星空のグラス
それからしばらくして、豊奉神社への嫌がらせは無くなった。悪い噂はまるで嘘のように消えて、住民たちは次々と奉条家を見かけたら謝りだす始末だった。
そしてそれとほぼ同時期に連絡が来た。福富グループ総帥の福富無限が直接電話をしてきたのだ。今回の件について直接会って話がしたい。都合も場所もそちらに合わせるので頼むという内容だ。
宗田先生は同席するのは自分と奉条夫婦だけの方が良いだろうということ、場所はやはり豊奉神社が一番だということを助言し、そのとおりに話は進んだ。
そして当日。今、俺たちは別室でことの成り行きを見守っている。
「先生の知らない間にこんな話が進んでたなんて……陸上部のコーチがあるとはいえ……仲間はずれにされた感じが強いなぁ。」
拗ねたように美咲先生は呟いていた。生徒の一大事ということで駆けつけてくれたのだ。今後のことも考えると、ことの成り行きはやはり知っておくべきだと思い、同席に快諾した。
「先生を仲間はずれにするつもりは……私も驚いています。事態が急に進みすぎて……天理くんに相談してからまだ一月も経ってないのに。」
司はお茶を持ってきて俺たちの前に出す。彼女は俺の目を見つめて感謝の言葉を告げる。
「まだ終わりじゃないさ。今がいうならば最終決戦。ここでどう交渉するかが……宗田先生の腕の見せ所だよ。きっと大丈夫だろうけどね。」
今も部屋の向こうでは宗田先生が戦っている。何も出来ないのはもどかしいが、今の俺は所詮ただの学生。それに先生ならあの九条とも渡り合えると信じている。正当性はこちらにある。あとはどれだけ和解するのに条件を結ぶかだ。
しばらくしてふすまが開かれる。宗田先生と奉条夫妻だ。こころなしか夫妻の顔が明るい。
「話は済んだよ。借金については無効。そしてもう二度と豊奉神社には手を出さないことを約束してもらった。」
その言葉に俺たちも歓喜の声をあげた。
司は感無量なのか、満面の笑みを浮かべて俺に抱きつく。俺もあの福富と九条に、直接は関係ないにしろ、一泡吹かせたことに舞い上がり、共に喜びを分かち合う。
──────。
その夜は祝勝会だった。寿司の出前をとり、豊奉神社の離れで盛り上がった。神職ともあろうものが酒だの寿司だの良いのかと尋ねたが、神道は日本酒も刺し身も全然問題がないという。殺生や酒が駄目なのは仏教だとか何とか。
「まぁそういうことで!いや宗田先生、本当にありがとうございました!私たちも歴史ある神社を守れて……。」
司の父親は宗田先生に日本酒を注ぐ。先生もそういうのは大好きなので遠慮なしに頂いていた。
「しかし神社で寿司に酒なんて……肉食が普通にありだなんて、知らなかったなぁ……ありなんだ……。」
未だに抵抗を感じながら寿司に手をつける。上物でとても美味しかった。
「あ、それは違うよ天理くん。正しくは魚肉がありなの。牛肉とか四足の動物は駄目だよ?穢れがあるからね。ただこれも祀っている神様によって違いがあって例えば~」
隣に座っていた司がここぞとばかりに神道の蘊蓄を披露する。知らないことばかりで奥が深い……。
「むぅぅ……なんだかなー。生徒が仲睦まじいのは良いんだけどぉ……ともかく、二人は未成年なんだからお寿司は良いとして酒は駄目だからね?お父さんも聞いてます!?」
隙あらば俺に日本酒を呑ませようとする司の父に美咲さんは手厳しく注意をしていた。
「申し訳ありません、先生。うちは一人娘だから……天理くんみたいな男の子がかわいいんですよ。」
それを司の母がなだめる。微笑ましい光景だった。
そんな温かい団欒、幸せで和やかな空気がしばらく続き、宗田先生が立ち上がる。トイレに行くそうだ。
「天理くん、付き合ってくれませんか?男同士の連れションというやつですよ。」
俺は宗田先生に連れられて、外に出る。
奇妙な感覚だった。かつては他人同士、多くの叱責を受けた宗田先生と、今は肩を並べて歩いている。それは俺が学生だからこそ許されるものなのだが、それでも嬉しかった。
「天理くん、真面目な話があります。」
突然、宗田先生は振り向き俺の目を見た。先程の祝勝会とはうってかわり、真剣そのものな表情だ。俺は気を引き締めて「なんでしょうか」と答える。
「今日の福富グループとの話し合い、実のところそんなに難航はしませんでした。それよりも彼らが執拗に聞いてきたことがあります。」
何のことだろうか。俺は緊張感に包まれて生唾を飲み込む。
「今回の絵を描いたのは誰か、いいや……九条先生はもっと直接的に尋ねてきました。蒼月天理は何者だ。とね。」
