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天の無明

 「ありがとう……プロメテウス……天理くん……やはり、やはり私たちはトモダチです。運命の赤い糸で……フハ、フハハ……フハハハハハハハハハハハッッ!!!」


 倒れ込み嗚咽をあげる神宮寺の前に、理段は立ち見下す。

 そして高らかに嘲笑った。全ては計画通りと言わんとばかりに。


 「神宮寺さん……やはり貴方は凡人だ。耐えきれなかった。脳の作りが普通だから。何も持ち得ない凡人。あぁ……あぁ……悲しい……私はとても悲しいですよ……あなたのような凡人に……藤原家の血が通うこの肉体を傷つけられたことに……ねッ!」


 膝を付き未だ正体不明の頭痛に苛まれる神宮寺を理段は思い切り蹴り上げた。

 「ガハッ!」と小さなうめき声をあげて、神宮寺は転がる。臓腑をやられたのか血反吐が混じっていた。


 「インストールされた脳内電子はやがて定着化し、神経細胞に伝達していきます。ですが同時に廃人となる。それが人間の限界。私ですら完全な定着は不可能だった。つらいでしょう?あるはずのない記憶が混濁し、ありえない神経が暴走を引き起こす。幻肢痛ファントムペインに近い感覚です。」


 そう言って、理段はナイフを取り出した。

 それに呼応するように、ふらついた身体で神宮寺は立ち上がる。そして構えた。だが目の焦点は合っておらず、虚ろであった。そこまでだった。最早、虫の息である神宮寺は、気力だけで立ち上がっているのだと理段は確信した。


 「トドメは私が刺してあげましょう。せめてもの介錯です。」


 ナイフを首筋に向けて振りかぶる。その一撃に躊躇は微塵もなかった。凶刃が神宮寺に向けて襲いかかる。


 「……ッ!!」


 しかし、そのナイフは弾かれる。他ならぬ神宮寺の手で。

 回し受け。見事な受け流しで、理段の手に持ったナイフは吹き飛ばされ地面に転がる。

 その技のキレは何一つ衰えを感じさせず、先程まで戦っていた神宮寺が放った技の数々と遜色ないものだった。


 「なんで、どうして……?」


 意識は無いはず。目は虚ろで焦点は定まっていない。死人のような表情を浮かべていて、なお戦えるというのか。理段は困惑を隠しきれない。

 この時、神宮寺は確かに意識を失っていた。濁流のように流れる記憶の渦に呑まれ、まともな判断などできしない。

 しかし、例え脳が停止していたとしても、身体は覚えているのだ。

 積み上げ続けた研鑽の末に身に着けた武術の数々。修めた技。経験値。

 その全ては例え脳が働いていなかろうと、身体に刻まれているのだ。

 無意識に用いた回し受けは、かつて無いほどに冴え渡りを見せるものだった。言うならば無我の境地、究極の脱力下で放たれた絶妙なる技。

 鍛え抜いた、磨き続けたその技は、決して神宮寺を裏切ることはない。自然と本能が、反射的に最適解を導いたのだ。


 ───いつのことだったろうか。神宮寺は無限のように感じる情報の濁流の中、刹那的に昔のことを思い出していた。

 一家は離散した。父は酒と女に溺れ、母は発狂し、妹は違法薬物に手を染めて自分だけが残った。

 田舎の伯父夫婦に預けられることになったが、その伯父夫婦は最悪極まりない連中で、まるで家畜のような扱いを受けた。地面に投げ捨てられた残飯を与えられることなどいつものことであり、鬱憤晴らしに暴力を振るわれるなど当然のことだった。

 ある日のこと、伯父夫婦の息子が顔面蒼白にし帰宅する。聞けば気に入らなかったクラスメイトを誤って殺してしまったという。死体は隠したが発覚は時間の問題だと。最悪なのはそのクラスメイトが地元の大地主の息子であり、発覚すれば村八分どころでは済まないということだった。

