悪魔の暇つぶし
ある日、僕が目覚めるとそこは見知らぬ場所だった。
慣れ親しんだ狭く、暗く、そして古いアパートではない。
真っ白な空間だった。
自分以外誰も居ない。
広いのか狭いのかも分からない場所の中、ふと僕は自分からやや離れた場所に三人の人間が居るのに気が付いた。
そちらへ近づいていく途中、僕はその三人が何者かに気が付いた。
「うっ……」
思わず声を漏らす。
女が一人と子供が一人。
そして、自分と同い年の男性が一人、それぞれが固く縛られて転がっていた。
転がっている男性……それは、僕の同級生だった。
苦々しい思い出がよみがえる。
同級生は学生時代に僕のことを虐めていた。
容姿に対する罵倒から始まり、母の作った弁当をゴミ箱に捨て、殴る蹴るの暴行。
それだけでなく、僕が飼っている愛猫を目の前で嬲り殺しさえした。
そんな同級生が目の前で転がっている。
彼もまた僕が何者か気づいたらしく大声で叫んだ。
「おい! 頼む! 助けてくれ!」
その声にびくりと体が震えた。
そうだ。
状況こそ分からないが、助けなければ……。
そう思った気持ちに反し、身体は中々動かなかった。
「お願いだ! 助けてくれ! おい! 頼むから!」
まるで命令だった。
あの日々が甦り、半ば諦めの気持ちに支配されながら同級生の縄を外そうとしたとき。
「それ、好きにしていいですよ」
不意に声がした。
驚き声のした方を見ると見知らぬ女性がそこに立っていた。
「その人はあなたの人生を狂わせました。あなたは今も傷を負い一人きりで苦しみながら暮らしているのに対して、その人は美人な女性と結婚し利発的な子供まで設けて幸せに過ごしている」
理由も証拠も何もない。
ただ、彼女が仕掛け人であると僕は直感した。
「本人をいたぶってもいいし、子供や奥さんをいたぶってもいい。とにかく苦しめたらいい」
女性の言葉は淡々としていて、まるで数学の解のようにはっきりとしていた。
「おい! お前まさか、そんなことする気か!?」
怒鳴り散らす同級生の言葉がよく聞こえなかった。
僕の心臓は抑えきれないほどに高鳴っていた。
強い興奮。
原始的な欲求。
それをしてしまいたいという想い。
「これ、好きにしていいの?」
僕の問いかけに彼女は頷いた。
痛い程に脈打つ心臓。
しかし。
僕は無言のまま同級生の縄を解いていた。
それが一番正しいのだと僕は不思議と分かっていた。
果たして僕はどんな顔だったのだろう。
分からない。
僕のを顔を見返す同級生の顔を見たって。
「……ありがとう」
同級生の言葉に僕は顔を伏せて首を振った。
「……ごめんな」
そんな言葉聞きたくなかった。
どうせ、僕の人生は返ってこないのだから。
そんな僕らのやり取りを見ていた女性は肩を竦めると蝋燭の火が消えるように一瞬で見えなくなった。
直後。
僕は目覚めた。
独りきりのアパートで。
ただの夢か。
そう思い、僕はまた日常に戻った。
それから数日して、僕の下にあの同級生がやってきた。
どうやって僕の居場所を調べたのだろう?
そう疑問を抱く前に。
僕は彼に思い切り殴り飛ばされた。
あの日々と同じように。
彼は何事か叫びながら僕に圧し掛かりひたすらに僕を殴り続けた。
痛みと苦しみの中、辛うじて脳が理解出来る言葉を拾い上げれば彼が何しにここに来たのかが分かった。
つまり、彼もまたあの夢を見ていたのだ。
いや、彼も僕と同じ体験をしたというのであれば夢ではなかったのかもしれない。
いずれにせよ、彼は僕のことを犯人と思っているのだ。
だから。
「お前は本当にキモイんだよ! 生きてる価値もねえんだ! 昔のことをいつまでも引っ張ってんじゃねえよ! だからお前はカスなんだ!!」
その痛みの中、両親を侮辱された。
殺された愛猫がどれだけ『面白く』藻掻いていたかをわざわざ語られた。
理不尽な暴力が振るわれる中、僕は何も悪くないのにあの日と同じように謝り続けるしかなかった。
その日の夜。
ふと気づくと、僕はあの空間に居た。
僕は辺りを見回して、すぐにあの三人を見つけると迷いなくそのままそこへ向かった。
同級生はあの時と同じように僕に助けを求めた。
今日、僕にしたことを謝りながら。
それでも、絶対自分が助けられるだろうと確信をした表情で。
「私はね」
不意に声がして僕が振り返るとあの女性が立っていた。
「理不尽な暴力が好きなのですよ」
意味不明な言葉だった。
少なくとも僕にとっては。
きっと、それを察していたのだろう。
彼女は補足するようにして言った。
「彼にとってはこの状況は実に理不尽だと思います。何せ、平和に暮らしていたのにこんな状態になっているのだから。自分が何も悪いことをしていないのに、こんな状況になっているのだから。これ以上の理不尽は存在しないでしょう」
僕は思わず問い返していた。
「自分は何も悪いことをしていないのに?」
「ええ。何せ、彼は善良な一般市民ですからね。多少の後ろ暗さはあるかもしれませんが、それは誰しもが抱えているありふれたものです」
「ありふれたもの?」
僕の心が憎悪に歪む。
彼女は穏やかな表情のままに言った。
「はい。ありふれたものですよ。何せ、彼は忘れていたのですから」
改めて転がる三人を見る。
僕を苦しめた男と、その男が愛した女、そして愛し合ったために生まれた子供がそこにあった。
大きく息を吸い、吐き出した。
何度か。
いや、何度も。
「ねえ」
僕は彼女に尋ねていた。
「僕が何かしたらどうなるの?」
「犯罪になります」
当然の答えだ。
燃え上がった憎悪がわずかばかり弱まる。
しかし。
「けれど、彼があなたにしたこともまた犯罪に当てはまると思います。まぁ、彼は裁かれませんでしたが」
この時になり、ようやく僕は彼女の背に鋭い刃物のような黒い翼が生えていることに気づいた。
僕の表情を見て、彼女はこれ見よがしに羽を何度か羽ばたかせる。
「人間の作りあげた法や平和とは何とも無意味なものでしょうか」
否応なく僕は悟った。
彼女は悪魔であると。
あるいは、限りなくそれに近いものであると。
きっと、彼女の言葉に煽られ、自身の欲求を果たした時、僕はきっと取り返しのつかない罪を犯すことになる。
そう、確信した。
それなのに。
そう、分かっているはずなのに!
