マネーパワー
「いえ実はですね。この度、鈴木様が本社の役員になることが正式に決まりまして……ただ貴社は副業禁止の就業規則があると聞きまして、それならと鈴木様は今勤めている会社を退職されると聞いていましたので……。ん……?シュレッダーでもぶちまけたんですか?床に紙片が散らばっていますが。」
床に落ちた退職願いの紙片を四葉商事の男が拾おうとすると、部長はまるでヤモリのように地面を這って自分の身体で紙片を拾わせないように塞いだ。
突然の奇行に四葉商事の男は面食らった。
「ど、どうしたんですか?」
「こ、これはすいません!持病がございまして!こうして定期的に地面に伏せないと発作を起こして死ぬんです!!」
「死ぬ!!?こわっ!!?」
そのまま伏せた姿勢で紙片をかき集めて、部長はゆっくりと立ち上がる。そしてツカツカと私の方へと向かってきた。
「鈴木でしたらこちらにいます!い、いやぁ鈴木クンも人が悪い!理由も告げずに退職願を出してきたので皆、困っていたんです!なぁみんな!!」
部長の声に唖然としていた皆は一斉に頷く。
「ということは今日付けで退職願を出されたのですか?助かります。こちらも役員会議などの日程がありますのでスケジュールは把握しておきたいので。法的には確か二週間でしたっけ?」
「はい!四葉商事様にはご迷惑おかけしますが役所手続きもございますので!!い、いえ勿論可能な限り迅速に進めますとも!!弊社が四葉商事様にご迷惑をおかけするなどありえませんから!!」
「そうですか。あ、そうだこれは名刺です。」
男が名刺を取り出すと部長はペコペコと頭を下げながら胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を受け取ろうとする。
だが男は怪訝な態度を浮かべた。
「……?いやあなたではないです。鈴木様、これから業務手続き等、ご不安なこともあるかと思います。何か気になる点がございましたらこの名刺の連絡先に連絡してください。」
部長の横を素通りし、男は私に名刺を渡して立ち去っていった。
何がなんだか分からない。私が四葉商事の役員?いつのまにそんな話が?聞いていない。
私は名刺をまじまじと見る。すると裏面にメモ書きがあった。
『余計なことしてごめんなさい。できれば円満に終わることを祈ります。by蒼月』
それは天理くんの字だった。こうなる事態を予測していて、助け舟を出していたのだ。それもなるべく穏便な方法で。
私は自然と頬が緩んだ。謝るのはこちらの方だと言うのに。
それから自分のデスクの片付けを始めた。会社の人たちは人が変わったかのように態度を急変させて率先して私の手伝いをしようとしてくる。特に原田、係長、部長は露骨でとにかく私のご機嫌を取ろうと必死だった。原田に至っては目の前でリストラ宣言までされていた。
立場が変われば人はここまで変われるものなのか。そのあまりの浅ましさに私は思わず失笑し、今までの出来事がまるで馬鹿らしく感じてくる。
「それじゃあ、これからまだあと二週間ありますけどよろしくおねがいします。」
あらかた引き継ぎ用の資料の整理が終わり、改めて私は頭を下げてデスクにつこうとしたが、部長に止められた。
「い、いやいや鈴木クン!何を言っているんだ。今日はもう帰って休むんだ!」
「え……でもまだ私はここの社員ですし。」
「ははは、私をまた試しているのかな。鈴木クン、君には有給休暇が残っているだろう。それを全部消化するんだ。それで丁度二週間後に雇用契約は解約になる。」
有給消化……?聞き慣れない言葉だった。
「その……もう会社に来る必要はないんですか?」
「あ、ああ!勿論だとも!労働者の正当な権利だからね!必要な書類等はあとで郵送しておくから確認しておくんだぞ!」
退社する私を部長は会社ビルの外まで見送り、営業スマイルを浮かべ深々と頭を下げていた。いつまでも、私がきっとビルの視界から消えるまで。
そんなわけで私は中途半端な時間に会社から家に帰ることになった。
まだランチ前……。何もすることがない……そう思っていたが天理くんがいた。別に急ぎなわけでもないのに、スマホを取り出し交換していた連絡先から待ち合わせの約束をとる。
───ココネの自宅で俺はただひたすら待機していた。ココネ曰く最後まで姉さんの世話に集中してほしいということだ。普段の傍若無人な態度ではなく、真摯にお願いをされた。そうされると弱い。良いように手のひらの上で転がされているのかもしれないが……。
