懐かしき日々と藤原家の人々
朝───。
窓から差し込む朝の日差しは目蓋の裏から暖かく照らし、一日の始まりを感じさせる。不慣れなベッドの感覚は、まるで昔ビジネスホテルに泊まった時のような感覚を思い出させて新鮮だ。
カタ……カタ……と音がする。
違う点があるとすれば人の気配だった。誰かが室内にいる。旧藤原邸で俺の使用する部屋は二つ。今いる寝室と、居間である。
居間と寝室は部屋が分かれているが、並んだ部屋配置になっていて、室内に出入り口とは別にドアが設けられており、部屋を出ずとも行き来できるようになっている。
俺は寝巻き姿のまま、居間へと向かった。欠伸をしながら、誰がいるのか確認も兼ねて。
「あ、おはようございますご主人さま。着替えとタオルを用意しに参りました。起こしてしまいましたか?」
そこにはメイド服姿の妻……茜がいた。笑顔で蒸したタオルを渡してくれる。顔を拭くためのものだ。ほかほかで温かい。
一瞬、昔に戻ったようだった。こんな大きな屋敷ではなかったけど、朝起きると妻がそこにいる感覚。本当に、本当に何十年ぶりかのような感覚で、油断すれば涙さえ溢れてしまいそうだった。
そうだ、妻は今、ここにいる。健在なんだ。彼女のためなら俺は、どんな苦しみにだって耐えられる。
「いや丁度起きたから大丈夫。それよりも"ご主人さま"っていうのはやめてくれないかな。同世代なんだし……。」
「え、でも私はご主人さまに雇われているわけですし……。」
「こそばゆいんだ、同じ年頃の女の子に"ご主人さま"なんて呼ばれる身にもなってくれよ。」
嘘である。本音を言えばそもそも妻に"ご主人さま"と呼ばれること自体が嫌だった。それは即ち主従関係を意味する。違うんだ。俺と茜の関係はそんな関係ではあってならない。
例え記憶がないふりをしているとしても、そこだけは譲れなかった。
「それでは……蒼月さんとお呼びすれば良いですか?」
「いや、ほら……初めて会った時さ、"りぃくん"って呼んでたろ?あれ気に入ったからそう呼んでほしいな。敬語もなしだ。他人行儀だと疲れるから。頼むよ。」
俺の言葉に茜は目を丸くする。そして心底嬉しそうに微笑んだ。
「りぃくんがそれで良いなら……えへへ、改めて言うと何か恥ずかしいな。」
仮初の関係とはいえ戻ってきた日常。そんな感覚で俺の心は満たされたようだった。
蒸しタオルで顔を拭く。寝ぼけた意識を覚醒するのには丁度良い。
「そうだ、りぃくんお茶はいる?冷やしたのがあるんだけど……コーヒーも一応理段さん言われて用意したけど……苦手だよね?」
俺はコーヒーは飲めないことはないのだが、飲むと決まってお腹を壊しがちだ。飲むとしたらそれは仕事で覚醒作用を求めるときくらいだ。だから普段はお茶か水で済ませている。
そんなことを覚えてくれていた妻に思わず俺は笑みが溢れる。
そういえば蒸しタオルもそうだ。温かいということはそんな時間が経っていないはず。妻は俺の起床時間を知ってるし、それに合わせて来てくれたのだろう。
本当に昔と全然変わらなくて、外見こそは若々しくても、中身はあの頃のままなんだなと思った。本当に、本当に愛おしくて抱きしめたくなる衝動に駆られる。
無論、そんなことはできないのだが。
「あぁ、お茶が良いな。ありがとうアカネ。」
自然といつもの、俺たち夫婦間でよく交わした会話のように答える。
俺の言葉に茜もハッとしたかのように少し驚いた様子を見せた。きっと同じ気持ちなんだろう。今の俺の口調、トーンは俺たちが一緒に暮らしていたころと、まるで同じもの。
俺たちにしか分からない秘密だ。
「いいえ、こちらこそ、ありがとう……りぃくん。」
茜は微笑む。姿こそは若々しいが昔と変わらぬ笑顔を浮かべて。何者にも代えがたい一時であった。
旧藤原邸は広い。
本来の目的は藤原理段の父親殺しの痕跡を探すことだが、そもそも広すぎてどこを探せば良いか見当がつかない。
屋敷には度々青薔薇の装飾があり、曰く藤原家を象徴するものらしい。
家具をよく見ると小さな傷がある。差し押さえられていないのは幸いだった。一通り見たが高そうな食器、書斎の書物……全て残っていた。
適当に書斎の書物を漁ると海外の小説や歴史書、学術書の類が多くほとんどが英文だった。そんな中、日本語で書かれた古い本があったので手に取る。
「古いけど立派な装丁だ……本革かなこれ。」
本を開くとそこにあったのは藤原家の家族史だった。藤原家の系譜が書かれていて、紙の色からして新しいページが継ぎ足されているようだった。最初の方では藤原家の沿革が記されていて、最初の方は絵として描かれていたものが、写真が混ざるようになっている。
神宮寺から聞いた話のとおりだった。藤原家の起源は平安時代に遡る……改稿を何度かしているのか古い話でありながら現代語訳されていて俺にも読める。歴史上の人物も所々出てきてちょっとした歴史書のようだった。
「……ん?なんだこれ……破れてる?」
最後のページをめくろうとしたところで中途半端な隙間があった。よく見るとこのページだけ抜けているのだ。古い本故に接着が甘くなっていたのだろうか……。
