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───頭痛がする。頭の中が曖昧で、もやもやとした感覚が少しずつ晴れていく感覚。
旧い記憶だった。
ここはバーだろうか。良くわからない。俺は酒を飲んでいた。一人ではない。誰かと一緒に飲んでいる。カウンターに並んで座り、乾杯をした。
愚痴を零していた。毎日がつらいと。どうしてこんなことになってしまったのかと。何故自分が、こんな理不尽な目に合わなくてはならないのだと。
「すいません、何か俺ばかり愚痴ってしまって。」
俺は愚痴を零していた横に座る相手に謝る。一方的に愚痴ばかり聞かせてばかり。面白くないだろう。
「いいえ、天理くんは疲れているのです。そのくらいのワガママはきっと神様も許してくれる筈です。」
俺のナは蒼ツキ天リ。ぎょ政書し。士業でありながラ、地味なシごとが多く。
酒がグラスに注がれる。飲み込む。臓腑に染み渡り、全てを忘れるようだった。
「つらいことは全て話すと良いのです。溜め込むことはない。天理くんは頑張りました。一体天理くんの頑張りを馬鹿にする権利がどこの誰にあるのでしょう。それに私は貴方の……。」
「トモダチ、か?」
「そういうことです!トモダチなのです。だから愚痴、いいじゃないですか。」
ボケた視界。白く濁った乳白色の世界。
この人は俺の友人だった。社会の荒波に揉まれ、酷ク荒んだ俺の心のオアシスのように、俺の悩み、愚痴を聞いてくれていた。
「でもそんな夢のような話があるんですか。」
俺は尋ねる。友人は自信満々に答えた。
「ええ、そうです天理くん。あぁ私の愛しきトモダチよ。夢は現実に近づいてきています。世界はきっと、私たちを巡り合わせるために存在していたんです。やりなおしましょう。人生を。世界を。」
大げさな言い回しで、友人もまた酒を飲み、笑顔で答える。
俺たちは夢を語り合っていた。それは幼稚というには果てしなく。浪漫というには現実的で……そして、そして。
「そういえば変わったアクセサリをしているんですね。」
友人の袖を指し示す。あまり見たことのないものだった。
「これです?プレゼントしてくれたんです。良いでしょう。」
そう言って、友人はアクセサリを俺に見せつけるように腕を近づけた。
俺にとって彼は大切な友人だった。
これは旧い記憶。幾重にも縛られた鎖の先に、厳重に閉められた扉の先に。その記憶は蠢いている。
そのアクセサリは、青い薔薇をデザインしたカフスボタンだった。
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───誰よりも、おかしさに気がついたのは、"ソレ"に一番近くにいた羅刹であった。
猛に炸裂拳の一撃を決めた羅刹は、トドメを刺すために猛のもとへと向かおうとした。だが突如、前方に転がり身を翻し振り向き身構える。
獣がいる───。
羅刹は直感した。視界の先に獣がいる。比喩表現ではなく、直喩であった。獣とは犬猫の類ではない。もっと別のナニカ。不気味な存在。理解不能な超越者の気配を感じた。羅刹の全神経が前方の闇へと集中する。闇にナニカが潜んでいる。蠢いている。闇そのものがまるで生き物のように不気味に畝り脈打っている。
パキン、パキン……。
ガラスが割れる音がする。今までの戦いで散乱したガラスの破片を、"ソレ"は踏み潰して歩いているのだ。隠れる気配をまるで感じさせなかった。堂々と、まるでこの空間の支配者のように闇から姿を現した。
その姿を視認した瞬間、羅刹の気が緩む。知った顔だったからだ。
「蒼月……天理。」
同時に羅刹は混乱した。気が緩む?なぜだ。自分はこの男に恐怖していたのか。
先ほどとはまるで違う気配。油断は微塵もしない。だが柳に幽霊とはよく言ったものか。極限状態である羅刹は、必要以上に警戒してしまったのだと、自分の臆病さを失笑した。
「羅刹ッ!!今すぐ逃げるのですッ!!その男は天───」
プツン。
突如、フロアに響き渡る青木の怒声。しかしその怒声は何故か途中で切れる。
羅刹にとってそれは初めてのことだった。本気で焦っているような態度。青木にも人間らしさがあるのだなと、意外さを感じさせた。一体何をそんなに焦っているのか───
「なに───?」
気がつくと目の前に蒼月天理が立っていた。
左手には何かを持っている。バッグだった。咄嗟に身構える。今度はどんな玩具で小手先を繰り出すのか。いかなる小細工も受け止める覚悟を決めていた。
音がした。
その瞬間、空気が破裂するような音が響いたのだ。音速の壁を突破したかのような衝撃波が周囲に広がり、大気は震えた。
羅刹はくの字に身体を折り曲げる。初めての感覚だった。まるでライフル弾を受けたような感覚。胃液は逆流し、口の中が酸っぱい感覚で満たされる。
「……はッ!!?」
悶える暇もなく暗転。被せられたのだ。天理は手に持った空のバッグを羅刹の頭部に被せ、視界を奪った。
そして、そのバッグごと更に一撃。破裂音。パァン!という音が響き渡り、羅刹の頭部を揺らす。
───何が起きている。
羅刹は困惑していた。今までの天理の戦い方とあまりにもかけ離れているからだ。この戦い方はどちらかというと"こちら側"に近い。身近なもの、何でも利用して敵を倒す喧嘩殺法に近い。加えて異次元の打撃。その一撃は重く、鋭く、響き渡る。即ち、純粋な暴力。
羅刹は奪われた視界の中で、マキアストライクを拳が放たれる方向へと向けた。直感的に予測する。炸裂拳の発動。幾重にも重ねた戦いにより培った彼の戦闘センスは、視界を一時的に奪った程度では止められない。
だが、その技はもう見せてしまった。天理は既に知っている。その一撃を。炸裂拳の軌道は拳前方。故に素早く回り込む。そして横蹴りを放った。ガードもままならない状態で、羅刹の脇腹に閃光のような軌道を描き三日月蹴りが叩き込まれる。メキメキと羅刹の肉体が軋む。車に轢かれたような衝撃に、思わず羅刹は呻いた。
───まただ。武の欠片も感じさせない乱暴な蹴り。だというのに……ッ!
体格と打撃の重さが一致しない。筋力と体格は比例する。蒼月天理の体格では、どう足掻いても羅刹の肉体に有効打を与えることなどできない。だがしかし現実として、天理の拳は羅刹の肉の鎧を穿ち、蹴りは骨を響かせる。
先程の猛との戦いとはまるで違う。この感覚は、同じ階級のヘヴィ級格闘家を相手にするのと同じ感覚だ。体重100キロを超える相手との戦いと。ありえないというのに、現実として起きている。
理解のできない出来事が起きている。
目の前の男は、本当に蒼月天理なのか?自分が見たものは幻、幻覚の類で、バッグ越しにいる男は、別の存在と入れ替わっているのではないか。
ありえない妄想が、羅刹の頭の中で木霊する───。





