人畜羅睺、殺戮の咎人
───福富白禄は荒れていた。
まるで逃げるようだった。いや……実際逃げてしまったのだ。豊奉神社の一件以来、父はろくに口を聞いてくれない。学校への影響力など皆無。そしてトドメに先日の蒼月天理と藤原心音の事件。暴力を散らつかせた恐怖のもとに敷いた学校と言う名の彼の楽園は崩れ去った。
「クソッ!クソクソクソッ!どうして俺がこんな目に!!」
苛立ちながら物に当たる。彼の頭の中から、ほくそ笑む天理とココネの表情が離れなかった。
「かわいそうに……シロクさん……あなたは悪くありません。酷い話ですね……。」
そんな様子を傍らで見守っていた男がいた。そこは異様な場所だった。見かけ上は普通の部屋だが、シロクと男の間は明らかにこの部屋に不釣り合いな鉄格子で仕切られていた。座敷牢という言い方がそれに近いが、その生活環境は牢屋というには程遠かった。
「当たり前だ!クソッ……父さんも父さんだ……あっさり身を引きやがって……。」
「その天理とココネとかいう人、殺しましょうか?」
あっさりと、まるで平然とその男は答えた。殺すと。シロクの手が止まる。この男の殺すは自分の言う殺すとはまるで意味が違う。本当に殺すといえば殺す男だった。
「……殺したいほど憎いが殺したところで何の意味もねぇよ……むしろマイナスだ。スカッとするだろうがその後が酷い話になる。」
シロクが天理、ココネと衝突していたのは最早誰もが知っていること。そんな時に二人の殺人事件などが起きたら、真っ先に自分が疑われる。証拠はなくとも関与したと思われる。だから手は出せなかった。
「そうですか……よかった……私もあの二人は今はまだ好みではないので乗り気ではなかったんです。ですが……奉条司……彼女はいい。早く殺したい……資料を見た時、心躍りました。穏やかで幸せな仲睦まじい家庭、地元に愛された環境、学校でも彼女に惹かれるものは少なくない……だからこそ……あぁ、全てを失った時……どんな表情をするのでしょうか。」
男は心底、愉快そうに恍惚な表情を浮かべていた。
「何の話をしている?司ちゃんを殺す?そんな話、俺は聞いてないが。」
「無限さんからですね、豊奉神社を何とかするように言われてたんです。結局辞めだと言われたんですけどね。」
「そうだ、手を出したら駄目だと言われてるだろ。」
それは彼の父である無限が豊奉神社にした約束。違えるつもりはなかった。
「でも貴方はここに来て、私に話をしにきた。それはどういう意味かご存知でしょう。」
シロクは沈黙する。男の言葉が完全に間違っているとは、言い切れなかった。手元には、男を解放する牢屋のカギもある。
「シロクさん……私は貴方の味方です。すべてが狂い始めたのは豊奉神社の一人娘が天理という子に泣きついたからじゃないですか。憎いんでしょう……?殺して差し上げます。大丈夫、私が勝手にしたことにすれば良い。私は司さんを今すぐにでも殺したい。絶望の淵に落ちる姿を見たい。シロクさん、想像してください。司さんが無惨に殺され、その事実を知り深く落胆する天理とココネの姿を。」
まるで子供を諭すような優しい口調で男はシロクに語りかける。
憎い。憎くてたまらない。でも福富グループは何もしてくれない。日和った父親は手を出すなと言っている。シロクにとっては耐え難いことだった。
───気がつくと、牢屋の扉は開かれていた。シロクは牢屋のカギを握りしめて呟いていた。
「俺が悪いんじゃない……みんなあいつらが悪いんだ……俺のせいじゃない……。」
獣は解き放たれた。狙いは唯一つ。豊奉神社の一人娘。幸福に満ちている彼女を失意の底に落とすことこそが、その獣にとって極上の餌であった。





