忘れていた感情
「ちょっと天理、私は少し頭が痛くなってきたから保健室で休むことにするよ……。」
クラスメイトから受けたあらぬ誤解を解いて周り、ココネは精神的に疲弊していた。司は厄介なストーカーに狙われていて、それを捕まえるために協力しているという嘘で、どうにかクラスメイトたちは納得してもらったが、流石のココネも予想外の出来事が続き限界を迎えたのだ。
「うぅ……ごめんなさい藤原さん……。私が余計なこと言ったせいで……。」
保健室に向かうココネを申し訳無さそうに司は見送っていた。
そして昼休憩。いつもはココネと二人なのだが、今日は司の警護というのもあり、司と一緒だった。ココネはまだ保健室で横になっている。司は普段は友達と食べているのだが、今日は折角だからと二人で校内の適当な場所で食事をすることにした。
この学校には中庭にベンチとテーブルが設置されており、昼食で利用する学生も少なくはない。食堂が狭いのもあってか、食堂で注文した料理や、購買で購入したパンを食べる学生たちで賑わっている。俺たちもまたそんな学生たちに混ざり空いていた席に座った。
「そういえば私、天理くんが昼食とってるの見るの初めてだなぁ、いつもはどこでとってるの?」
「ん?ココネと一緒に屋上で食べてる。人気がなくて良いんだ。」
「ふぅん……いつもパンなの?今朝、藤原さんがうちのキッチンでお弁当作ってたけど、一人前だったから不思議だなって。婚約者なんだしお弁当作ってあげれば良いのに。」
「ココネはグルメだからなぁ、学食なんて不味いから自分で作るらしいよ。」
以前、そんなことを言っていた。あの時は緊張して味なんて分からなかったが、あれから何度かココネの弁当のおかずはもらってるけれども、確かにでかい口を叩くだけあって冷えた弁当にも関わらず味はこの学校の何よりも美味しかった。
「そういうことじゃなくて……婚約関係なのに何でお弁当作ってもらえないの?」
そういうものなのか、と思いながら少し思案する。愛妻弁当なるものを妻が作ってくれたことは確かにあったが、食べる時間もろくになかったので結局パンばかりだった転生前の昔を思い出す。
「それは……面倒だからじゃないの?」
「ううん、本当に好きだったら喜んで作るはずだよ。手料理っていうのはただのプレゼントとは違うんだよ?心を込めて喜んでもらえるように工夫するの。食事っていうのは日常の一部でもあるし、自分が好きな人の日常の一部になれるって思うとやっぱり嬉しいの。そもそもお弁当作るのに一人前も二人前もそんな手間じゃないし……ねぇ天理くんは藤原さんのことが本当に好きなの?」
「好きだよ?ココネはああ見えて義理堅いし、人間的に尊敬もできるし、信頼もしてる。」
その言葉に迷いはない。そんなに長い付き合いではないけれども、俺のココネに対する印象は、紛れもない善人だった。他者を思いやり、時には自らも平気で犠牲にする。そんな人間を嫌いになれるわけがない。
「んー、そういう意味じゃなくて……藤原さんのことを愛してるの?」
愛してる───。それは軽々と口にはできなかった。俺には妻がいる。俺とココネは偽りの婚約関係だから、ここは愛していると言わないといけないんだけれども、抵抗を感じる。だってここで愛してるといえば、妻を裏切るような気持ちになるから。
沈黙する。本当は言わなくてはならない答え。何を言うべきか分かってるのに口に出せない。
「……ごめん、ごめん!変な話をしちゃった!藤原さんも言ってたよね、あまり昔の話はするなって。」
「え、あ、あぁ……!」
俺は曖昧な返事をした。司は微笑みながら話題を変える。その表情に悪意や疑義がないのは明白だった。よくよく考えれば高校生で婚約関係のカップルなんて珍しい。司は年頃の女子高生なわけで、きっとそんな珍しい関係に興味津々なんだろう。他愛のない話。きっと深い意味なんてないはずだ。
「でも、さっきの話の続きじゃないけどパンばかりで飽きないの?」
「いや、こう見えて菓子パンは量は少ないけど腹持ちは良いんだよ。ほらカロリー表示見たら分かるけど学食のうどんは五百円だけど、このパンは二百円。でもカロリーはこっちの方が上でコスパにも優れてるよ。おまけに出来上がるのを待つ必要もないし、いいこと尽くめさ。」
社畜時代、とにかく時間がなかった。だがやはりどうしても空腹は来る。食べなくては死んでしまう。そんな時、片手で食べられてカロリーも高いこういうパンが重宝するのだ!