 その時、彼らは神宮寺を見て気味の悪い笑みを浮かべる。殺人の罪を着せようとしたのだ。


 神宮寺はその夜、大人たちにリンチされた。木刀で殴りつけられ、煉瓦で叩きつけられ、やりたい放題だった。そして最後に木の上に逆さ吊りにされた。

 現代社会とは思えない仕打ち。田舎という特殊なコミュニティがそうさせたのか、集団ヒステリーのそれに近かった。

 普通の人間ならば、死を迎えるしかないだろう。だが神宮寺は違った。

 最悪の家庭環境、薄汚い大人連中、人の醜さ、そして暴力。

 その全てを味わったにも関わらず、神宮寺の胸中はただ一つ。『憐憫』という感情のみであった。憎悪に染まるわけでもなく、失意の底に落ちるわけでもない。

 ただ純粋に、罪を背負うことを恐れ、狂気の沙汰を振る舞った人々に対しての憐れみであった。ドブ底のような環境で、決してその精神性は腐ることはなかった。


 「なんだこりゃ、この村じゃあ人を吊るすのが流行っているのか?」


 それは偶然だった。たまたまやってきた男はヤクザだった。男の名は神宮寺栗栖じんぐうじくりす。後の六道会会長である。

 吊るし上げられた神宮寺を助け出した栗栖は神宮寺に事情を尋ねたが、神宮寺は答えようとはしなかった。しかし栗栖は看破した。その肌に見える虐待の跡の数々を。打撲痕、タバコを押し付けられたような火傷跡、切り傷……火を見るよりも明らかだった。

 虐待を受けた子供の多くは脳が萎縮し、他者に対して卑屈な態度をとるようになるという。だが神宮寺は違った。大人ですら萎縮するヤクザに対して真正面から目を合わせ、決して自分を卑下せず、ただ黙秘を貫いたのだ。


 「なんで何もいわねぇの?言っとくが警察に垂れ込めば余裕だぞソレ。いいぜ、後で調べるわ。田舎の連中は金を蓄えてるからよぉ、刑事事件ちらつかせていくら引っ張れるか……良いシノギになりそうだ。」


 ヤクザは善人ではない。明らかに事件性のある神宮寺の姿を見て、栗栖はシノギの絵を描いた。これをネタに脅す。大地主や議員、役所も巻き込んで搾り取ってやろうと息巻いていた。

 そう呟いた栗栖に対して、神宮寺は初めて口を開いた。「それはやめてくれ」と。

 栗栖は唖然とした。自分のすることは結果的に神宮寺の助けになるからだ。なるほど虐待されている子供は一種の洗脳下にあることが多い。こいつはそういう類か……と思ったのだ。

 だが、そんな考えは神宮寺の言葉で霧散と散る。


 「確かに叔父夫婦は自分に対して虐待をしている。だがそれは些事だ。」


 傷だらけの身体で、"些事"と神宮寺は言い放つ。栗栖は呆れて顔をしかめる。しかし神宮寺はそんな栗栖の表情をものともせず言葉を続けた


 「自分の家族は社会的に許されないことをしてしまった。それが原因で親戚中から腫れ物のように扱われていた自分に衣食住を提供してくれている。叔父夫婦のしていることもまた社会的には許されないことかもしれない。だが同時に自分には立てるべき義理がある。その義理立てを忘れ、我が身可愛さに伯父夫婦を売ることなど、どうしてできることか。」