「おやおや、天理くん。藤原家の家族史に興味がおありで?」
「な!?」
振り向くとそこには理段が立っていた。気配すら感じさせず、咄嗟に俺は後ずさりする。
「驚きすぎでしょう。いやしかし懐かしい、まさか真っ先に天理くんがこの本を手に取るとは。」
「あ、あぁ……意外でしたか?」
「敬語は良いですよ?義理の兄になる人物とはいえ、私は天理くんとは対等な友達でいたいですし。」
そう言って理段は藤原家の家族史をペラペラとめくり眺める。やがて満足したのかパタンと本を閉じた。
「ですがね、これはダメです。親しき仲にも礼儀ありですよ?これは言うならば藤原家の歴史そのもの。当主のみが閲覧を許されるものです。天理くんはココネの夫になる男性ですから問題ないかもしれませんが……やはり正式な婚姻後というのが筋ではありませんか?」
「あ、あぁ……そうだな……確かに人の家庭に踏み込みすぎるのはよくないか……悪かったよ……。」
正直言って家族史に親殺しの手がかりがあるはずもない。変に疑いをかけられる前に俺は理段の言葉に素直に頷いた。それに対して理段は満足そうに微笑み、藤原家の家族史を元の場所に戻した。
「この藤原邸が気になるのは分かります。観光地みたいな気分でしょう?ですが一人はよくない。ココネが探していましたよ?恋人なら、二人で一緒に探検をしてはいかがでしょうか?」
「それは……そうなのか。ココネはこういうのに興味ないと思ってた。どこにいるんだ?」
「最後に見かけたのは応接間です。急げば間に合うのでは。」
本音を言うとココネは巻き込みたくなかった。もしも親殺しの痕跡が見つかったとしよう。それが兄に関係なかったとしても、ココネにとっては不愉快なものであるに違いない。事故にせよ殺人にせよ、そういったものはココネからすれば嫌な思い出しかないだろうし、見つかれば即処分する可能性が高い。
初めてココネのボロアパートに来た時に見た写真。幸せそうに父親に甘えていた幼い少女の写真。そして形見となった指輪を見つめる彼女の表情。ココネが父親を慕っていたのは明らかだろう。
ただ、理段の言うことは正論だ。否定する理由がまるでないし、断るに断れない。だから俺は理段に礼を言って応接間へと駆け出すしかなかった。
「いやしかし本当に懐かしいな。子供の頃の思い出が少しずつ湧き上がってくる感じだ。」
ココネは屋敷内をきょろきょろと見回しながら、そんな感想を嬉々とした表情を浮かべながら話す。
屋敷自体がまるで観光地に来たかような豪華なものでそれなりに見どころがあるのだが、ココネにとっては幼い頃生活した場所。思い入れは俺たちとはまるで違うのだろう。
「よかったぁ、凄く高そうな家具ばかりで本当に神経使って……。」
屋敷内の案内役として茜が立候補してきた。ココネは自分の実家でもあるし案内なんていらないと嫌がっていたが、そういうわけにもいかない理由があった。
この屋敷は長いこと空き家だった。曰く付きとはいえ当然、空き家狙いの不届き者もいる。差し押さえられたというのに残った家具はどれも価値のあるもので、盗難の可能性が十分にある。
故に、この屋敷には異常な程に鍵があるのだ。後付けで取り付けられた鍵であるためココネも把握していない。メイドである茜はその鍵を全て把握しているのだ。
今もジャラジャラと音を鳴らし大量の鍵が括り付けられた金属製の輪っかを腰に携えている。あれが全部、この屋敷の鍵だと思うと……とてもじゃないが把握できない。
「それでお嬢様、鍵をかけておく部屋の整理もお願いしておきたいのですが……。」
「ココネで良いし、敬語もいらないよ。天理もそうさせてるんだろ?しかしそうだね……私たちだけで住むんだから鍵はあるに越したこと無い……とは言え多すぎると煩わしいな。」
名目上はこうして屋敷内を周り今後の防犯計画を立てることにある。
とはいえココネ自身は懐かしい我が家を楽しんでいる節があり、本腰を入れるのはしばらく後になるだろう。
「しかし藤原家というのは話に聞いてたけど、スケールが違うんだな。家族史なんて始めてみたぞ。」
「そういえばそんなのがあったね。子供の頃、絵本感覚で読んだのを思い出すよ。あ、ただお兄ちゃんにその話はしない方が良いよ。」
ココネはふと思い出したかのように忠告した。理段に家族史の話はするべきではない、とはどういうことなのか。というか今さっき話をしたばかりだから、どうしようもないのだが。
「お兄ちゃんは家族史の話になると凄く怒るんだ。幼かった私にはその理由までは分からなかったけどね、記憶にあるのは顔を歪めて叫ぶお兄ちゃんが浮かぶ。いつもは優しいんだけどね。」
──────?
少し、意味が分からなかった。顔を歪めて叫び怒る?あの藤原理段が?
俺にとって青薔薇の男とは、藤原理段とは血も涙もない冷血漢だった。イメージと違いすぎるし、何より今先程の理段は家族史をペラペラと流し読みして、表情一つ変えていなかった。
ココネの記憶と今、先程の理段が一致しない。俺の前だから紳士的に振る舞っていただけで内心は怒り心頭だったのか?しかしそれはそれでどこに怒る要素があるというのか。