───背筋が凍る。彼らにとって和解はさほど重要ではなかった。問題なのは俺の存在。そして一連の絵を描いたのが俺だと認識している。
それは違う。たくさんの人々の協力があったからこそで、俺の力など……。そう言いかけ、宗田先生は話を続ける。
「分かっています。貴方だけの力ではない、そう言いたいのでしょう?ですが向こうはそうは思っていません。単刀直入に言うと福富グループはあなたを敵視しています。念のため今回の一件は全て私の手によるものだと記録上にも残しますが……それでよろしいですか?」
弁護士は担当して業務について記録を残す義務がある。それは活動の正当性を第三者に明らかにすること、弁護士協会に正しい実績を認識してもらうためだ。
「よろしいも何も俺は学生です。全部、宗田先生の手柄ですよ。」
「……私はそうは思っていませんよ。」
そう言って胸ポケットから名刺を取り出して俺に渡してきた。宗田先生のプライベート情報が載っている。
「何かあったときはその携帯電話番号に連絡しなさい。君の助けなら、喜んで引き受けます。」
名刺を受け取る。それは宗田先生の信頼の証明でもあった。かつては遠い存在だった先生が、今は自分に期待の眼差しを向けている。それはとても名誉あることだったし、少しこそばゆかった。
そして同時に九条もまた自分を気にかけている。良いことばかりではない。奴に敵視されるのは、ろくなことに繋がらないからだ。
───俺は一人、外に出ていた。
夜の境内は薄暗く、特有の景色を見せる。だが空気というのだろうか、闇夜ではあるが、決して恐ろしいものではなく、どちらかというと神秘的に感じた。人を待っていた。いつまでたっても来ないのでスマホで何度も何度も電話する。スタンプも送りまくった。ようやく既読がついて「うるさい」という返事が返ってきた。
境内にあるベンチに腰掛けて待っていると、真後ろで人の気配がした。
「いつから気がついていたのかな?」
待ち人は背中越しに問いかける。俺は振り向かず呟くように答えた。
「最初から。いつもと明らかに様子が違っていたもの。」
背中越しに少し温もりを感じる。彼女もベンチに座ったようだった。腰掛けているベンチは背もたれなどはなく、腰掛ける高さに座るスペースがあるシンプルなもの。俺たちは背中合わせに座っていた。
ココネは事あるごとに司に対して否定的だった。彼女は司に自分を信用してもらうには難しいと自覚していたからだ。その一番の理由としてココネは司に対して下心があることだ。彼女は家の再興という目的のため、金銭に対する執着心が強い。それを司に見抜かれ、信頼を損なう可能性が大いにあった。そして疑いの眼差しは当然、"婚約者"である俺にも向けられる。
だから彼女は「私は付き合えない」と身を引いたのだ。裏方に徹するということだ。恐らくは俺さえも騙すつもりで、でないと司の信頼を真に得られないと思っていたから。
「打ち合わせもしてないのに?もしかすると邪魔をしてたかもしれないよ?それだけじゃ理由にならないよ。」
背中越しにかかる彼女の体重が重くなる。俺の答えに納得がいっていないようだった。
「分かるさ。」
だからどうして───。彼女は尋ねた。彼女自身、当たり前のようにしていることなのに、いざ他人にされるとなると慣れていないようだった。
「"一目惚れ"さ。見ず知らずの相手じゃない。ココネだから俺も信用したのさ。」
俺の答えにココネは沈黙する。そして笑い声が聞こえた。失笑のようだった。
「でも詰めが甘いよ。大変だったんだよ?豊奉神社の悪評を消して、住民の誤解を解くのは。悪い噂が流れなくなったからって、人の心に染み付いた評判を消すには真摯な付き合いが必要……まったくこっちは毎日のように自治会の連中と宴会騒ぎだったよ。そのくせ奉条家の宴会に参加しろだって?どんだけドSなんだキミは。ほら。」
ふと横を見るとグラスが二つ。ノンアルコールのシャンパン。確か産地は……。
「南アフリカ産、だっけ?」
「ご明察。シロクは嫌いだが、これはイケるね。私は今、この瞬間の一杯で十分さ。」
俺たちは顔を合わせる。月明かりに照らされた彼女はいつもと違い少し神秘的に感じて、大人びた雰囲気を感じさせた。無言で微笑みながらグラスを俺に差し出した。俺はグラスを受け取り、彼女の持つグラスと俺のグラスが優しく触れる。この勝利の一時に。静かな闇夜に小気味よい音が響いた。将来のことで不安は残るが、今はひとまず、勝利の余韻に浸ることにしよう───。





