十六、梅妃
幻食の儀式で食べるために、梅妃が茶会の際に用いた茶菓子を用意して欲しいと頼むと、朔はすぐに頷いてくれた。
なんでも、茶菓子は異国由来の珍しい胡餅を梅妃が後宮に取り寄せたものだそうで、検査済みのものがまだ残っているとか。
大医局が所有する保管庫へ胡餅を取りに行く朔と別れ、麗殊は一人で先に梅泉宮へ赴くことにする。相棒というだけあり、朔は麗殊の頼み事をなんでもこなしてくれるつもりらしい。
食べ物が用意できたら次は触媒なのだが、魂身が生者の場合は魂身自身も触媒となるため、相手に身体のどこかに触れてもらえればいい。加えて、簪など当時身につけていたものを借りられるならば安心だ。
竹妃のように死者を相手にするよりは、生者相手は比較的やり易いのである。
──梅妃様が知らず知らずのうちに毒に接触しているなら、彼女の記憶の中に鍵があるはずよ。
何か、彼女自身も見落としているところがあるはずだ。今回はその記憶の穴を探すのが己の役目である。
梅泉宮へ辿り着くと、門前でその大きな殿舎を見上げる。大体の造りは桃晴宮や竹枢宮と同じだ。
異なるのは宮を彩る植物で、梅泉宮にはその名の通り、立派な梅の大木が植えられていた。青々とした葉が生い茂り、新鮮な果実が成っている。
──もう、梅の花は散ったのね。
奇しくも、先日竹妃の記憶の中で見た梅の木が春を越したような姿をしており、麗殊は暫しその木を前に立ち止まってしまった。
これまでに見てきた魂身の記憶は、己の体内に蓄積され、溶け込んでいく。食解きを終えたからといって忘れることはない。
梅泉宮の門へ近づいていくと、梅の香りが仄かに鼻をくすぐる。しかし、春を過ぎたからか鮮明には感じられない。今の時期の青梅は酸味と苦味が強くまだ食べられないだろう。熟すのが楽しみだ。
いつものように食のことを考えていると、まるで麗殊が訪れることを見越していたかのように、梅泉宮の侍女が門前に佇む麗殊の元へとやってきた。
「すみません。桃妃、甜麗殊と申しますが──」
「桃妃様、お待ちしておりました」
簡素な梅の髪飾りを身につけた侍女は、麗殊が用件を告げるまでもなく宮の中へと迎え入れてくれる。どうやら、このまま梅妃の元へと案内してくれるらしい。
──私が梅妃様に話を聞きに行くことを予期して、主上が予め伝えていたのかしら。
もしそうだとすれば、やはり底のしれない主だ。こちらの内情は全て見透かされているのに、己は彼のことを表面的にしか知らない。
麗殊の入宮を許可したのは才が欲しいからと言ってはいたが、果たしてそれが本心なのだろうか。ともあれ、今は眼前の謎を解くことに努めよう。
麗殊は、殿舎の中央に位置する梅妃の自室へと連れられた。扉は既に開かれており、房室の中に美しい姫が椅子に腰掛けているのが視界に映る。後宮内で何度か目にしたことがあるため、麗殊はこの姫こそ梅妃だとひと目で分かった。
侍女に促されて部屋の中に立ち入り、梅妃を前に拝礼をする。
「梅妃様、初めまして。桃妃、甜麗殊と申します。先日は貴重なお品を賜りましてありがとうございました」
「まあ、ご丁寧にありがとう」
梅妃は立ち上がり、淑やかに微笑む。
麗殊より歳上だが、幾分か背丈の低い可憐な姫だ。窓から差し込む光に透ける柔らかな黒髪、おっとりとした目元に、ぷっくり膨らんだ唇。梅の花を象った華やかな櫛や胸飾りは、彼女の清純な雰囲気によく似合う。
梅妃は心地よい声を響かせて、麗殊に尋ねる。
「扇子はお気に召したかしら」
「はい。紫藍の色合いがとても私好みでした。涼むために使わせてもらっています」
「それは良かった。同じ四夫人の一人として、よろしくね」
そう言って頬を緩ませる梅妃は、体調が優れないようには見えない。朔の言う通り、中毒症状はすっかり落ち着いているのだろう。
念の為、麗殊は控えめに尋ねる。
「突然お邪魔して大丈夫でしたか? 昨日、お加減を崩されたばかりと聞いたので……」
