二十三、観察
菊河宮と尚食局は離れているため、後宮の後方中央にある庭園の傍を通っていく。今日は晴れ日和で、少し蒸し暑い。
菊妃に続いて歩いていると、ふと、彼女が庭園の中の方を見て足を止めた。つられて視線の先を見ると、花々に囲まれながら数人の女が話し込んでいるのが見えた。
「あれは、皇后様と蘭妃様だな」
菊妃が呟いた。
煌びやかな襦裙の美しい姫が立っていて、それぞれの侍女が姫の頭上に傘を差しかけている。皇后は麗殊が輿入れした際に目にしたので、もう片方が蘭妃だろうと推測できる。
麗殊は菊妃に尋ねる。
「菊妃様は皇后様たちとも仲が良いのですか?」
以前、竹枢宮の陶鼓から聞いた話や周囲の噂によると、皇后や四夫人など高位の妃たちの仲は良好だというが。
予想に反して、菊妃は難しい顔をして言う。
「あたしにも優しく接してくださるが、どうにも合わない」
「合わない?」
「二人とも都育ちでお淑やかすぎるんだ。合わないってだけで、どちらも気の良い方たちだよ」
菊妃を見ていると、その理由も分かる気がする。時間を共にしたのは未だ極わずかであるが、菊妃は後宮では見かけない風の女だ。麗殊のような辺境育ちはまだしも、箱入りの令嬢たちとは感覚が違うのだろう。
「そういう桃妃はどうなんだい?」
「いえ、私はまだ四夫人になったばかりで、お話したことはないんです。喪服と病の流行もあり、なかなか直接ご挨拶できず……」
「ああ、そうだったね」
菊妃は納得したように頷く。そして、再び庭園の中を見ると「あれ」と首を傾げた。
「奥に太皇太后様もいらっしゃる……こりゃまた珍しい。ご高齢だから体調を崩されて滅多に外に出ないのに」
「まあ、あの御方が」
先程は皇后と蘭妃の傘に隠れていたが、二人と向かい合うようにして白髪の老女が立っているのが見えた。彼女も同じく侍女を連れて、日除けの傘を差させている。
太皇太后といえば朧鳴帝の祖母であり、黎晟帝時代の皇后だ。実質後宮の主とも言えよう。前帝と皇太后は既に亡くなっており、現代では唯一朧鳴帝に敬意を払われる人物だ。
──そういえば、彼女も二十二年前の宴に参加していたわね。
麗殊は数刻前に見た記録の内容を思い返す。参加者の欄に太皇太后の名もあった。彼女の当時の年齢は知らないが、随分歳を召していることだろう。五十歳である麗殊の祖母よりも一回りは上なはずだ。
そうか、椿妃事件を解く鍵は朧鳴帝だけではないのだ。彼女の記憶を覗くことができれば好都合なのだが。
立ち止まって見過ぎてしまったせいか、蘭妃がおもむろに麗殊たちの方へ視線を向ける。そして、皇后や太皇太后に何事かを話して、こちらへと近づいてきた。庭園と道の境には垣根などなく開かれた状態なので、自然と直接対面する形になる。
光に透ける黒髪を胡蝶蘭の簪で結い、白色の杉に薄い青色を基調とした裙を履いている。丸く白い顔に乗ったおっとりとした目をぱちぱちと瞬かせ、口を開く。
「菊妃ったら、侍女も付けずに何をしてるのですか?」
「こんにちは。少し散歩をしていたんです」
蘭妃の問いに菊妃は拱手してから答えた。麗殊も静かに礼を執る。
今度は、蘭妃の後ろから皇后が「どうしたの」と歩いてくる。
──本当に、後宮には見目が好い人しかいないんだから。
麗殊は己の地味目な顔と平坦な身体が情けなくなる。
初対面時にも思ったが、皇后はハッと目が覚めるような麗しさが備わっている。
紅色の襦裙を纏う彼女は、蘭妃に似て柔らかな顔立ちでありつつも一層洗練された雰囲気で、その立ち姿から妃の最高位としての品格が感じられる。
