覚悟
彼女に教えられた住所はボロアパートだった。とても昨日と同じ人物がいるとは思えない環境。手すりの塗装は剥げていてサビが浮き出ており、廊下は掃除をしてないのか汚れが染み付いている。教えられた住所を何度も見直して恐る恐る呼び鈴を鳴らした。
ドアが少しだけ開く。ボロアパートには似つかわしくない整った端正な顔をした美人。少しドキリとした。ココネと目があった。相変わらず自称するだけあって美人だ。
「カギを開けたからそっと入るんだ。周囲に誰もいないことを確認しろよ?」
口を尖らせて彼女は静かにドアを閉めた。辺りを見回す。誰もいない。ドアノブに手をかけてそっとドアを開けた。
部屋の中は手狭だが綺麗に整理がされていた。古臭いガスコンロやバランス釜の風呂……今どきこんなものがあるのかというくらい歴史のありそうな部屋。玄関口には写真立てが飾られていた。幼い彼女と家族。幸せそうな笑みを浮かべて父親に抱きついている。ボロボロの室内で、その写真立てだけはピカピカに磨かれていた。
そして奥で彼女はアンティーク調の……といえば聞こえは良いが古臭い木製の椅子に座り本を片手に読んでいた。
「深窓の令嬢というやつだ。そそるだろう?」
「そのジャージ、学校指定の奴?」
ジャージ姿の彼女は黙って本を閉じて立ち上がり、俺の脇腹に向けて本の角で叩きつけた。
「いってぇ!というかこれ本だと思ったらただの小物入れだ!」
「ええい!人が気にしていることを口にするな!ジャージなのは着替えを買う金がないからだ、空気を読め空気を。それよりもほら、見ろ。」
彼女が指を差した先にはパソコンが置いてあった。投資コンテストの画面が開かれている。
「予選が始まるぞ。本戦用の口座を与えてもらうにはここを突破しないと駄目だ。」
「だから俺は……。」
文句を言おうとすると唇が彼女の人差し指でつつかれる。静かにしろということだ。パソコンからは音楽が流れ始めた。予選の説明が始まったのだ。
予選の内容はシンプルだった。これから特定銘柄をいくつかあげて伸びるか落ちるかを当てるもの。本来なら豊富な業界知識と勝負勘が要求されるものだ。
「いけるか天理?」
「……あぁ、簡単な問題だよ。」
この銘柄が絶対に伸びる、というのはない。だが此度の予選で指定された特定銘柄はどれも特徴的なものだった。言うならあまりにも分かりやすい動きをした銘柄。確かニュースにもなってたので覚えてる。俺は迷わずアップ、ダウンの項目を選択した。
「迷いがないな、そんなに簡単な問題なのか?」
「まぁ……そうなのかも。予選用だしある程度、分かる人を絞りたいんじゃないかな。」
翌日、結果が出た。判定は合格。今日から一週間、投資取引で持ち金を一番大きくしたものが優勝らしい。俺たちの目的は優勝ではない。しかし……。
「ベスト10に入らないと投入資産は没収って……知ってたか?」
「あはは、当たり前だろ。いくら予選で絞ったって有象無象が参加されると運営の開催コストも半端じゃない。参加者全員分の口座用意や準備、運営に必要な固定費諸々……慈善事業じゃないんだ。儲けが出るようにしてるのさ。」
彼女は笑いながらそう答えた。その表情は俺とは対照的に何一つ心配をしていない様子だった。
「いやいやいや……わかってるのか?全国から投資の猛者たちが挑んで来てるんだろ?しかもチーム登録ってことは複数人で並行して進めるんだ!俺一人じゃあ……。」
「天理ならやれるさ。予選だって軽々と突破したじゃないか。それにもう始まってるんだ、ほらほら急いで手を動かそう、私は精一杯サポートするよ。主に食事の用意とか応援とか?メイド服があれば良かったな、それともチアリーダー衣装か?キミみたいなタイプはやる気が出そうだ。」
