人が人であるために
イリヤは自分の手をナイフで斬りつける。傷ついた手からは俺と同じ様に血が溢れ出している。そしてその傷ついた手で、同じく俺の傷ついた手を握った。
「血の掟。ファミリーの契約。お前がマフィアにならないなら僕と二人だけの契約だ。」
血の掟。マフィアの組織に入る際に交わされる契約である。ただし、これは公式の場でマフィアのボスの前で行われるものである。
此度、イリヤが行ったのは個人間の血の掟である。マフィアに正式に加入するのではなく、一般人と取り交わす義兄弟の絆を示すもの。
「それは、どういう……?」
「ハ、お前の言うとおり、ボスはシベリア行きになり"かけて"いた。ミハイルの名を出すと、役人の馬鹿が自白したデスよ。大金を我々に貢ぐのならともかく……ボスの命を救われたとなら話は別だ。」
秘密裏に行われていたブラトヴォルノストのボスをシベリア送りにする計画。それが俺の情報で露呈し、霧散した。
緻密に計画を立てていたのだろう。どこから漏洩したのか想像もつかないはずだ。まさか未来を知っている人間が漏洩しただなんて、夢物語にも程がある。
「ただネ、お前は知らないだろうが物事には筋というものがある。背景が何もない素人の助言で我々の首領の命を救われるなど、普通は変な勘ぐりをされる。ならいっそのこと、"身内"の有能な仲間が活躍したということにするほうが色々と体裁がつくデスよ。」
スメルチ・ノヴォシビルスクが仕込んでいた今後起こる戦争を利用した莫大な利益。それをブラトヴォルノストは事前に察知することで、独占を防いだ。それだけでなく今後起こる勢力争いに、無様な敗北を喫することもなくなる。
俺がミハイル・コルニロフの名前を出したのはそのためだ。水面下で動いているこのビジネスの工作活動は、巧妙に隠蔽こそはされていた。それこそミハイルが動いていることすら悟られず。
しかし今、ブラトヴォルノストという同レベルのマフィアがミハイルの名前を出して調査することによってその前提は瓦解する。
多くの企業、役人を巻き込んだこの陰謀には大きな穴がある。それは関係者の多くが一般人であるということ。マフィアたちと違い覚悟がない。故に自分たちがスメルチ・ノヴォシビルスクというマフィアに絡んで何かをしていることが、他のマフィアに知られてしまえばそれで終わりなのだ。
一度漏洩した情報は容易く拡散され、隠蔽も水の泡だ。
本来それは決して漏れることのない情報。まさか未来から漏れてきた情報なんて思いもしない。
「僕は有能な奴は大好きデスよ。天理の情報源がどこかは分からないデスが……ボスの命を救い、組織に莫大な利益をもたらす素敵な奴は……仲良くしてイキたいデスもの?ふふっ!」
イリヤは上機嫌に語っていた。ミハイルの馬鹿が怒り狂っていたと。気に食わないやつだったのかいい気味だと笑顔で語る。そして俺との協力を約束してくれた。
だが同時に警告をする。もしもここで体裁の上ででもブラトヴォルノストの後ろ盾がないとするのなら、間違いなくスメルチ・ノヴォシビルスクは報復として俺の命をいずれは狙うことになると。
故に結ぶ必要があった。血の掟を、偽りのものだとしても。
「これからはブラット。この国の言葉で言うなら……兄弟だ。対等のね?おっと!だが僕が兄貴分だ。そこは気をつけることだね。」
イリヤの言い分は正論だった。幸いにもマフィアの"振り"というだけであり、正式なものではないということ。ボスの命の恩人を無下にはしないということだろう。
「分かった……しかし兄貴?細かいことだけど姉御じゃないのか?」
「ん……?いや僕は男だよ。姉御とは……この国では年上の女性を指すと聞いているが?」
──────は?
「お、お、男ぉ!?い、いや確かにその体格は……でも!その格好はロシアの流行りなのか!?」
中性的な格好ではあるが、どちらかというと女性的な服装に俺は困惑する。というか俺は男に……ッ!
