堕ちた英雄
日は既に暮れていて、港では波が打ち付けられる音だけが響き渡る。渋木は一人、港に来ていた。人が良いといえば聞こえは良いが、愚かな行為であった。今も彼は信じている。マスコミに現状を伝えれば、きっと変わると。
人影が見えた。待ち合わせの相手だ。
「あ、広塚さん!すいません遅くなって……。」
広塚と呼ばれた男は渋木と連絡をとりあっていた大手マスコミの記者だった。広塚は周囲を見渡す。
「約束通り一人で来たんですね。」
「は、はい……そうでないと広塚さんも難しいと仰ってましたから……。」
「それで……例のデータは?」
渋木は広塚に促され慌てた様子でカバンから何かを取り出す。USBメモリだった。
「バックアップはとってます?」
「いえ!広塚さんの言うとおりこれだけにしました。」
その言葉が合図となったかのように、奥からぞろぞろと人が出てきた。屈強な男性たち。渋木は困惑していた。
「マジかよ、この爺、本気でお前の指示に全部従ったのか?」
「馬鹿でむしろ良かったというべきかなここは……。」
男たちは広塚と親しげに話していた。約束が違ったことに渋木は困惑していた。
「ひ、広塚さんこれは……?」
渋木は尋ねる。だが答えはない。代わりに男たちの一人が渋木に近寄り……その腹部に拳を叩き込んだ。枯れ木のように細い渋木は嗚咽し倒れ込む。そして咳き込んだ。
「爺、あんま舐めたことしてんじゃねぇよ。頭お花畑には社会の厳しさ教えねぇとなぁ?」
そのまま倒れた渋木に対して男たちは蹴飛ばす。リンチだった。制裁なのだ。これは六道会に歯向かう愚かな老人への。渋木はただ「広塚さんどうして、どうして」とうめき声をあげながら、すがるように広塚を見ることしかできなかった。
「渋じぃ!!」
そんなリンチがしばらく続いてのことだった。若い男の声が響き渡る。猛と毒島がやってきたのだ。
猛はボロボロになり床に転がる渋木を見つけた。急いで駆け寄る。
「た、猛か……わしは馬鹿だった……正しいことはきっと認められると思ったのに……こんな、こんな……ごめんな、ごめんなぁ……。」
渋木はしわだらけの顔をよりしわくちゃにして涙を流し猛に謝る。もうとうに涙腺など枯れているような老人が、ただひたすら無念に涙を流していたのだ。
「坊主、その爺の知り合いか?だったらとっとと連れて帰りな。今日はその辺で許してやるが……次は骨の二、三本は覚悟しろよ?まぁ……今更老い先短い爺の骨なんか何本も折れたって関係ねぇか?」
男たちは嘲笑い出す。
この世界は理不尽だ。俺たちは身寄りのない子供だった。それでもこうして居場所を与えてくれた大人がいる。だが同時に何もかもを平気で奪ってくる悪徳悪辣さに満ちた大人もいるということ。
───ああ、答えは出た。
自分が何をするべきか。警察も報道機関も行政も頼れない。ならばもうやることは一つ。
「猛……?どうした?」
毒島は猛のそんな様子を見て尋ねる。猛は静かに答えた。
「ごめんな毒島。僕は悪に堕ちる。他でもない、家族のために───。」
立ち上がり正中線を捉え構える。武術の構えだった。日本古武術。それが猛が学んできた格闘技術の一つ。今もヘラヘラと笑う男たちに向けて、その指先が放たれた。
「───アァ!!ッッッァ!!な、なにを……てめぇ!!俺の……俺の……!!」
男に激痛が走る。一瞬の出来事だった。片目を抑え猛をにらみつける。その手には……目玉が握られていた。えぐり取ったのだ。一瞬にして。そして猛は男の言葉に意も介さず、その目玉を握り潰した。
男たちは怒り狂った。あるものは警棒を、あるものはナイフを取り出す。
「てめぇ分かってんのか!!?俺たちは六道会、羅刹組の直属部隊、告死天使だぞ!?ぶっ殺されてぇのか!?」
「知らねぇよ、ただヤクザなら全員その目玉をえぐりとらねぇとな。俺の顔を知ってしまったんだから。」