ココネはそう言って、俺の両肩に手を当てて「がんばれ、がんばれ」と耳元で急かし始める。
くそ……好き勝手言いやがって……ただ俺も資金が必要なのは事実。何も優勝しなくても良い。十位以内なら投資で増やした莫大な資金が口座ごと手に入る。一位でなくてもいいんだ。俺には未来の知識だってある。こうなればやるしかない。マウスを手に取りディスプレイに視線を向けた。
「な……え……おま……。」
俺はパソコンの画面を見て唖然とした。既にネットバンク口座が開かれていて資産状況が表示されている。そこには現金百万円が表示されていた。
この大会での初期費用限度額は五千万円。当然ながら初期費用は大きい方が有利。
「それが私の全財産プラス借金でかき集めた金額さ。いや冷たいものだよね。没落前はヘコヘコと頭を下げていた連中が、今は札束分も貸してくれないんだから。」
「だからってこんな額で……!無理だ!絶対に無理!」
分かりきった話。だがココネは酷く落胆した様子を見せて俺の背中にのしかかる。
「そっかぁ……断られちゃうかぁ……家の名前使って何とか百万円は用意できたが……はぁ~とんだ根性なしの童貞野郎だった、返すアテもないし困ったなぁ~。あぁ、哀れ私は頼りにした男に裏切られその花を散らすことに……。」
担保も何もない彼女が無条件で借金など出来るはずがない。おそらく期限内に返せなかった場合の条件がある。おそらくそれは……俺の想像以上に悪辣なもの。
「く、クソ!知らないぞ!いや卑怯だそんな手口!!分かったよやれば良いんだろ!?」
「おぉ!流石は天理!応援してるぞ!」
他人事みたいに……いやココネは借金をしてまでしてお金を用意したんだから一番の当事者だ。だというのにニヤついた顔で俺にエールを送ってくる。どういう神経をしているんだ。
キーボードをカタカタと走らせる。百万円という額は少なくはない。だがこれを元手に五千万円という初期費用で投資を始める連中に追いつくのは天文学的だ。とにかく無心で記憶を辿り上がることを知っている銘柄を叩き込む。
日が暮れようとしていた。手持ち資産は増えているが目標には遠い。
「し、死ねる……。取引所はそろそろ営業終了か……。ココネ……少し休む……。」
振り向くとココネが消えていた。湯気が立っている手料理と置き手紙が置いてある。
『後はよろしく頼んだよ!料理の感想はあとで聞くぞ❤』
「あ、あいつは一体なんなんだぁ……!!」
頭を冷やす。いつの間にいなくなっていたココネのことは置いといて、このままではジリ貧なのが現実。国内取引所だけでは無理だ。ご丁寧にこのコンテストは海外取引所にも既に登録を済ませていた。二十四時間働き続けろということだ。チーム制とはつまり、そういう意味だ。
社畜時代を思い出していた。ボロアパートの一室で一人カタカタとキーボードを打ち込み続ける。誰も助けてくれない。恐らくトップランカーは交代制でシフトを作り今も着実と資産を増やしている。ランキングはリアルタイムで表示され、その圧倒的差には絶望しかない。外はとっくに深夜を過ぎて朝日が出ようとしていた。一人、一人、ただ一心不乱に資産を増やし続ける。
「駄目だ……こんなの……いつまで経ってもできるはずがない……。」
何でこんなことをしているのかわからなくなってきた。
現実は非情だ。今の資産は三百万ちょっと。他のチームのスタート地点すら超えていない。
「はろー!天理!どうだ、私のいない間にどれだけ稼いでくれた?む……これは……。」
玄関を派手に開けてココネはやけに高いテンションで戻ってきた。パソコンのディスプレイに顔を近づける。横顔からでも分かる端正な顔つき。少し胸が高鳴るのと同時に、彼女の表情の変化が怖かった。きっと彼女は失望したことだろう。ベスト10どころか今のランクは圏外。一日目でこれだ。差は開き続ける。
