二十二、菊妃
「私を知ってるんですか……?」
突然の出来事に困惑の眼差しを返すと、女は扇子を下げて、腰に手を当てる。そして、前髪に透けて見える眉を上げて話す。
「そりゃそうさ。あんた今有名だもの。あたしは菊妃、白嵐。ちょっと菊河宮まで来てくれないか。あんたに話したいことがあって」
「菊妃様でしたか」
「そうだよ」
女が菊妃と名乗ったことに驚き、麗殊は目を瞬かせる。
端正で淑やかな祝辞の文の手跡とは、まるで想像していた雰囲気が違う。目の前の菊妃は、どちらかというと気安く活気に満ち溢れていた。
確かに、言われてみれば宮内で見かけたことがあるかもしれない。麗殊はまだ入宮したばかりでほとんどを下嬪宮の中で過ごしていたため、梅妃もそうだが、他の四夫人とは面識がなかった。
「初めて会うのがこんなところで悪いね。ほら、すぐそこがあたしの宮だから」
菊妃はそう言って、すぐ隣にどんと構える大きな門を扇子で指し示す。門の構えを見上げると、確かに〈菊河宮〉と掘られた看板が飾られてあった。
「ええと、お邪魔します……」
「ふふ、そう固くならなくていいよ」
断れなさそうな雰囲気に気圧され、麗殊は促されるまま菊河宮に足を踏み入れる。突然のことで何がなんだか分からない。
菊妃は廊下を歩きながら両手をぱんっと叩き、「錦浮!」と高らかに侍女を呼ぶ。
「桃妃が来てくれたよ。あたしの房室にお茶を出してくれ」
「承知しました」
侍女は素早くやってきたかと思うと颯爽と去っていく。長い裾を靡かせて歩く菊妃も、さながらここは風が吹いている草原のようだ。開けた渡り廊下から見える庭には、夏らしく鮮やかな緑の植物が多い。赤色や黄色の可憐な夏菊の小花も咲いていた。
麗殊は菊妃の自室であろう大きな房室に案内される。菊妃は向かい合わせに置かれた椅子の片方に座り、もう片方に座るよう麗殊を促した。
今まで見てきた竹枢宮や梅泉宮とはまるで雰囲気が違う。壁紙から調度品まで、灯華国で主流のものとは違った模様や造形の品々が揃っている。色とりどりの織物や布飾りが鮮やかで良く映える。
「すごい……なんだか異国風というか、新鮮な雰囲気ですね」
「趣味なんだ。集めるのには時間がかかったけど、あたしは遠方の小国からやってきたから故郷の空気を感じたくて」
菊妃はそう言って穏やかに笑う。
この人は見たところ、麗殊よりも朧鳴帝に歳が近い立派な大人の女性だ。他の妃と比べると少し焼けた肌と髪に、袖から見える筋肉のついた腕。すっきりとした顔立ち。異国の人間だと言われれば、そう見える。
菊妃はすらりと長い足を組み、肘掛けに肘を置いて、話を続ける。
「主上は変わり者だろう? 妃たちに独自の才を見出したがるんだ。だから、温室育ちのご令嬢と同じくらい辺境育ちの娘も多い。あんたもあたしと同じで遠くから後宮に入ったと聞いた」
「ええ、私は灯華国の生まれですが、外れの山が故郷です」
麗殊は頷く。神顕山は都から遠く離れた辺境にある。甜氏の他にも異能を持つ一族が住んでいる少し変わった土地だから、もはや異国と呼べるかもしれない。
「山生まれかい。自然の中で過ごして来たってんなら少し親近感が湧くね。あたしは弓術の腕を主上に気に入られて……蘭妃様は舞がとても上手でね。竹妃様は可憐な歌声、梅妃は鑑識眼……。噂じゃあ、あんたは食に精通しているとか」
菊妃は身を乗り出し、目を細めて囁く。
「主上から聞いたよ、幻食とかいう能力で記憶を見ることができるんだろう?」
いつの間に……と思うが、麗殊が竹妃の謎を解いてからの期間、朧鳴帝は他の妃の死に気を落とす后妃たちを慰めるようにして皇后や四夫人のもとを転々としていたようだ。そこで聞いたのだろう。
麗殊が気難しい顔をしたからか、菊妃はさっと身を離して言葉を付け加える。
「ちゃんと口止めされているから、安心して」
「それならいいんですけど……私に話したいこととは、いったいなんでしょうか」
「実は、あんたに頼みたいことがあるんだ。力を貸して欲しい」
