プロメテウス
───時間は少し遡る。蒼月天理は羅刹のマキアストライクにより、吹き飛ばされ半死半生だった。
まるで泥に浸かっているかのようだった。深く深く、沈んでいく感覚。
その先に、見える。消えた記憶。忌むべき記憶。
「人類の進歩は目まぐるしいものがあります。例えばAIです。十数年前まではこの漫画一冊、全て人力で作ってたようです。今はAIに作らせたものを人の手で仕上げるだけだというのに。」
「懐かしい……今思えば凄い時代だった。当時の人たちを尊敬するよ。」
「技術の進歩は常識を変えて、ファンタジーだと思っていたものが現実となります。AI以前だとインターネットなんてそうですね。想像できますか?インターネットの無い世界。」
「無理だね。というかどうやって外に出るんだ?今やネット認証のものが山程あるのに。」
「ですがね、インターネットもAIも素晴らしい技術ですが、かつての産業革命のような進化はありませんでした。ハーバーボッシュのような人類史を変えることもなかったのです。人類は新しい次元に向かうべきなんですよ。ファンタジーを現実にする、革新的な進化を。インターネットもAIも、始まりなのです。言うならばこれから燃え盛る大火の着火剤。」
「ネットやAIよりも?なんだろう。」
「それがBMIです。今、量子コンピュータが身近になりました。AIの進歩でディープラーニングは加速度的に進みました。人類の解析演算速度は飛躍的に上がったんです。仮想現実でも夢物語でもない。新たな人類史の始まりです。天理くん、あなたは人に叡智を授けたプロメテウスになるのです。」
誰かとの会話だった。
最近、記憶が混乱している。記憶喪失というのは時間の経過で少しずつ回復に向かうと聞いたことがある。これはその前触れなのだろうか。
ただ、そんな感傷に浸っている暇はない。
身体は全身悲鳴をあげていた。きしむ身体を無理やり動かし立ち上がる。脳が動くことを拒否している。だが関係なかった。ここで動かなければ、ただ死を待つのみ。許されなかった。そんなことは断じて許されなかった。
エレベーターの扉が閉まる直前、妻がいた。俺の名を呼んだ。生きて帰らなくてはならないのだ。今まで俺は、妻には未来の記憶などないと勝手に思い込んでいた。だが、その前提が間違っているのならば、全てが変わる。何もかもが変わる。
言うならばこれは愛のため。かつて確かにあった愛のために、俺は体中が悲鳴をあげようとも、立たなくてはならないのだ。妻への愛の証明なのだ。今、この全て、この瞬間のために、俺はその命を振り絞る。
雄叫びが聞こえる。羅刹の声だ。誰かが戦っている。ミカだろうか……それとも、猛?
早く助けに行かなくてはならない、そう思い無理やり身体を動かすが、今の自分では足手まとい。せめて手助けになるようなものはないかと、周囲を見渡すと……あった。
そのバッグは漆黒のワッペンが貼られていた。黒いワッペンが貼られていたバッグにはタライが入っていたが、このバッグは更に黒い。まるで、そこだけ穴が開いていると錯覚するほど黒い黒いワッペンだった。
何でもいい。何か道具があれば、それを応用して助けになるはずだと、バッグを拾い無造作に開ける。中には……よくわからない装置が入っていた。今までは身近な持ち物や明らかに武器になるようなものが入っていただけに、正体不明のものを見つけ、少し戸惑う。
その僅かな瞬間だった。「プシュー」と音がした。
「!?……しまっ!!」
ガスだ。それも物凄い勢いだった。あっという間に顔を覆う。罠だった。バッグの中には大ハズレもあると、想定すべきだった。息を止めるがもう遅い。毒ガスは呼吸系だけではなく、目、鼻などの粘膜や皮膚からも吸着するものがある。今回はそのタイプだった。確実に、機能させるもの。
「……なに?」
青木はモニター越しに疑問符を浮かべた。
あんなものを設置した覚えがない。毒ガス兵器……。あれは催眠剤の類だ。ベラドンナをベースにしたもので、対象の意識を朦朧とさせ、正常な意識を奪うもの。ただ見た感じその調合には少し複雑さを感じた。意識を奪うというより、大脳皮質を部分的に刺激し、思考を単純化……要するに理性のみを一時的に取っ払うようなもの。さながら狂化薬と言うべきか。
ともかくそんな毒ガスが仕掛けられていた。だが青木にはまるで覚えがない。そんなものを設置しても面白くもないからだ。理性を失った相手に何のエンタメが生まれるのか。ただ錯乱し、羅刹の良い獲物になるだけだ。
何かがおかしい。このデスゲームには自分の知らない何かが介入している。
モニター越しに見える天理は蹲る。毒ガスが効いてきたのだろう。初期症状だ。強いめまいで立つのもままならなくなる。ただそれも最初だけ。しばらく経つと、彼は一時的に錯乱する。
望ましくない終わり方だった。なぜそんなものがあるのか青木は疑問に感じたが、済んだものは仕方ない。モニターを羅刹と猛が対峙している方に切り替えた。
その選択は、青木にとっての分水嶺だった。異常事態を察し配信を中止して羅刹の加勢に向かうべきだった。しかし青木は動けない。彼の"本当の"目的達成のためならば、ある程度の違和感は無視せざるをえないからだ。
故に気が付かなかった。蒼月天理に起きている異変に───。
※不穏な話ですが、本作は夢オチや仮想世界オチではありません。