「大丈夫よ。大医の解毒のおかげで、今朝起きた時にはもう平気だったわ。それに、昨夜見舞いに来てくださった主上が、明日はきっと桃妃が来るだろうとおっしゃっていたの。その通りだったわね」
やはり、と麗殊は口の中で呟く。己の予想は的中していた。ここまで、麗殊は全て朧鳴帝の想定のままに動いている。
「では、私の力についてもご存知なのですか?」
「ええ。あなたが謎を解いてくれるんでしょう? あなたの持つ幻食という力について、主上から簡単な話は聞いているわ」
目を細めて言う梅妃に、麗殊は「そうでしたか」と小さく息をつく。幻食についての説明が不要なのは助かる。
「さっそくですが、奇病の謎を解くためにいくつか確認させてください。本当に心当たりはありませんか?」
「わたくしも分からないの……。菓子と茶だって全て検問されたし、食事に使う陶器もそう。庭に生えた植物も中毒を引き起こすようなものは何もなかったわ」
梅妃がそう言って憂え気に窓の外を見るのにつられ、麗殊もそちらに視線を向けた。
房室の窓からは、あの梅の木が聳える清廉とした庭がうかがえる。麗殊も廊下を歩く際に花や木々を観察したが、今回の原因になりそうなものは見当たらなかった。
「茶会はこの房室で行われたのですか?」
「いいえ、客人をもてなすための応接間に。役人様に検めてもらったから、危険なものはないと思うけれど……案内しましょうか」
「お願いします」
梅妃の提案に、麗殊はこくりと頷く。
今回の幻食は茶会を再現して行う。そのためには、当時梅妃たちが集っていたその場所でなければ意味がない。
応接間へと続く廊下を歩きながら、麗殊は梅妃に訪ねる。
「梅妃様は昭儀と親しいのですね」
「ええ、彼女はよくここを訪れて、仲良くしてくれているわ。一昨日はそのお礼にと思って……ちょうど珍しい茶菓子を手に入れたから振舞いたくて」
「なるほど、それでお茶会を」
「ええ」
そういえば、雛嬪は竹妃とも交流を持っていると言っていた。九嬪の最高位ということもあり、四夫人と親しくしようと多方面に顔を出しているのだろうか。
「ここよ」
梅妃に案内されてたどり着いた応接間は、特別おかしなところはない一般的な房室だった。中央に丸卓が置かれ、それを囲むように椅子が並べられている。壁際には香炉や戸棚があるのが目に入った。
興味深い点があるとすれば、梅妃は芸術に重きを置いているのか、麗殊には見慣れない陶磁器などが多く房室に飾られていた。
そういえば、梅妃から貰った扇子にも、繊細な絵が描かれていたことを思い出す。色使いが独特だが、その筆遣いは紛れもなく画聖のものだった。それほど絵画に詳しくない麗殊でも分かるほどだ。
茶菓子も西域から取り寄せたものと言っていたし、そういった品々の収集癖があるのだろう。
「この房室にいたのは梅妃様と昭儀だけでしたか?」
「いえ、わたくしの侍女と彼女の侍女が一人ずつその場にいたの。人数は多い方が楽しいと思って。でもまさか、こんなことになってしまうなんて申し訳ないわ……」
「あまりお気に病まず……」
項垂れる梅妃の背に、麗殊はやんわりと手を添える。
はっきりと「梅妃様のせいではありませんよ」と励ましたいのは山々だが、幻食を行うまでは無責任なことは言えない。それが歯痒く感じられる。
そうこうしていると、先程麗殊を案内してくれた侍女が応接間へとやってきた。
「梅妃様。大医様をお連れしました」
そう告げる侍女の背後から、「こんにちは」といって朔が現れた。彼は外向きの笑顔を作りながら、その手には、胡餅と普洱茶を載せた盆を持っている。
「美味しそう……!」
麗殊は程よく茶色に色付いた胡餅を見た瞬間、口から思わず言葉が漏れ出る。
すると、朔が奇妙なにやけ顔でちらを見るので、麗殊はコホンッと喉を鳴らして誤魔化した。しかし、続けてぐううっと腹が鳴るので、その甲斐も虚しく。
──この食煩悩めっ、梅妃様にも少し笑われちゃったじゃない……!
