第六章 第二話
片田舎の行政庁舎。その片隅の机で、ルイ・ド・リシュリューは顔を伏せていた。
宰相の息子から、地方行政官の末席へ。その転落の意味を、彼は今も受け入れることができないでいた。
「書類の確認を」
女性の役人が声をかける。ルイは即座に顔を背ける。女性恐怖症は治るどころか、あの一件以降、より深刻になっていた。
エレオノールの指摘が、いつも耳の奥で鳴り響く。
「宰相のご子息として、国政に深い造詣をお持ちのあなた様に」
その皮肉が、今も彼の心を締め付ける。政治家としての才覚など、初めから持ち合わせていなかったのだ。ただ、父の後ろ盾があるという慢心だけが、自分を支えていた。
「いつまでそんな態度を取るつもりだ」
上役の叱責が飛ぶ。しかし、ルイには何も答えられない。
女性職員のいる場所を避け、彼は書庫へと逃げ込む。古い文書の匂いが、鼻をつく。かつて、父の書斎では最新の政務書類に触れることができた。今は、辺境の片田舎で、誰も見向きもしない古文書の整理を任されているだけ。
父からの手紙が、懐に重く収まっている。
「お前には政治家としての素質が欠けていた。それに気付かなかった私の責任は重い」
宰相の言葉は、決して感情的ではない。だからこそ、その重みは耐え難いものとなっていた。
「エレオノール様は、もう政務官として」
同僚の会話が聞こえてくる。彼らは気付かないが、その話題こそが、ルイにとって最大の拷問だった。
「リシュリュー様、農地の報告書を」
女性書記官の声に、ルイは机の下に身を隠すように項垂れる。周囲からの失笑が聞こえる。宰相の息子が、こんな片田舎で、しかも女性と目も合わせられない。その惨めさは、誰の目にも明らかだった。
かつて自分は、父の後ろ盾があれば、この程度の弱点など問題にならないと思っていた。エレオノールの指摘が、その甘さを完膚なきまでに打ち砕いた。
「政を担う者に必要なものは—」
彼女の言葉が、また心の奥で響く。冷静な判断力。確かな先見性。そして、何より人と向き合う勇気。自分には、その全てが決定的に欠けていた。
届いたばかりの王都の公報には、エレオノールの功績が記されていた。彼女は今や、東との外交における重要人物となっている。かつての婚約者を陥れようとした自分が、今や誰からも顧みられることのない末席の役人。その差は、もはや埋めることができない深淵となっていた。
「父上」
誰もいない書庫で、ルイは呟く。
宰相家の跡継ぎ権を剥奪され、この地方行政庁に左遷された時、父は何も語らなかった。ただ、深いため息をついただけ。その沈黙が、どれほど重いものだったか、今になって痛いほど理解できる。
政治家として、最も重要な資質。それは人と向き合う力だ。女性と目を合わせることすらできない自分に、何ができただろう。エレオノールのように、冷静に相手の本質を見抜き、的確な判断を下すなど、到底できるはずもない。
「宰相様のご子息が、こんな田舎で」
「それも、まともに仕事もできずに」
「女性職員を避けて逃げ回るばかり」
同僚たちの囁きが、刺すように耳に届く。かつて自分は、彼らを見下していただろう。父という後ろ盾があれば、この程度の評価など気にもとめない—そう思い込んでいた。
夕暮れが近づき、庁舎内が薄暗くなってきた。
「リシュリュー様、今日の書類は」
また女性職員の声。ルイは机の上の書類を掻き集めると、慌てて廊下に逃げ出す。背後で誰かが吐息をつくのが聞こえた。
そうだ。自分は逃げ出しているのだ。
目の前の現実からも、過去の過ちからも、そして何より——自分自身の弱さからも。
「外交とは、一つの行動が、幾重もの波紋を呼ぶもの」
エレオノールのあの言葉が、また胸を刺す。政務のお手伝いをしていた自分が、なぜその当たり前の真実に気付かなかったのか。いや、気付こうともしなかったのか。
庁舎の窓から、宰相邸のある方角を見やる。もう二度と、あの場所には戻れない。父の背中を追いかける資格すら、永遠に失ってしまった。