偽りの青い薔薇
天理は無言でナイフを構える。白石の想像どおりだった。天理の不意打ちは失敗した。だが、それをまったく気にしていない。失敗したのなら、手に持ったナイフで殺し合いをすると、当たり前のように選択したのだ。
「ま、待て!落ち着け!冷静になれ!!」
「あ……?」
殺意に満ち溢れ睨みつける天理とは対照的に白石は焦ったような態度を示した。
「そのナイフで私と戦うつもりか……?よせよせ、そんなことをして何になる。」
「お前を殺せればそれで良いだろ、何の問題があるんだ。」
「馬鹿か!こんなナイフで争ったらどうなるか分からないのか?そりゃあ私は殺人鬼だ。たくさんの人を殺した。経験値は豊富さ。だがナイフで殺し合いなんてしたらお互い重篤な傷を受けるのは目に見えてるだろ?」
「そんなことは関係ない。怪我を負うことになっても、お前をここで止めることが俺の……!」
「そう、止める。お前の目的はそれだろ?後ろの司ちゃんを護り、私の凶行も止める……なら確実な方法を取るべきだ!何もリスクを負って殺し合いをするのは避けたほうがいい、違うか?」
「お前をここで殺すのが一番の確実な方法だろうが。」
「そこで提案だ、私だってここでリスクある方法で殺し合うのはごめんさ。だからここは一旦逃げようかと思う。天理くんはただ俺が逃げるのを黙って見ていれば良い。」
「逃げ……る……?」
「そうだよ、天理くんにだって悪い話じゃない。だって天理くんは司ちゃんを護りたいんだろう?ならリスクを負って私と殺し合いをするより、この提案を受けるほうが全然いい。あとのことは、神宮寺や流星に頼めばいい……違うかな?」
天理は後ろを見る。司は未だに恐怖に囚われ震えている。
そうだ、俺がもしここで死んだら司は間違いなく殺される。他人を護ると言っておきながら、復讐を優先して……そんな選択を、妻は許してくれるだろうか。いいや、明白だ。俺の復讐は妻のため。なのに、妻が喜ばないことをしても……それは本末転倒で、恥晒しも良いところだった。自然と力が抜ける。ため息を一つ吐き、腕を下ろす。
「行けよ白石。」
「理解してくれて何よりだ。それじゃあ私はこの窓から失礼するよ。」
そう言って、白石は窓を開けて器用に、壁を伝って降りていった。
「はぁ……。」
完全に気力が抜け落ちた。本当にこれで良かったのだろうか。青薔薇の男、憎い復讐の相手。絶好の機会。奴の言うとおり、こうして襲ってきた以上、神宮寺や流星はより警戒を強め、いずれは捕まることになるだろう。彼らは白石をどうするのか……想像に容易いことだ。それで復讐は終わる。それで……良かったのだろうか。
「て、天理くん……大丈夫なの……?その傷……血、血がたくさん……!」
司は俺の腕を見て恐る恐る話しかける。見るとぎょっとした。学生服は真っ白いシャツなだけあってか、真っ赤に血で染まっているのがやたらと目立つ。だが出血自体はもう止まっていた。傷口が広く派手に見えるだけで、切れたのはそんなに太い血管ではないようだ。
「大丈夫、もう血は止まってるし見かけほど深い傷じゃないよ。それよりも司こそ大丈夫か?酷く怯えてた。」
手を差し出す。ずっと腰が抜けて立つこともままならなかったのだろう。だが司は俺の手ではなく背中に手を回し抱きしめる。
「怖かったよ……。殺人鬼が怖かったんじゃない。天理くんが殺人鬼の前に立って、傷だらけになって、殺されそうになっていたのが怖かった。なのに何もできない自分が嫌だった。ごめんね、こんなことに巻き込んじゃって。天理くんには関係のないことなのに。今、こうして確かにここにいるのが嬉しくて……嬉しくて嬉しいの。」
司はまるで俺の存在を確かめるかのように強く抱きしめる。そうか、言われてみると彼女からすれば無関係な俺を巻き込んでしまったかたちになる。元をたどれば豊奉神社の乗っ取り騒動から始まった話。全ては司が原因だと考えてもおかしくはない。でもそれは違う。これは俺自身が選択したことだ。
だから俺は司の頭に手をのせて伝えた。
「関係のないことなんてないさ。これは俺が望んでやったことなんだから、司は気にしなくて───。」
涙を拭い司は俺を見つめる。俺の言葉を確かめるように穏やかな表情で涙ぐみながら聞いていた。しかしその表情はみるみる内に青ざめていき、まるでこの世の終わりのような表情へと変わっていった。
「天理くん!!」
司に引っ張られ体勢を崩される。瞬間背中に激痛。身体を打ち付けたんじゃない。覚えのある痛みだった。刃物が肉に突き刺さり、食い込んでいく痛み。
「やっほぉ天理くん、第二ラウンドに来たよ。」
背中越しに声がした。そこには先ほど確かに窓から逃げ出したはずの白石真澄が立っていた。
「ぐっ……司!!逃げろ!!」
咄嗟に司を突き飛ばす。だが余計な心配だった。白石は俺に向けて更にナイフを振り下ろす。ナイフの刃は俺に突き刺さり、傷口から血が噴き出る。
「きんもちぃ~やっぱりこれだね、一方的に滅多刺しにする快感……それがいけ好かない奴だと、更に倍増だよ……なぁ天理くぅん!!」