豊かな睫毛に縁取られた皇后の瞳が麗殊を射抜き、小さな赤い唇が動く。
「菊妃と、そちらの姫は桃妃ね。充媛だった時に一度目にしたことがあるわ」
「はい、桃晴宮の桃妃です。先日は文のみのご挨拶で失礼いたしました」
「構わないわ。原因不明の病が流行ってたせいで、わたくしも外に出られなかったもの」
麗殊が皇后と挨拶を交わした後、蘭妃とも挨拶を交わす。二人とも、その一挙一動から上品な様がうかがえる。先程の菊妃の評の通りだ。
皇后や蘭妃といくつか言葉を交わした後、菊妃が「太皇太后様に挨拶しないわけにはいかない」と麗殊の耳元で囁いた。そして庭園の木々を見上げる太皇太后の方へと足を向ける。麗殊もそれに付いて行った。
麗殊たちが近寄ると、傘の下の太皇太后はこちらを流し見る。黒の混じらない真っ白な髪と目元の深い皺からは彼女の過ごしてきた年月を感じさせた。
菊妃が先んじて拝舞する。
「太皇太后様、お久しぶりです。お姿をお見かけしたので、ご挨拶をと」
「ありがとう」
太皇太后が菊妃に一言返した後、今度は麗殊が口を開く。
「太皇太后様、お初にお目にかかります」
しかし、言葉は返ってこない。突然、沈黙が広がり、麗殊の身体が強ばっていく。
老女は朧鳴帝と同じ蛇のような目つきで、麗殊の爪先から頭の頂きまで視線を滑らせた。その見透かすような鋭い眼差しはよく似ているが、瞳の色は琥珀色ではない。
幾秒かの後、太皇太后はふっと息を吐き出して口元に笑みを浮かべた。
「桃妃、だったかしら。あの甜の娘の。あんまり似ていないわね」
乾いた声音で語られた台詞に、麗殊は己の存在が歓迎されていないことを悟る。
──そうか。二十二年前、椿妃は皇帝最愛の妃だったんだもの。
当時の彼女にとって、椿妃は敵だったはずだ。さらに、宴で起きた事件も知っているならば、甜氏に対していい印象を持っているはずがない。
麗殊が言葉を返せないでいると、太皇太后が苦しげに額に手を当てて、隣に立つ侍女に告げる。
「長居し過ぎたわ。もう戻ります」
すると、庭園の中へ戻ってきていた皇后が「太皇太后様にご挨拶を」と恭しく腰を折り曲げた。四夫人はそれに続く。
麗殊は頭を下げて草に覆われた地面を見つめながら、考える。
──もしかして、太皇太后が椿妃を陥れた?
これは憶測に過ぎず、今のところ証拠は皆無だ。しかし、事件の犯人として処刑された椿妃も、椿妃に殺されたとされる魁妃も、黎晟帝から皇后を凌ぐ愛を注がれていたという噂だ。二人が居なくなって得をするのは皇后だろう。
自分の宮へと戻る太皇太后の後ろ姿が小さくなったのを見送り、菊妃が麗殊に声をかける。
「あたしたちも行こう。夕餉作りが始まっちまう」
「はい」
麗殊は老女に対する疑念を抱えながら、菊妃と共に尚食局へと向かった。
尚食局に辿り着いてから食庫の食材を分けてもらうまでは、存外滞りなく進んだ。
ちょうど馴染みのある芙良が居合わせたので、幻食に使うのだと説明すればすんなりと理解してくれたのだ。菊妃も麗殊も高位の妃だから、というのもあるだろう。結局、菊妃が袖に忍ばせた金の飾りたちの出番はなかった。
麗殊たちは食材の入った袋を抱えて帰路につく。再び庭園沿いを通ったが、皇后と蘭妃の姿はもう見えなかった。
麗殊は歩きながら、手元の袋を眺めて考える。菊妃は芙良に羊肉、蜂蜜、発酵酒、葱、醤を頼んだ。見るからに美味しそうな組み合わせである。
「何を作るのですか?」
麗殊が嬉々として訊くと、菊妃は得意げな顔をする。
「美味しい肉料理だよ。これはあとのお楽しみってことで。さて、料理以外に必要なものはあるのかい?」
