二十、秘匿
桃晴宮で迎える朝はもう慣れた。いつもは上嬪宮の狭い床で寝るよりも何倍も寝心地が良いのだが、今日はなんだか身体が重い。
──ずいぶんと昔の夢を見たわ。
朔に話したことで過去の記憶が浮かび上がってきたのだろう。隣の家の男も、薬師のおじさんも、顔や姿はもうぼんやりとしか覚えていない。だけれど、貰った毒の蒐集書はまだ持っている。
麗殊は身体を起こして、房室の隅に置いた木製の荷物箱を開く。桃晴宮に来てもう何日も経っているが、まだ整理していなかった。
箱の上の方に入っていた硯や筆の文具を退けると、書物が数冊敷き詰まっていた。これまでの食解き記録や椿妃の調査記録の中に、草臥れた青表紙の書がある。
「これよ、これ」
麗殊はその書を手に取り、その場でぱらぱらと捲ってみた。すると、後ろの方に鉱石の毒について記載した頁があった。
「あった。この鉱石よ。昨日は、おじさんのおかげで毒に気がつけた」
そこには、あの掛け軸の絵画の顔料として使われていた、南方で採れる青色の鉱石も載っていた。その内容は、昨夜の朔の報告と概ね一致している。
昨夜は朔の報告を受けた後、夜更けに彼と共に黄瑞殿へ赴き、今回の食解きの結果を朧鳴帝へ上奏した。
国内で流行していた同様の奇病も、南方の画家の劣化した絵画が広まったことによる弊害と見られ、朧鳴帝は例の顔料の禁止と、国内に散らばった絵画の回収を臣下に命じるとのことだ。
食解きの一部始終を話し終えると、朧鳴帝が上機嫌な様子で麗殊に尋ねる。
「そなた、褒美は何が欲しい」
来た。今回の食解きの見返りは、既に決めていた。
「恐れながら、司察局にある過去の記録を閲覧する権利をいただきたいです」
「……椿妃の件か」
「はい」
琥珀色の眼差しを鋭くさせる朧鳴帝に、麗殊ははっきりと頷く。
司察局とは、後宮で起きた事件を管轄する特別な部署とその局の名称だ。主に高位の宦官が司察という職を担い、事件の調査や対処に当たる。司察局には過去に起きた事件の記録が厳重に保管されており、通常、皇帝と局の官吏以外の人間はその閲覧を許されない。
麗殊は二十二年前の椿妃の事件がどのような状況で起きたのか、椿妃についてはどのように記録されているのか、それを知りたかった。
朧鳴帝は視線を落とし、暫し黙り込む。そして、小さく吐息を零し、麗殊の目を見据えて告げる。
「いいだろう。明日に限り、司察局にある記録の閲覧を許可する。但し、見聞きしたことは絶対に口外してはならぬ。朕はいつでもそなたの首を刎ねることができるぞ。監視役として朔を付けるが、よいな」
「構いません。感謝いたします」
麗殊は深く拝礼をする。己の働きにより相応の対価を与えてくれると踏んでいたので、もとより断られるとは思っていなかった。
その後、用件を話し終えて退出しようとしたとき、朧鳴帝が「桃妃、何か食べたいものはあるか?」と訊いてきた。先日冊封の褒美に桃を望んだことにより、麗殊の食い意地の強さを把握されたのかもしれない。
麗殊は思わず溢れそうになる涎を我慢しながら、様々な種類の胡餅をお願いした。幻食で口にしたものが思いの外美味しくて、もうひとつ食べたいという欲望が昨日からずっと離れなかったのだ。
朧鳴帝は麗殊の要望を受けて、「数日のうちにたくさん届けよう」と言ってくれたため、しばらく茶菓子には困りそうにない。
これにて、後宮内の奇病事件は終止符を打った。今回の件は、太医局と司察局の記録に残ることになるだろう。