「おーこれは趣味、さ。僕は元々男娼でね。好きでやってたんだ。カローチェ、そもそもイリヤという名前で分からないのか?イリヤとは男性名詞だぞ?この国で言うなら……太郎とかそんな名前?」
そんなの知らない……唖然とする俺にイリヤはイタズラめいた笑みを浮かべた。
「僕を女の子と勘違いしていたのか……なら試しに抱いてみる?男娼として男も女も喜ばせるテクは一通り身につけてるよ……?」
「い、いや良い!勘弁してくれ!」
「冗談♡いやマジでね?男娼だったのは過去の話。今、僕の貞操は神宮寺様だけ……♡」
神宮寺様。そういえば、度々彼女……彼は神宮寺に敬称をつけている。
「神宮寺さんとはどういう関係だったんだ?」
「えぇ~?それ聞いちゃう?どうしようかなぁ~?兄弟とはいえ話すのは流石にぃ?」
「嫌なら別に」
「しょうがないなぁ~!いい?あれは今から数年前のこと……。」
言葉とは裏腹にイリヤはノリノリで語りだす。神宮寺との出会いについて。
男娼をしていたころ、ロシアンマフィアの相手をしていた時に神宮寺と初めて出会ったという。神宮寺の用事は一つ。縄張りを荒らしたことに対しての制裁だった。
イリヤはその時見たのだ。神宮寺の圧倒的な暴力を。そのときイリヤは神宮寺の姿を見て数回達していた。彼の男性としての尊厳は完全に消失し、彼に崇拝とも呼べる感情を抱くようになったというのだ。
「もう……あのときの神宮寺様の乱暴さを思い出すだけで……♡胸がキュンとして、ドキドキとするんだ……♡」
「そう……。」
マフィアの言うことをマジメに理解しようとした俺が間違いだったと後悔した。頬を染めてトロンとした表情を浮かべるイリヤだが、そこには倒錯的な愛情を感じさせる。
「でも……ミカとかいう奴はマジで許せねぇ!弱いくせに神宮寺様のそばにいて、しかも理段にやられた時、何もしなかったわけでしょ!?あんなのが相棒を自称していたなんて苛立たしい……!」
そしてイリヤはミカに強い嫉妬、憎悪を抱いている。歪んだ愛情とも呼べる感情を神宮寺に向けていて、周りのもの全てを傷つけてしまうような、そんな危うさを感じさせた。
彼には神宮寺が実は生きているということを伝えないほうが良いと……本能的に感じさせる。
しかし同時に、ようやく本来の未来では存在しなかったブラトヴォルノストの介入があったのか理解した。神宮寺の死だ。彼の死がこの国にマフィアの台頭を招いたのだ。
「理段だが、やはりロシアンマフィアの手でも難しいのか?」
「神宮寺様が理段にやられたと聞いてすぐに殺そうとした。でも無理だね。理段自身が強いのもあるけど、社交界に強く根付いてる。マフィアの中には彼に信仰しているものもいるし、ただむかつくから殺すってのは筋が通らないから動けない……くそっ。」
つまり組織的に理段を暗殺するのは不可能。だからといって個人で動けば返り討ち。イリヤは神宮寺の一件で理段に強い復讐心を抱いているものの身動きがとれない状態であった。
理段の殺害……それが一番、俺と妻が死なない確実な選択肢かもしれない。ただ人を殺すという選択肢を安易に取ることに躊躇する。
妻が奴に殺された。でもそれは未来の話だ。今は妻は生きていて、あの時と変わらない笑顔を浮かべている。復讐のパラドックスである。
合理性だけで考えれば理段を殺害するのが正解だ。ただそこに人間性がない。正当性もない。
綺麗事なのは分かっている……でも、そんな綺麗事を無視してしまうと、人でなくなってしまいそうだった。
七反島で出会った、復讐鬼に堕ちた愛夢と次郎が今も俺には心に染み付いている。
そのとき、スマホが震える。着信だった。イリヤは「構わない」と言うので俺は電話に出た。
『蒼月!助けてくれ!やばいってこの状況!!』
「猛か?やばいって……ていうかさっきから何だこの音。」
電話は猛からだった。背後からけたたましい音が鳴り響き、工事現場にでもいるのかと思わせる。
『紅龍会に追われているんだ!』
そうだ、元を辿れば俺と猛はテンバイヤーのセミナーで紅龍会に攫われた猛の師匠を探しに行っていたんだ。師匠を見つけたけど、紅龍会に追われている……ということか。
チラリとイリヤの方を見る。
「あぁなるほど兄弟。構わない。紅龍会には我々から口を利いておこう。その猛ってのはどこで何をしているんデス?」
「猛、助けに行くから場所とあと紅龍会に何をしたのか教えてくれ。」
『場所か!?日式九龍城だ!張龍とかいうやつをうっかり殺してしまった!』
「殺したァ!?」
物騒な言葉に俺は叫ぶ。それと同時にイリヤが吹き出す。
『正当防衛だ!うぉぉ!師匠!あいつら機関銃持ってきてます!!バズーカに対してどうすれば!?あ、悪い!それじゃあ蒼月、助けが来るの待ってるぞ!!』
「は!?いや待って───」
プツンとスマホは切れる。俺は唖然とするしかなかった。あいつ、何をしてるんだ。