「そうですね、今から、かつて菊妃様が過ごしていた御屋敷にお邪魔できたり……?」
「それは無理だろう。あたしが住んでいたのは五百里も離れた西の国だぞ」
「ですよねえ……」
そりゃそうだ。幻食の精度は落ちるが場所の再現は諦めよう。他の触媒でどうにか、記憶を繋げるしかない。
「そんなに遠いのに、菊妃様はどうして後宮へ入ることになったんですか?」
「変な話だよ。あたしは二年前、灯華国に狩りに来てたんだ。国境が緩んでいたから、冒険してみたくて。人生で一番遠い狩りだったよ。その時に宦官に捕まって、主上の前まで連れられたんだ。たまたまお眼鏡にかかってここに居るってわけだ」
新帝が立つ際、後宮編成に関わる宦官たちは妃選びに奮闘するらしい。なんでも、推薦した娘が高位の妃にでもなれば、その恩恵で己の地位も上がるからだとか。菊妃を捕らえた宦官もそういう魂胆があったのだろう。
「殺されると思ってじっと口を閉ざして大人しくしてたら、菊だなんて似合わない花の名を頂いてしまった」
化粧が映える濃い顔立ちも豊かな身体付きも、灯華国の女にはない異国風の美しさが備わっている。
「お爺様と共に過ごしていた際に、菊妃様が使っていた衣裳や飾りはありますか? 食事に使う陶器などでも構いません」
「襦裙ならあるよ。あと髪飾りも、じじさまが饅頭を作ってくれた日と同じかは忘れちまったけど、昔から着てるやつだ」
「本当ですか!」
物的な触媒を手に入れられそうで喜ぶ麗殊に、菊妃は「うん」と優しく微笑む。
そして、そのまま前に向き直ったかと思うと、突然ぐっと険しい顔になった。
「どうしたのですか?」
「しっ」
菊妃は唇に人差し指を添える。そして、麗殊の肩を抱いてぐっと道の端に引き寄せた。もう菊河宮はすぐそこなのにいったいどうしたのだろう。
「あいつら、また集まって何話してんだろう」
菊妃が険しい眼差しを向けた方向には、三四人の宦官が道端に集っていた。何やら立ち話をしているようだ。
「彼らがどうしたのですか?」
「あいつらは全員要注意人物だ。反主上派の古臭い宦官たちだ。急進的な主上の政策に対して不満を持ってんだよ。主上は変わり者だし。最近こそこそ影で集まってて怪しいんだよなあ」
といっても、麗殊には宦官たちが休憩時間を使って単なる談笑をしているようにしか見えない。
「菊妃様はいつもこうして隠れて観察してるのですか?」
先程庭園で皇后たちを見かけた時といい、菊妃の行動はまるで間諜のようだし、己は親猫に項を噛まれながら移動する子猫のようだ。
「そうだよ。後宮の情勢を掴んでおくと主上の役に立てるからね」
「へえ……あれ、あの人は今朝の」
こっそり宦官たちを眺めていると、その中に今朝、司察局で見かけた壮年の宦官が混じっているのに気がつく。麗殊をじっと見つめてきた者たちのうちの一人だ。彼も皇帝に不満を持っているのか。
驚きに声を上げた麗殊に、菊妃は「誰のこと?」と尋ねる。
「司察局の方です。一番右側に立っている白髪混じりの背の高い……」
「ああ、あの男か」
「あの方はどんな方か知ってますか?」
「名は南敬といって、数十年前からの古株だそうだ。噂じゃあ、元は中書省の官吏だったが、後宮妃に言い寄ったのが発覚して宦官になったとか」
どこかで聞いた話である。竹妃と鎖徹の関係を思い出す。いつの時代も禁断の恋に胸を焦がす人間は存在したということだ。
いち宦官の事情まで把握しているだなんて、菊妃の情報網は侮れない。昔から狩猟をしてきたというから、その観察眼と情報収集の癖が活かされているのだろう。流石、才を求めるだけあり、朧鳴帝は見る目がある。