昨夜のことを思い返していると、栖遥が外から「桃妃様」と房室の扉を叩く。
「梅妃様がお越しですよ」
来客を告げる声に、麗殊はハッと意識を引き寄せ、姿勢を正し、「案内してちょうだい」と栖遥に頼む。
ほどなくして、麗殊の自室に梅妃が招かれた。
病の原因が解明したからか昨日の憂えは消え去り、すっきりとした顔をしている。昨夜麗殊が自宮に戻った後、朧鳴帝は梅泉宮へ渡ったそうなので、詳しい調査結果も聞いたことだろう。
「これ、昨日のお礼にどうぞ。菊の糖果なの。あなたは菓子が好きでしょう? 甘くて美味しいし、疲労にも効くと思って」
梅妃はそう言って、乳白色の陶磁に雲模様が描かれている洒落た小壺を麗殊に手渡す。
「まあっ、ありがとうございます!」
麗殊は目を輝かせて、手のひらに収まるほどのそれを受け取った。
まだ開けてもないが、この中に入っている糖菓の一つを食べてみたのを想像するだけで、胸が踊る。数日後に朧鳴帝からも胡餅を貰えるので、食べ過ぎには気をつけなければ。
その後、梅妃のお付きの侍女は栖遥に任せ、房室に二人きりになる。
「昨日はありがとう。あなたのおかげで安心して眠ることができたわ」
「こちらこそ、お役に立てたのなら幸いです」
麗殊がお礼を言うと、しばしの沈黙が訪れた。どうやら、梅妃は糖果を持ってきてくれた他に麗殊に用事があるようだ。
梅妃は麗殊を上目に見て、控えめに尋ねる。
「ねえ、あなたは甜という姓だけれど、もしかしてあの甜氏かしら。神顕山に住むという……」
「え」
突然の話題に、麗殊はぎくりして瞠目する。
椿妃事件以降、甜氏は山奥に隠れ住んでいた。事件の概要も宮中の一部の人間以外には知られていない。そのため、今は姓を聞いたところでどこの誰かを知るものは少ないのに。
逡巡の末、麗殊は素直に頷く。
「やっぱり。じゃあ、椿妃様って知ってるわよね?」
一瞬、梅妃の瞳がこちらを貫くように光る。しかし、麗殊が反応する間もなく、すぐに元の温和な面持ちに戻った。
「昔、わたくしの祖母が後宮に出仕していたのよ」
「お祖母様が?」
戸惑いながら問う麗殊に、梅妃は首肯し、視線を逸らして語り始める。
「数十年前、甜という辺境一族の姫が皇帝に気に入られ、新たな妃として迎えられたという話を聞いたわ。他のお妃様とは歳が離れていたけれど、聡明で世渡りが上手だったとか。そして、あなたと同じで不思議な力を持っていた」
静かにそう語る梅妃は、椿妃のことをどこまで知っているのだろう。
麗殊は無意識に固唾を呑み込み、僅かに身を乗り出して梅妃に訊く。
「彼女について、他にも何か知ってませんか」
「たしか、入宮から四年ほど経った頃に突然尼僧になってしまわれたのよね」
「尼僧……?」
尼僧とは、どういうことだ。思わぬ答えに麗殊は眉を顰める。
すると、梅妃も同様に怪訝な顔を浮かべる。
「桃妃はご存知でないの?」
「そう、でしたか。彼女とは遠縁でしたのであまり……」
「あら、そうなのね」
麗殊が言葉を濁すと、梅妃は少し納得がいかない様子で「あなたも知っていると思ってたのだけれど」と呟いた。
朧鳴帝以外にはできるだけ、己と椿妃の繋がりが深いことを知られたくない。身動きが取りづらくなるからだ。
それにしてもまさか、椿妃が罪を被ったことを知らない者には、修道に入ったということになっていたなんて。
──こんがらがってきたわ……。
宮廷としては罪人として公におけばいいものを、なぜ後ろめたいかのようにひたすらに隠すのか。謎が深まるばかりである。