告死天使とは、六道会、六道衆の一人、羅刹波旬が編成した実行部隊である。構成員の中でも腕利きを集め、外国傭兵部隊に送り込み特殊訓練を受けさせた実戦のエキスパート。その実力は特殊部隊にも比肩する。武闘派である羅刹波旬は、彼らを使いシノギを広げていた。豊奉神社の一件のおかげもあり、無茶なシノギも繰り返していたのだ。
近接武器は外国傭兵部隊仕込み。その実力はSWAT(米国特殊部隊)隊員にも匹敵する。それが数名。
誰もが目に見えた戦いの筈だった。唯一人を除いて。
「ひ、ひぃぃぃ……助けて……助けて……!!」
まるで赤子のような扱いだった。まるで赤子のように彼らは地面に這いつくばっていた。
毒島はまるで理解できなかった。四方八方から襲いかかる攻撃が、まるですり抜けるかのように、猛の身体をかすりもしない。それどころか、彼らが攻撃を仕掛けるたびに何故か仕掛けた側が一人、また一人と倒れていく。全員が目元を抑えながら。
一つだけ分かるのは、猛は彼らの攻撃に合わせてその全てに的確にカウンターを仕掛けていること。だがそれがあまりにも自然すぎて、勝手に倒れているように見えるのだ。
日本古武術とは戦場格闘技。現代で言う禁じ手がほとんどを占めている。目潰し金的……命に関わる技が当たり前のように体系化しているのだ。
猛が彼らに施した技は目抜き。目打ちの要領で眼球付近を狙い打ち、眼球を抜き取り、引きちぎる。容赦ない殺人技の一つである。男たちは痛みに堪え転がっていた。彼らの目には全員光がない。
更に転がる男たちに向けて猛は頭部を破壊するかのように踏みつけ地面へと叩きつける。カコン!という音がして男たちの意識は消失した。
そんな様子を毒島は唖然とした様子で見ていた。
「これでこいつらは今日のことを忘れるはずだ。目玉も抜いた。思い出すことはない。六道会には僕たちが今日ここに来たことは伝わらない。」
「た、猛……お前、これからどうするんだよ……。」
毒島はそんな猛に対して恐る恐る声をかけた。
「嫌がらせは終わらない。なら関係者を片っ端から襲撃する。大丈夫。絶対バレないようにする。学校じゃ弱い、いじめられっこの振りでもするさ。皆には迷惑はかけない。」
猛のその返答に毒島は少しビクついた。怖かったのだ。屈強な男たちを一人でここまで破壊し尽くした猛が、まるで別人のようで。その手には血が滴っていた。男たちの返り血だ。
そんな様子を猛も理解したのか、毒島と距離をとる。
「みんなにはアルバイトをするから帰れないって言ってくれ。じゃあな毒島、それに渋じぃ……俺さ、あの家が、家族が本当に……大好きだったよ。」
そう言って、悲しげな笑顔を浮かべて、猛は闇夜に走り去っていった。
その瞬間、毒島は酷い後悔に見舞われた。そうだ、猛は自分たちのために悪者になろうとしているのだと。
「待ってくれ!!」
毒島は叫んだ。だが猛はもう戻ってこない。闇夜に消えて、ただ静かに……波の音だけが響き渡るだけだった。
───無法には無法で迎え撃つしかなかった。
豊奉神社の一件により治外法権と化していた六道会はその暴力を以て違法行為ギリギリの手段であらゆるシノギに手を出していた。何の後ろ盾もない「みんなの家」は食い物にされるしかなく、彼らの声に耳を傾ける者はいなかった。
故に猛は、闇討ちを始めたのだ。六道会の中でも「みんなの家」をシノギにかけようとする者たちを。そしてメッセージを残した。『エデンの裁き』と。犠牲者は連日のように出た。あるものは歯を全て折られ、あるものは鼻を引きちぎられ、あるものは全身の骨を折られていた。まるで見せしめのように。
警察は動けなかった。明らかな暴力事件ではあるというのに、動いてしまうと「みんなの家」で行われている六道会の行為も明るみに出るからだ。
いつの間にか六道会では猛のことをこう呼んだ。「エデンの処刑人」と。名もなき陽炎のような処刑人。闇の狩人。その力は、六道衆にも匹敵する最悪の敵───。