時計を見る。時刻は11時近い。今頃、無事に美咲さんは退職することが出来ただろうか。もっとも保険もあるので問題はないと思うが。
スマホが震えだす。美咲さんからの連絡だ。俺は震えるスマホをタップして耳元に当てた。
「天理くん、ただいま!あのねあのね、私辞めれたよ仕事!でもなんなの役員って!?」
昨日とは打って変わり大きな声。鼓膜が破れるかと思った。とりあえず彼女との待ち合わせの約束をした。場所は昨日と同じ喫茶店。
喫茶店に辿り着くと彼女は俺をすぐに見つけ腕を大きく振っている。恥ずかしいから辞めてほしいのだが、無視するわけにいかないので席に向かい、ことの詳細を聞いた。
どうやら溜まった有給休暇を使用することになったので、すぐに帰宅できたようだ。だが彼女はいまいちピンと来ていなかった。何故自分が四葉商事の役員なのか、何故タイミングよく四葉商事の人が来たのか。俺の仕業だとは分かっていても理解できていないようだった。
「四葉商事の株を買っただけです。役員になれる割合までね。」
俺は事の顛末を説明した。
経験上ブラック企業というのは違法スレスレでやっているところが多いが、稀に合法的に非人道的な振る舞いをとる会社もいる。美咲さんの企業はそれに該当していた。
法律は正義の味方ではない。常に平等。故に誰か一人を助けるのなら、法律を超えた力が必要だった。それがつまるところ金である。
まず俺はココネに頼んで主要取引先である四葉商事の株をかき集め大口株主となった。当然、四葉商事は突然自社の株を大量に買われると不気味に感じる。買収されるのではないかと不安に感じるわけだ。
そこで堂々と四葉商事とコンタクトをとった。あとは簡単な話だった。美咲さんの役員任命を提案した。ただしこの提案も検討をするだけで良いという簡単なもの。恐らくは却下されるだろうが、それはこちらも望むところだった。
更に念のため彼女の勤務先を伝えて、挨拶をするよう伝えた。名刺にメッセージを書いて。これも向こうからすれば願ってもないことだった。突然大量に株を買い付けた相手が送り込もうとしている役員の素性を知れるのだから。
こうして四葉商事は今まさに退職願いを出そうとしてる美咲さんのところに、タイミングよく登場することになったのだ。会社としても主要取引先の役員になる相手を蔑ろにはできない。彼女の退職願いは滞りなく受理されると踏んだのだ。
ちなみに彼女の勤務先を買収するのが手っ取り早いのだが非上場だったのでそれはできない。
彼女から聞いた話は予想通りだった。ブラック企業は退職願いを受理しないところもある。当然そんなことは労働者の権利として許されないのだが、面倒な契約をしていたら大変だ。なので今回は力技、金の力でゴリ押ししたということだ。
「そ、そうなんだ……あ、あはは……馬鹿みたいだなあたし。一人でやれるって言ったのに結局、天理くんの手を借りたことになって……。」
「そんなことはありません。」
俺は何度も見てきた。例え法的に正しいことでも、泣き寝入りをする人たちを。決して彼らは悪くない。悪いのはそんなことになるまで追い詰める、悪意ある者たちだ。何度大丈夫だと、何度問題はないと説明しても、彼らに刻まれた心の傷は決して癒やされず、良いように扱われる。そんな人は山程いるのだ。
でも彼女は違う。俺の言葉を信じて、行動に移してくれた。それがどれだけ勇気あることか彼女は理解していない。
「法律というのは必ずしも味方になるわけじゃありません。ずる賢い人間が使えば、それは弱者から貪る武器となる。それでも前を向いて、戦うことを恐れなければ活路はあります。美咲さん、今回の勝利はあなたが自らの力で手に入れたものです。どうか卑下しないでください。」
人は劣悪な環境に置かれると、後ろ向きになりがちだ。それでも彼女は前に進むことを決意したのだ。ならば俺は、そんな彼女の手助けをしなくてはならない。それが法曹の道を選んだ俺の信念だったからだ。
「……ありがとう。ううん、そうだね。早く病院に行こう。お父さんとお母さんが待ってるから。」
「あ、いやそれ嘘なんで病院行く必要ないです。」
俺のその言葉に彼女は固まる。沈黙すること数秒。「えぇぇぇ!?」と彼女の叫びが喫茶店内に響き渡った。