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鬼へと堕ちる、復讐のために

 「そうだ……二郎は……?」


 まだ二郎が残っている。天理は周囲を見渡す。すぐに見つかった。

 二郎は隠れることすらしないで、ただ目を見開いて愛夢の死体の傍へゆらゆらと幽鬼のように歩き、その傍でしゃがみ込んだ。


 「兄……ちゃん……?兄ちゃ……ん……。」


 その手を二郎は握りしめる。手袋越しで愛夢の暖かさなど微塵も感じないが、それでもまだ、生きている気がした。

 母親からの虐待により脳に障害が残ってしまった二郎は、故郷でも居場所はなかった。からかわれ、馬鹿にされる日々。そんな彼に唯一味方してくれたのが、兄である愛夢だった。


 『俺たちの父さんは異国の人だけど、凄い人なんだ。二郎は知らないけど、俺が小さい頃さ、母さんは凄く幸せそうに笑ってた。自慢してた。だからさ二郎、周りが何と言おうと誇りを忘れるなよ。俺たちは立派な父さんの息子なんだって。』


 兄の笑顔が走馬灯のように駆け巡る。

 二郎は知らない。兄と母と福富無限の団欒を。確かにそこにあった幸せな日々を。でも決して妬ましいとは思わなかった。だって、その時の話をする兄の顔はとても穏やかで、楽しそうで、見ていてこっちも嬉しい気持ちになったから。


 『その……父さんの家での生活はどうだ?何か苦労してないか?お前はどんくさいからな。それに母親違いの弟や妹もいるんだろ?気まずいよな。』


 使用人の指示で買い出しに行っていた時に、偶然兄に出会った。今思えばずっと待ち伏せていたのだろう。

 嘘をついた。父さんは優しいし、新しい弟や妹、母親も優しいと。

 実際には福富無限の家族とは接触すら許されず、無限はろくに口も聞いてくれないというのに。

 その言葉を聞くと、兄は悲しそうに目を伏せた。全部知っていたのだ。自分がどんな仕打ちを受けているか。

 「帰ろう」と愛夢は自分に伝えたが、それは許されなかった。パスポートを発行することができないからだ。福富無限の落胤である福富二郎の戸籍情報はとっくに抹消されていた。無限は自分の手元に置いて隠し続けたかったのだ。自分にとっての弱みを。


 『……なぁ二郎。俺たちは何のために産まれたんだ?母さんは亡くなる間際まで、俺のことを父さんだと思ってた。母さんの時間は、あの頃の、父さんと出会った頃から止まっているんだ。俺たちの時間は……いつ動き出すんだ?』


 何もない人生。偽りの日々。

 福富グループは恵まれない子供のために支援を始めた。豊奉神社での騒動後の話だ。総帥である無限は講演で自分も二児の父親であり、家族の尊さ、愛は誰よりも知っていると話していた。

 だが二郎の立場は変わることはない。毎日のように使用人たちにこき使われ、馬鹿にされる日々。


 『兄ちゃん……このひとは?』


 ある日のことだった。兄は知人を紹介した。何でも故郷でボランティアをしていた時に知り合ったらしい。穏やかで優しそうな人だった。話していて凄く落ち着く不思議な魅力を持った人だった。


 『二郎……兄ちゃんはお前に従うよ。お前が望まないのならもう何も言わない。ただ隠し事はなしだ。全部知っている。お前が、あの家で何をしているのか。使用人たちにどんな仕打ちを受けているか。福富無限が何をしたか。この人が、全部教えてくれた。……実のところ半分は知ってたんだ。たまたまお前が使用人たちに殴られているのを見た。』


 自分の下手くそな嘘は全て兄にバレていた。最初から。心配させまいと、帰国するまで耐えるつもりだった。久しぶりに再会した兄に、情けない姿を見せたくなかったから。

 でも、でも、限界だった。何もかも知っていて、本気で怒ってくれている兄を前にして、涙を堪えることができなかった。周囲の目をまるで気にしないで、泣いた。兄に縋るように。「行かないでくれ」「別れたくない」「ずっと一緒にいたい」と泣き叫んだ。本音がボロボロと堰を切ったように流れ出した。


 『あぁ二郎。兄ちゃんはずっと一緒だ。今まで一人にさせてごめんな。』


 優しく兄の手が触れる。人の体温を感じたのはいつぶりだっただろうか。

 兄の"知人"はそんな自分たちを見て、ハンカチーフを取り出し涙していた。


 「兄……ちゃん……。」


 兄の死体に触れる。もう動かない。優しかった兄は一言も喋らない。

 でも、そもそも兄がここにいるのは、自分のせいだ。自分が我儘言ってしまったから兄を巻き込んでしまった。自分一人が、あの家で虐げられ続ければ、兄はこんな目には遭わなかった。あの故郷で、きっとかわいい女の子と出会い、人並みの家庭を作り、人並みの幸福を得られるはずだった。