麗殊が恥じ入っているうちに、今度は梅妃が朔に話しかける。
「大医様、昨日はありがとう。おかげですっかり調子が良くなったわ」
「無事に解毒できたようでなによりです。こちらは桃妃が儀式に用いるので、持ってまいりました」
朔は「失礼します」と言って、盆を房室の中央にある丸卓の上に載せた。
彼が房室の入口から離れると、廊下の奥からもう一人い、見覚えのある顔が現れた。
「あら、昭儀まで」
梅妃が小さく声を上げる。
おずおずと応接間に立ち入ったのは、黒髪を高く結い上げ、目元に紅の化粧を施した美貌の娘──昭儀、雛角である。朔が蕾という配下を使って呼びに行ってくれていたが、本当に来てくれるとは。
僅かに驚く梅妃を見て、麗殊は過ちに気がつき、梅妃に向き直って頭を下げる。
「すみません、この二人は幻食を手伝ってもらうために私が呼んだのです。お伝えするのを忘れていました……」
「構わないわ。──昭儀には本当に申し訳ないことをしてしまったわね……わたくしがお茶会なんて開いたばかりに……」
そう言って申し訳なさそうな顔を見せる梅妃に、雛嬪は慌てて首を横に振る。
「いえっ、そんな! 梅妃様のせいではありませんわ……。太医様たちのおかげでもうすっかり元気になりました」
梅妃を励ます雛嬪の殊勝な様子からは、以前黄瑞殿で話をした時とは異なる印象を受ける。
雛嬪は端正な顔を些か引き攣らせて、今度は麗殊に向かって口を開く。
「……その、桃妃様、この度はご昇格おめでとうございます」
「ありがとう。ごめんなさい、突然呼び出してしまって」
「いえ……」
麗殊は雛嬪に対してつい敬語になってしまいそうになるが、なんとか取り繕う。数日前までと立場が一転したので、どう振る舞えば良いのか分からない。
それは雛嬪も同じようで、形式的な祝辞を述べるその表情には、どうしてあなたが妃に……という複雑な心情が隠しきれていない。墨で綺麗に引かれた眉が僅かにひくついている。
竹妃の件の詮索は禁止されたのと、梅妃の手前、その疑念を口に出すことができないのだろう。
ぼんやりと雛嬪を眺めるうちに、ふと、彼女の手指に巻かれた白い包帯が目に付いた。雛嬪はそれを目立たせないようにするため、両手を重ねを袖に隠れるように拳を軽く握っている。
──そういえば、記録によれば雛嬪は呼吸困難じゃなくて、皮膚の炎症も現れていたとか。
皇帝の寵愛を争う妃嬪にとって、見目を損なうというのはこの上なく辛いことだ。特に、その美貌が名高い雛嬪にとっては一層心憂いだろう。
──綺麗に治るといいんだけど……。
皮膚に異常が現れているということは、雛嬪は毒素に直接触れたのだろうか。しかし、触れずとも体内に入り込むだけで炎症を起こすものもあるため、まだ分からない。
兎にも角にも、幻食で茶会の記憶を見てみなければ。