「頼みたいこと?」
「うん。長年の悩みをふと主上に零したら、あんたが解決してくれるって言うんでね」
これまた朧鳴帝の仕業か。知らないところで勝手なことを。朧鳴帝が菊妃を仕向けたというならば、これも彼からの難題だ。菊妃の頼みとやらを聞き入れれば、また褒美を貰えるかもしれない。いいや、貰おう。
「主上がそう言うならば、私に解決可能なことなのでしょう。どのようなご依頼ですか?」
麗殊が問うと、菊妃は打って変わって真剣な表情で口を開く。
「あたしの祖父の手料理を再現してほしい」
「手料理、ですか」
考えても見なかった頼みに、麗殊は僅かに瞠目する。これまた変わった依頼だ。先日の梅妃の件のように後宮の問題の解決を求められるかと思ったのだが、今回は私的な問題らしい。
驚く麗殊に、菊妃は過去を回想するかのように視線を下げて話す。
「自分で言うのもなんだが、あたしは祖父が大好きでね。狩りのために外に出る父や母よりも過ごす時間が長かった。自然と、昼餉や夕餉も祖父と共に食べることが多くなった。……でも、五年前に流行り病で亡くなってしまってね。今でも、じじさまのことが時々恋しくなるんだよ」
哀愁を漂わせる菊妃の表情からは、彼女の祖父に対する愛情がひしひしと感じられる。
「じじさまは甘い饅頭をよく作ってくれたんだ」
「饅頭ってことは、菊妃様の故郷と灯華国は、食文化はあまり変わらないのですか?」
「やっぱり国としては少し違うんだが、じじさまは灯華国で育ったから、うちの家庭食は灯華国寄りだったね」
「そうだったのですね」
「うん。でもこの饅頭が、自分で作ろうったって上手くいかない。何か足りないんだ。じじさまのは普通のものより、中の餡が独特な味がして……。厨房の傍で見てたはずなのに、昔のことだからか、どうにも思い出せなくて。舌は覚えてるんだけど」
「なるほど……菊妃様の記憶を辿り、お爺様の饅頭の作り方を探って欲しいということですね」
五年以上前の記憶を見てほしいと。これはいい予行練習だ。麗殊が狙う椿妃の記憶は二十二年も前なのだから。
幻食の訓練で母の記憶を見させられたことが何度かある。母が幼い頃に、姉である椿妃と一緒に棗の実を摘んだ記憶や、野原を駆け回って遊んだ記憶だ。それが可能だったのだから、今回もできないことはないはずだ。
「話が早くて助かるよ。引き受けてくれるかい?」
「もちろん、お引き受けいたします」
しかし、幻食に使う食をどうするか。五年前の記憶を刺激させるような料理はあるのだろうか。
「他に何かお爺様との思い出の料理はありませんか。今、再現できそうなもので」
「そうだね……あたしにも得意料理があるんだ。じじさまに振舞ったら、とても喜んでくれた。たしか、そのお礼に饅頭を振舞ってくれたよ」
「その得意料理の作り方は覚えてますか?」
「自分で作ったものだから、多分今でも作れるよ」
首肯する菊妃に、麗殊は安堵する。饅頭の記憶と関連した料理があるならば、そこから記憶を辿れるかもしれない。
「そうか、あんたの力を使うには食べ物がいるんだってね」
「ええ、幻食の儀式に必要なのです」
麗殊が告げると、菊妃は「よしっ」と立ち上がり、宣言する。
「尚食局へ材料を貰いに行こう! あそこの食庫は豊富だからなんでも揃ってるはずだ。桃妃も来てくれよ」
「えっ、今からですか?」
「うん、まだ夕餉の準備とは被らないだろう。それに、こいつがあれば入れてくれるさ」
菊妃は近くに設えられた戸棚の引き出しを開けて、布の下に隠れていた金の装飾品をいくつか取り出し、袖の中に忍ばせる。
そういえば、朔も以前尚食局の宮女に謝礼を渡していた。後宮では、私財の贈答という名目であればこういったやり取りは暗黙の了解とされている。
──行動力のあるお方だ。私もお爺様の饅頭の秘密を上手く突き止められるといいのだけど。
麗殊がこの依頼を引き受けると言ってから、菊妃はずっと活き活きとした様子でいる。祖父の手料理は、彼女にとって余程大切な料理なのだろう。




