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愛がその手を穢すというのなら

 蒼月アカネが意識を取り戻したのはこの一日だけだった。

 翌日、また蜃郷病かいきょうびょうの発作を引き起こし、アカネは天理を認識することができず、怯えた目、あるいは敵意を持った目で天理を見る。そんな日々が続いていた。


 「アカネ……頼むから、食事をしてくれないか。」


 天理は、必死にアカネに訴えかけた。しかし、アカネは彼の言葉を理解しようとせず、食事を拒否し続けるようになったのだ。

 発作の影響は、人格の変貌だけにとどまらなかった。アカネは、食事を取ることを極端に嫌がるようになった。無理やり食べさせようとすれば、激しく吐き出してしまう。天理以外の人の手でも同じだった。

 食事をほとんど取らないアカネは、見る見るうちに衰弱していく。かつて美しい輝きを放っていた彼女の目は、虚無に包まれ、頬はげっそり痩せこけて、腕は皮と骨だけのような状態になっていた。


 誰もが、アカネの異変に心を痛めた。しかし、原因は不明だった。蜃郷病の症状として、このような事例はこれまで報告されたことがなかった。

 医師たちは、アカネの症状について、徹底的な調査を開始した。しかし、数日経っても、原因は掴めなかった。

 天理は、絶望の淵に立たされていた。最愛の女性が、目の前で少しずつ消えていく。それなのに、何もすることができなかった。


 「アカネ……どうか、食事を……。」


 医者の報告を聞いてアカネの部屋に戻った天理は、震える声でアカネに語りかけていた。しかし、アカネは彼の顔を認識することなく、ただ虚ろな目で天井を見つめていた。

 天理は、アカネの手にそっと触れた。その手は、冷たく、乾いていた。


 「もう、だめなのかもしれない……。」


 天理は、涙を堪えることができなくなった。最愛の女性を、救うことができない。自分が無力であることを痛感した。

 そんな日々が続く中、ある日のことだった。いつものように天理はアカネの部屋を訪れた。ベッドの上には、骨と皮だけになったアカネが横たわっていた。


 「ジュースを用意したんだ。これなら食欲がなくても……。」


 いつものように天理は、アカネに食事をさせようと工夫を凝らした。彼女の好きなものだけを使って、彼女が好きだと言ってくれた笑顔を浮かべながら。

 ベッドに横たわるアカネは、天理の言葉に反応することなく、静かに目を閉じていた。

 天理は、アカネの顔をじっと見詰めた。そして、あることに気づいた。


 アカネの目が……澄んでいる。


 発作を起こした時のアカネは、虚無に包まれた目をして、怯えた様子を見せたり、敵意を持った目で見つめたりしていた。しかし、今のアカネの目は、確かに澄んでいて、優しさに満ち溢れていた。


 「アカネ……?」


 天理は、信じられない思いで彼女に呼びかけた。アカネは、ゆっくりと振り向き、天理を見つめた。


 「……りぃくん……?」


 彼女の言葉には、驚きと喜びが混じっていた。天理は、アカネの顔を優しく撫でた。


 「アカネ……本当に……?発作が……?」


 アカネは、微笑む。久しぶりに見た彼女の素顔だった。


 「うん……今日は朝からね……。体が…軽くて……頭も…冴えてる。」


 天理は、涙を堪えることができなかった。最愛の妻が、ついに発作から解放されたのだ。


 「よかった……本当に…よかった……!」


 天理は、アカネを強く抱き寄せた。二人は互いを、お互いの存在を確かめるかのように抱き合った。


 「久しぶりだ、アカネ。君が…こんなに…美しいなんて…。」


 天理は、アカネの顔をじっと見詰めた。発作の影響か、ひどい表情をしていたアカネの顔には、かつての美しさを取り戻していた。痩せ細っていようとも、天理には分かる。その内面、変わらぬ彼女の心の美しさが。

 アカネは、天理の言葉に照れ笑いをした。


 「りぃくんも……相変わらず……優しいね。」


 二人は、久しぶりに言葉を交わした。しかし、その会話は、まるで初めての出会いのようだった。


 「あ、アカネ!よかった……早くこれを飲んでくれ!発作を起こしてた時のアカネは何も口にしなくて……でも良かった。これで餓死することもなくなる!」


 空腹は耐え難いもの。天理が用意したジュースは栄養豊富な特製ドリンクだった。栄養失調を起こしているアカネのために特別にあつらえたものだ。


 「うん、嬉しいな……。」


 天理の言葉を聞いて、アカネはそのやつれた頬を微かに緩ませる。

 その言葉を聞いて、天理は安堵した。ようやく久しぶりに食べ物を口にしてくれる彼女に。


 「発作を起こしても……私の想いは変わらなかった。それが何よりも嬉しい。ごめんねりぃくん。それは飲めない。」

 「飲めないって……このままじゃ死ぬんだぞ!?そんなの……死ぬ……まさか。」


 天理の脳裏に最悪の想像がよぎる。

 以前、アカネは尊厳死を希望していた。だがそれは天理が明確に否定したため未遂に終わる。

 だが、アカネは諦めていなかった。尊厳死は天理の同意が必要。立会人の目の前でサインし宣誓をすることが必要である。その同意が得られないのならば、自ら命を絶つしか無い。


 「大丈夫だよりぃくん。私はりぃくんを人殺しにはさせない。」


 選んだ方法は餓死。天理はいつもアカネの傍にいるため、首吊りなどの方法はできない。故にアカネは餓死を選んだのだ。己が意思で、食べることを拒否して衰弱死を選ぶというのだ。

 尊厳死の同意。それは間接的に殺害を許可したこと。人殺しと変わりない。

 アカネはそれを見抜いていた。天理にとって何よりも耐え難いのは、愛する人をこの手で殺すこと。殺す選択をすること。考えてみれば当たり前のことだった。もしも自分が逆の立場なら、きっと先日の天理のように、子どものようにわがままを主張して、意地でも尊厳死の同意をとらないだろう。


 ───わがままなのは私の方だった。いつの間にかりぃくんに甘えて、自分が楽な選択肢をとるために、彼につらい選択をさせようとしていた。


 アカネは笑顔を浮かべる。天理に悟られないように。飢餓という苦しみを悟られないように。懸命に笑みを浮かべた。

 だが、それは無意味なことだった。まるで白骨死体のようにやせ衰えたアカネには昔の面影などまるでない。そんな彼女が浮かべる笑顔は、逆にその健気さに天理の心を抉るだけだった。


 「やめてくれ。アカネ、わかった。尊厳死に同意する。立会人の前で宣誓をする。だから食事をとってくれ。」


 思ってもいない言葉だった。それでもアカネが一時的にとはいえ食事をとってくれることが、何よりも大事だった。


 「だーめ……だよ、りぃくん。本当に、嘘が下手だよ……。」


 当然、アカネはそんな天理の嘘を容易く見破り、食事を摂ろうとしない。

 不可能だった。どうしてアカネの死に同意することができるのか。天理にとってアカネは全てだった。

 だが、同時にそんな愛しき人が飢餓の苦しみにあえいでいるのも事実。平然な顔をしているが、今も苦しみで意識を保つことさえも困難だというのに。


 ───彼女を苦しめているのは、俺だ。俺が、中途半端な態度をとるから。


 ナイフを手に取る。それは決意を示すもの。天理の心臓が高鳴る。

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