 兄の人生を滅茶苦茶にしたのは、他ならぬ自分自身だ。


 それは深い後悔の念。強い自己嫌悪。自分なんか死んでしまえば良いという自棄。そんな思いが、二郎の胸を満たす。


 愛夢の死体の前で、二郎は微動だにせず、ただ無言で愛夢を見つめていた。


 「とりあえず……猛と九条を引き上げようぜ?そこのゴリ……お嬢ちゃんがいれば余裕で引き上げられるだろ。」

 「誰だこいついきなり失礼だな。天理?人付き合いは選んだほうがいいぞ?」


 ミカの軽口にココネはムッとした表情を浮かべる。天理は二人が初対面だったことに今更気がつく。ミカとは旧知の間柄のような感覚だったが今日、知り合ったばかりだ。


 「細かい話は後でするから、早く引き上げよう。それに猛は命の恩人なんだ。彼がいなければ、俺は羅刹に殺されてた。その時の怪我もあるし……。」

 「わかった、わかったよ。ただね、フィアンセの目の前でゴリラと言われた乙女心を天理も理解してほしいんだけどね。まったく、命の恩人なら仕方ないけどさ……。」


 ココネは乗り気ではなかったが、猛と九条をつなぐ鋼線を掴み引っ張り始めた。藤原の血筋……神宮寺の言葉を天理は思い出す。体格に似合わない怪力。それはそれとして、ゴリラ呼ばわりされるのは心外なのだろう。女の子に使う言葉として適切でないのは分かる。ココネもその辺りの価値観は普通の女の子と変わらないということだ。


 「後始末も考えないとな……まったく福富グループの威信をかけたプロジェクトが台無しだ。このクズが……。」


 無限は愛夢の前で呆然としている二郎を吐き捨てるような目で見る。


 「二郎は……どうするつもりなんですか。」

 「こんなクズだが使い道はある。今回の騒動は全てこいつが元凶にさせる。これだけの事件だ。死刑は免れないだろう。これで儂の懸念も払拭されるというものだ。」


 エレベーターの黒服は「悪魔のような男」と言っていた。思い返せば殺人は全て愛夢が行っていた。二郎は横で見ていただけでその手を汚していない。故に死刑になるほどの罪は課されない可能性がある。それを無限も理解していたのか、殺人は全て二郎の手によるものだと捏造する肚だった。


 「しかし、愛夢が死んだ途端、呆然と人形のように何もしなくなるとは……クズの中のクズだな。大方愛夢に唆されて何も考えずについてきたデクといったところか。こんな指示待ちのクズに儂の血が混ざっているとは……。」

 「おい無限……。」


 無限のあんまりな言い方に天理は口を挟もうとするが、無限は相当に苛立っていたのかまるで無視をして言葉を続けた。


 「やはりあの女が駄目だったのだな。貧民の穢れた血。下等な人間との間に産まれた子供は、下等でしかない。愛夢の話だと狂ったようだが、どうだか。案外、儂よりも若い愛夢に欲情していただけの売女だろう。なぁそう思わないか蒼月くん。」


 無限は心底冷めた目で、そう話す。その言葉は二郎にとってあまりにも心を抉る言葉だった。

 ───兄の笑顔が見える。嬉しそうに話していた暖かな日々。父と母と兄。三人の幸せな日々。その瞬間だけは、確かなものだと、思っていた。


───



─────────



──────────────────



 ───────────────────────────ッッッ!!!


 声にならない叫び声をあげる。それは慟哭か、あるいは怒号か。二郎は許せなかった。無限の今の言葉が。

 思ってしまった。兄が死んでいてよかったと。だって、兄にとっての幸せな日々まで偽りだったとしたら、一体兄の人生はなんだったのかと。最初から偽りの日々を夢見て、ずっと自分を殺してきた兄の人生は、一体なんだったんだろうかと。


 「無限ッッ!!」


 初めて抱いた感情。悲しみ、怒り、憎しみ、苦しみ……殺意。

 復讐のために今まで兄についてきた。今まで復讐心がなかったわけではない。

 だが今の二郎の胸中に占められた感情は言葉で表現しきれないほどに激情的で、悲哀的だった。思考や理性は完全に蒸発した。残ったのはただ純然たる殺意。

 何もかも失って初めて気がついた。復讐とは身を焦がし続けるもの。真に憎悪の炎に灼かれ続けた復讐者ならば、理性も感情もとうに焼き切れる。未来はいらない。今もいらない。日常も安寧も何もかもいらない。これからの人生全てを犠牲にしてでも成し遂げる。

 それほどの覚悟を持ってはじめて復讐者と成り果てる。二郎は、今それを理解した。

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