更に大きなしこりを抱えていた。
──朔殿に謝りに行かなくては。
昨日一日でどれだけ迷惑をかけたか分からない。限界を迎えていたのに、まだ大丈夫だと自負した結果がこのザマだ。自分が情けない。
やっと後宮に入ることができ、皇帝に近づくことができたからと躍起になっていたのだ。今後は絶対に無理はしない、と麗殊は深く反省する。
『あなたは椿妃、椿妃と彼女のことばかり口にして、全てを知ったつもりでいるけど、本当は何も知らないようだね』
怒りを全身に滲ませた朔は初めて見た。怒りの理由は分からないが、麗殊が彼を傷つけてしまったのは間違いない。
昨日の冷たい眼差しを思い出すと、チクチクと胸が痛む。彼に嫌われたくない、そんな想いが麗殊の中に芽生えていた。
コンコンと房室の扉が叩かれ、炉辰が中に入ってくる。
「桃妃様、親族の方から文が届いております」
炉辰はそう言って、一通の文を麗殊に手渡した。
それは父からの文だった。無事に後宮入りできた麗殊に対する奨励、椿妃の件を忘れるなという戒めが整然とした字で綴られ、最後に麗殊の兄が官職を得たということが添えられていた。
「うそ、兄様が……?」
麗殊は文を手に困惑する。
科挙の時期はもう過ぎた。まずそれ以前に、二十二年前から甜氏の男は一切任官できていない。椿妃の影響で、試験がどれだけ上手くいっても、最後には弾かれてしまうのだ。
それが今になって、季節外れの任官を受けるなど、異常事態だ。正八品という下級官吏であるが、長年干されていたことを考えると、それでも大抜擢である。
──主上が任命したの? いったいどうして。
ここ数日、周囲で様々なことが起きている。まるで自分だけ蚊帳の外にいるようだ。
猜疑に囚われた心を鎮めるため、麗殊は懐かしい故郷の香りのする文を胸に抱く。そして、憂えげに息を零した。