 それは、伯父夫婦への義理立てだった。達観していた。この年の子供に、ここまで言わせるか?この若さで、こんな子供がそこまでの精神性を持てるものだろうか。


 「それは、伯父夫婦が言ってたのか?」


 念のための確認だった。もしも警察や児童相談所に尋ねられたら、そう答えるように調教されている可能性を考慮して。


 「いいや違う。そもそも伯父夫婦は自分にそんな会話をしない。」


 対して神宮寺は、真っ直ぐとした目で答える。その瞳に揺らぎはなく、嘘偽りもなければ、誰かに言わされた言葉でもない。自らの意思そのものであることが明白であった。

 栗栖は失笑する。

 なるほど、ではこの精神性は天性のものか、と。


 「そうか……でもそれは無理だな。俺はヤクザだ。悪いがお前の伯父夫婦は破滅するまでしゃぶりつくしてやるよ。」

 「なら……俺はあんたをここで止めなくちゃいけない。」

 「落ち着けよ、条件がある。お前、俺の養子になれ。そうすりゃお前の叔父夫婦には何もしねぇよ。」

 「叔父を人身売買に巻き込みたいということか?」

 「は、分かった。はっきり言おう。俺はお前が気に入った。どうだ?俺と一緒に夢を見ねぇか?こんな辺鄙なところで終わるような器じゃねぇよお前は。」


 その言葉は神宮寺の胸に確かに熱いものを思い出させた。


 ───夢……。久しく忘れていた言葉だった。


 一家離散し、贖罪の日々であった自分が抱いて良いものか、疑問に感じつつも、その言葉は確かに神宮寺の胸に響いたのだ。


 「夢の続き……あんたは俺にどんな夢を見せる?」

 「俺が見せるんじゃない。俺たちで見るんだよ。俺とお前で夢を描く。男ってのはな、そんな浪漫を求め続けるもんだ。終わりなんてない、どこまでも続く夢だ。」


 ───なんだそれは。

 神宮寺は思わず失笑した。共に歩く、ということか。こんな子供相手にそのようなことを本気で───。


 「俺の名は神宮寺栗栖。お前の名は?」


 僅かな沈黙。だが神宮寺は答えた。


 「朱音鬼龍あかねきりゅう。朱色の音に、鬼と龍と書いて朱音鬼龍だ。」


 それが出会いだった。神宮寺の運命を変える、奇跡的と言うべきか、あるいは運命的な出会いだった。

 程なくして神宮寺は伯父夫婦から追放される。玄関先では栗栖が出迎えに来ていた。伯父夫婦は金銭を受け取っていた。そして下衆な笑みを浮かべ、ヘコヘコと栗栖に頭を下げていた。


 役所にて手続きを済ませた後、今まで着たことのないような上等な衣服を渡され、着替えるように指示される。礼装着であった。日本古来からある伝統的な礼服。

 礼服に着替えた神宮寺が案内された先では、厳粛な雰囲気の中、少人数の者たちが神宮寺を歓迎した。

 目の前には御神酒おみきが注がれた盃が置かれる。親子関係の契りであった。


 御神酒を飲み干した神宮寺を見て神宮寺栗栖……組長オヤジは穏やかな笑みを浮かべた。この日を以って朱音鬼龍は神宮寺性を名乗ることになる。

 義理の親子関係ではあるが、その時、神宮寺は初めて本物の義理と人情を教えられたのだ。今も組長オヤジのあの時の笑顔は目蓋の裏に焼き付いている。


 ───なぜ、今こんなことを思い出したのだろうか。

 走馬灯?否、違う。これは懇望こんもうだ。魂が訴えているのだ。友が、家族が訴えているのだ。今、ここで倒れてはならないと轟叫ぶのだ。


 無限とも呼べる記憶の渦、濁流の中、薄れていく意識の中。確かにそこにある自我。延々と続く悠久の記憶の中、それは決して変わりはしない。

 人とは、人として生まれたから人となるのではない。人たる所以は、己が精神の内、人として生きることを自覚したその瞬間、人となるのだ。


 ───浪漫、か。ありがとう組長オヤジ。それが一番、俺たちにとっての絆であり紡いだ軌跡だったな。


 記憶の濁流の中、確かに見つけた。自分という存在。それこそが己であり、個であり、人としての証。

 即ち、此れ我思う、故に我アリ。天上天下唯我独尊。脳を焼き尽くすような情報と言う名の焔に惑わされてはならない。

 今、俺はここにいる。"神宮寺鬼龍"として。

 それだけで十分なのだ。過去も未来も関係ない。この瞬間を、俺は生きる。


 神宮寺は正中線に構え手を前に突き出す。無為自然の構えであった。その構えは驚くほどに自然で、それでいて隙は微塵もない。


 それは武の極致を超えた"ナニカ"であった。


 理段は思わず後ずさる。今までのものとは明らかに違う。恐ろしいほどの闘気は微塵も感じさせない。だが、正体不明の"恐怖"がそこにはあった。武に卓越していない自分でも分かる。何もない、だというのに鳥肌が止まらない。本能の危険信号であった。

 確かにそこにはいた。神宮寺の背後に、彼を突き動かす多くの人々の姿が。一人で立っているのではない。彼を支える多くの人々、彼が歩んできた道。その全てが神宮寺を支えているのだ。

 魂と言うものか、あるいは恐怖が幻覚を見せているのか、分からない。理段にはまるで理解できない感情だった。

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