「……本気で言ってるの?」
そんな俺の熱弁が空回りしたのか司は怪訝な表情を浮かべた。
「あ……あぁ!栄養面ね、問題ないよ。ほらサプリメントを持ち歩いてるんだ。食後にこれを飲めばオールクリアってこと。」
ビンに入ったサプリメントを見せつける。ジャラジャラと音がして、中にはビタミン剤が入っている。だが司はそんな俺を黙って見るだけで、何も言わない。
「え、えっと……ごめん、何か気に障ること言っちゃったかな……悪気はないんだけど、ごめん……訂正するよ……何か失言があった……?」
「ううん、謝る必要なんてないよ。ただその……天理くん……駄目だよそんな食生活。いつか死んじゃうよ。私は味のことを聞いたんだよ?なのに天理くんはお金のこととか、栄養のこととか、おかしいよ。なんでそんな当たり前のような表情で言えるの?」
心底心配したように、悲しそうな目で司は俺に訴える。言われて俺は自分の発言のおかしさに気がついた。そうだ、俺は食事の味について、何一つ答えなかった。ただ生きるために食事はできればいい、食事を楽しむ感情なんて、とうの昔に消え去っていた。でも、違うのだ。長い社畜生活で人間性が消え失せていただけで、本当は食事というのは、まず楽しむものであるはずだ。ココネは、食事とは心の豊かさに繋がると言っていた。俺の心は……荒野のように荒れ果てていたのだ。
「ご、ごめんなさい。言い過ぎたかも……あの、天理くんが良ければお昼、私が用意してあげようか?藤原さんみたいに上手には作れないかも知れないし、夕飯の余りだって使うけれど……。」
「え!?い、いや悪いよ。作るのだってタダじゃないんだろ?」
「別にいいよそんなの些細なこと。そもそも天理くんには神社を助けてもらったのに、そんなお礼ができてないし……お弁当を用意してあげるくらい、それに比べれば些細な問題でしょ?ね?だから良いでしょ?」
屈託のない笑みを浮かべ彼女は俺の目を真っ直ぐ見ながらそう答えた。裏表ない心底の善意。断るのは逆に失礼な気がしてしまう。
「司が良いなら……そうだよな、年頃の男の子が菓子パンのみってのは確かに言われてみると良くないし。」
「本当!?嬉しいな、明日から楽しみにしててね!あ、予行練習。私の弁当のおかず、試しに食べてみる?」
そう言って司は俺の前に弁当を差し出した。ココネの弁当とは違い、ところどころ盛り付けが不細工で、確かに昨夜、豊奉神社でご馳走になった食事の余りらしきものも入っている。折角なので俺は昨夜食べていないおかずを選んで一口頂いた。おかずを選んで取った瞬間、司は小さく声を上げる。
「美味しいな。そうだよな……こんな当たり前のことも忘れてたなんて俺は……。」
久しぶりにただ胃に運ぶだけの食事を忘れ、噛みしめる。冷えた弁当だったが、なぜだか心は満たされる。そうだ、妻との食事も……きっとこうだったのだろうと、薄れた記憶を手繰り寄せる。
そんな様子を司はただ黙って満足そうな笑みを浮かべながらじっと俺を見つめていた。