「凄いじゃないか!三倍近く伸びているぞ!やはり私の見る目は間違いではなかったな!」
しかし彼女は底抜けの明るさを見せた。その目には疑いも失望の情は微塵もない。ただ目を輝かせて、俺を見つめていた。
「い、いや……でも……無理だろ……。他のチームは五千万円だ。期限は一週間、これでベスト10なんて……。」
「わかってるさ。だからキミの足りない部分は私が補う。ほら見てごらん。」
彼女の手が俺の手に触れる。その手は白い花びらのように柔らかく、優しく触れるだけで心が揺れた。何事かと思いきや俺の手ごとマウスを動かして、ネットバンクの口座を開いた。取引所の口座とは別口座になるし、最初以外は見る必要が特に無いと思ってた。
「な……え……?えぇ……?」
そこに表記されていたのは二千万円という数値。とてつもない金額に思わず言葉を失った。
「これについては謝罪するよ天理。少し手間取って用意するのが遅くなってしまってね。五千万円とは程遠い。一日遅れもした。でも大丈夫だろ?キミならやれるさ。本番はこれから、だろ?」
「こんな大金あるならどうして最初から───!」
同時に怒りが湧いた。彼女の身勝手な振る舞いに振り回されてどれだけ苦労したことか。最初からこれだけの予算があるなら話は違っていた。だが俺は彼女の姿を見て言葉を失う。ガクリと肩を落として、何も言えなくなってしまった。
「どうしたー?本番に弱いタイプか?エナドリも用意してるぞ、気合入れとくか?」
彼女は態度一つ変えず堂々とした振る舞いを見せる。この狭いアパートでも決してその矜持だけは失われず、凛とした態度を見せていた。冷蔵庫にはたくさんのエナジードリンクが入っていた。それを一本とり、笑顔で俺に差し出す。
俺は差し出されたドリンクを複雑な感情で見る。
「……どうしてだ。」
「ん?ジャージ姿の私に見とれているのかな?やはり気品というのは隠せないか。」
「ないんだ……指輪が……。」
見えてしまった。彼女の細い指から、指輪が消えていることに。そんなすぐに大金など用意できるはずがない。手間取ったとはそういうことだ。形見だと言っていた、大切な指輪を。
「ああ、あれか。良いんだよこれで。」
淀みなく、迷いなく彼女はそう断言した。
「良いわけがない。なんで見ず知らずの相手をそこまで信用するんだ?」
「言っただろう?私は人を見る目には自信がある。キミに私は一目惚れしただけさ。」
彼女はただ真っ直ぐな瞳で俺を見つめながらそう答える。
「見ず知らずの相手じゃない、キミだからこそさ。天理ならやれるだろ?」
このコンテストは、入金したお金はベスト10に入らないと戻らない。
覚悟が足りなかった。彼女が美咲という女性のためになぜ大金が必要なのかわからない。だが彼女は父の形見、残された最後の切り札を俺を信じて堂々と切った。
俺はどうだ?青薔薇の男を探すといって、目の前にチャンスがあるのに尻すぼみして、口だけだ。違う。覚悟とは、身を削る思いをすることだ。何もない俺は魂削り苦難の道を歩まなくては活路は見いだせない。
彼女の信頼に応えなくてはならない。彼女の真摯な表情を見つめながら、自分が彼女に信じられる存在でありたいと強く思った。
「ああ、やれる……いや、やるさ……ココネ。」
顔を上げる。その目にはもう迷いはない。
差し出されたエナドリを受け取り飲み込む。炭酸とカフェインが染み渡り脳が覚醒する。二千万円という予算。敵は全国から集まったプロフェッショナルチーム。普通なら勝てやしない。だが俺は違う。これから起こることが分かる。パソコンに張り付き続け記憶を頼りに最高のタイミングで売り抜ける。これを繰り返す。ただ一心不乱に、睡眠など忘れて。