僕は彼女に聞いていた。
「これ、好きにしていいの?」
彼女は心地良くなるほどの笑みで答えた。
「もちろんです」
行為は随分長く続けた気がした。
彼女は僕が望めばなんだって出してくれたし、僕が望めば彼らの命を可能な限り伸ばしてくれた。
故に僕はあまりにも幸福な時間を過ごせた。
あいつと子供の目の前で、あいつの愛した女を汚した。
あいつとのあいつの女の目の前で泣き叫ぶ子供をさらに苦しめた。
爪を剥いだ。
歯を抜き取った。
指を折った。
腕を折った。
耳を削いだ。
目を潰した。
水中に沈めた。
そして、また浮上させ、また沈めた。
命乞いや許しを請う声が何度も口にされた。
その度に僕は言ってやった。
「君のお父さんに、君の旦那に僕はもっと苦しめられた」
その言葉を聞いたあいつは僕に叫んだ。
「妻と子供は関係ないだろう!?」
事実だと思い、怯みそうになった僕に悪魔は告げた。
「あなたもまた何も関係がないのに彼に苦しめられましたね」
そう言われたあいつは何も言い返せず、また何度も何度も許しを請うばかりだった。
僕はとにかく。
とにかく出来る限りのことをした。
僕の時間は返ってこなかったけれど。
それでも、僕の傷は少しだけ癒えた気がした。
そして、最後の最後に僕はあいつを同じようにして殺してやった。
真っ白の空間はいつの間にか真っ赤だった。
それはあまりにも心地の良い色である気がした。
このまま地獄へ落ちても満足なくらいに。
きっと、僕はこの部屋よりも頬を赤くして満足な顔をしているだろうと思った。
そんな僕に悪魔は問うた。
「満足しましたか?」
「あぁ、とても」
そう言って、僕は悪魔に向き直り、少し考えた後に言った。
「これで僕も地獄行かい?」
そう問われて悪魔は笑った。
「そうしたいのは山々なんですがね。今日のは仕事じゃなくて私にとってただの遊びなんですよね」
「どういうこと?」
「まぁ、要するにあなたは地獄に行かないというわけです。今のまま真面目に過ごしていればね」
そう悪魔が言った途端。
空間が歪み、僕は急速な勢いでその場から自分自身が消えていくのを感じた。
目覚めた僕は慣れ親しんだアパートの部屋の中に転がっていた。
あいつにやられた傷で節々が痛む。
先ほどの恍惚はただの夢で、自分が必死につくりあげた慰みである気がした。
しかし、テレビのニュースを見てそれが勘違いであることを悟る。
『あまりにも残酷な犯行です』
『はい。近所でも評判の良い家族でした。誰からも恨みを買うことがないような……』
そんなインタビューと共に画面にはあいつらの名前や顔写真が映し出されていた。
『犯人の痕跡は一切なく、警察は今も……』
体中の節々が痛み、僕は思わず横になった。
気分が良かった。
ざまあみろという気持ちでいっぱいだった。
このままの勢いで悪魔に感謝したいぐらいだった。
しかし、僕は決してそうしないと決めていた。
『理不尽な暴力が好きなのですよ』
あの悪魔が言っていた言葉が甦る。
『あなたもまた何も関係がないのに彼に苦しめられましたね』
あぁ、その通りだ。
僕もまた理不尽な暴力に苦しめられた。
悪魔は悪魔。
人間の味方などではない。
そう理解していたからこそ、僕は考えるのを止めてテレビを消し、もう一度寝ることにした。
このまま起きていたら、きっと、悪魔に負けてしまいそうだと思ったから。
テレビの雑音は段々と遠のいていき、僕は晴々とした気持ちで二度寝をしていた。