何度も刃物を突き刺し続ける白石に対して、俺は両腕でただ致命傷を避けるように身を守ることしかできなかった。しかし腕の肉はナイフで裂かれる。重要な血管は腕に何本も通っている。血が辺りに飛び散る。先ほどとは明らかに違う尋常な量の出血量。司の悲鳴が聞こえた。
「来るな!!」
俺は司に対して叫び、そして手に持ったナイフを払う。白石は「おっと危ない」と呟き距離をとった。
「ハァハァ……なんでだ……。」
出血はおびただしく、息切れを起こす。両腕が真っ赤に染まっている。背中もべっとりとした感覚がして気持ち悪く、きっと真っ赤だろう。白石は満面の笑みを浮かべている。
「学生なら学校の構造を理解しないと駄目だよ。学校というのはね、有事に備えその避難経路は多数用意されて設計されているんだ。窓から降りたからって……別経路でここに戻ってくるのは簡単なのさ。」
得意げに一度は逃げ出したはずなのに、ここにどうやって戻ってきたのかを解説する。違う、俺の思っていることはそうではない。
「お前は……ハァハァ……誰だ……。」
「はぁ?白石真澄、指名手配犯の連続殺人鬼。知ってるだろ?いいよ、その絶望に満ちた表情……それが何よりも私の……。」
「臭い演技はやめろ、この三下野郎が。」
ゆっくりと立ち上がり、ナイフを構える。白石はポカンとしていた。俺の言葉の意味がまるで理解できていなかったようだ。
「どういう意味だ?時間稼ぎのつもりなら逆効果だぞ、その前にお前は出血多量で死ぬ。」
「言葉どおりの意味だ……何が人が絶望する瞬間が見たいだ、何が前菜だ。美味しいだ。安いキャラ作り。」
「キャラ作り……?」
確信を得たのは今だった。奴は司ではなく俺を狙った。もしも奴が本物ならば、司を狙うはずだった。だが奴は先ほどの俺とのやりとりで俺に対して怒りを抱いて、その鬱憤を晴らすために俺を狙ったのだ。それは……それは……俺の知っているあの男のやり方ではない。そんな理解できる行動原理で奴は動かない。
思えば何度も滅多刺しにして苦しめるのもそうだ。あの男は必要最低限のことしかしなかった。一撃で確実に殺していた。あの男にとって殺人とは呼吸のようなもの。楽しむとか楽しまないとかではない。日常の延長線で、他愛のないことなのだ。だから平気で他人の尊厳も冒涜できるし、悪気もまったくない。
目の前の男は偽物だ。俺の知る……青薔薇の男とは何もかもが違う。本物を騙る偽物。
「神宮寺さんや流星さんがいない時を狙ったのもそうだ……お前、本当は怖かったんだろう。自分よりも強いものを相手にするのが。連続殺人鬼だなんて大層な肩書だけど、狙っているのはいつも弱い立場の人ばかり、はったりで人を怖がらせて逃げ惑う人を後ろから刺しただけ。何が絶望する顔をみたいだ。お前はただの、弱い者いじめをしたいだけのクズだよ。幼稚な精神性のまま、年だけ重ねた哀れなガキ。」
「何を言ってんだ……お前……。」
「でも弱い者いじめをしたいだけだなんて、格好がつかないもんな?だかららしい理由をつけて、自分は恐ろしい殺人鬼だって吹聴してるんだろう。でもその実は、用意周到に、理性的に、計算高く、姑息な手段を用いてコソコソと立ち回る……制御のきかない怪物?違うね、お前はただの普通の人だ。ただの臆病なだけの、卑怯者だ!」
白石の目を見れば分かる。青薔薇の男の目はまるで深海の底のように昏く、底が読めなかった。その言動は全て理解できず、支離滅裂で、理不尽を体現したような男だった。だがこいつは違う。こいつはただの一般人だ。ただ趣味が悪いという範疇なだけで、そこらの人間と何も変わらない。
「は、はは……だから?だからどうしたんだよ天理。そうだよ、俺は弱いものをいたぶるのが大好きさ。それで?俺にマウントをとったつもりなのか?あぁぁぁ!!クソ苛つくなぁお前!!もう我慢ならねぇ!!ここにいる奴ら皆殺しだ!!お前のせいだ天理!!お前のせいだからな!!お前が余計なこと言わなけりゃ皆、死ななくて済んだんだ!!なぁまずはお前から殺してやるよ!!」
豹変し怒り狂う白石。そこには先ほどまでのサイコパスを装った殺人鬼の姿はなかった。ただ今まで抑えていた怒りを、まっすぐに俺にぶつける。
白石が殺人鬼なのは変わりない。その精神性は偽物だとしても、その殺人衝動は本物。ボロボロの身体、流れ続ける血液。どこまで戦えるかは分からないが、ここで死ぬわけにはいかなかった。青薔薇の男は別にいる。奴と再会するまで、俺は死ぬわけにはいかないのだから。
「来いよ白石!内心怖いんだろ!抵抗してくる獲物を相手するのは初めてだもんなぁ!!何が怪物だッ!ただのコソコソと這い回る……ゴキブリ野郎がッ!!」
白石にとってそれは図星のようで、動きが止まり慎重さを見せる。
血濡れた腕を前に出し白石を見据え構える。傷口から滴る赤い雫が地面に落ちるたび、なぜだか俺の心は一層強くなった。決して後ろを向かないと誓った。今ここに自分の信念のために戦うのだ。不退転の決意を持って、青薔薇の男への復讐を為すまでは、いかなる壁が立ちはだかろうとも、決して屈するわけにはいかない。





