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プロローグ

 警察の取り調べが終わった頃には食事は冷めきっていた。一人箸を口に運ぶ。炊かれたご飯は艶やかさを失い少し固く、肉料理は脂が固まっていて少し白みがかり、不愉快な食感。ただそれでも自然と箸は進んだ。冷めきった料理だが噛みしめる度に胸の奥が熱く感じる、温かな料理だった。頬を伝う一滴。今もそこに彼女がいるような気がした。ただ俺は、この時間を忘れまいと最後の一時を噛みしめる。これが彼女との最後の思い出になるのだから───。


 「蒼月あおつき、お前はクビだ。」


 それは突然の宣告だった。書類の束を乱暴に投げつけて部屋に書類が散乱する。書類の束を俺にぶつけた男の名は福富白禄ふくとみしろく。俺の雇用主で昔なじみでもある。彼とのいい思い出はない。

 ため息をつきながら書類を拾う。


 蒼月天理あおつきてんりは行政書士だった。

 行政書士の仕事は士業という華やかさを感じさせる職業でありながら、やることは地味な仕事が多い。

 必死に勉強し大学を卒業して得た資格だが、法律関係事務所には就職できず、企業の下で働いている。だがその企業は酷かった。毎日のように無数の書類作成、整理を任され、時には顧問弁護士の下っ端のように扱われる日々。今の待遇は紛れもなく劣悪だった。

 ほとんど眠れていない中、パソコンの前でキーボードを打ち込みながら書類を作成。更に山のような資料に目を通して間違いがないかの確認。それが日常だった。


 「これは……なんですか?監査資料?……い、いや何だこれ!?」


 酷いものだった。実態に伴っていない報告、誤った虚偽の申告……それだけならかわいいものだが、この書類は単に誤ったものではなく、企業運営に有利に働くものとして作成されていた。

 つまるところ意図的に作成されたであろう偽造文書だ。その数は数え切れないほどだった。


 「とぼけるなよ。お前がしたことだ。ほら見ろ、うちの稟議書にもお前のハンコが押されている。」


 福富が見せた行政文書を通すための稟議書には確かに天理の実印が押されていた。だがそんなものは、雇用主である福富ならいくらでも偽造できる。

 魂胆を理解した。嵌められようとしているのだ。作成された不正文書の責任を被せようとしているのだ。俺の知らぬところで、このような書類を作成し、発覚が秒読みとなったところで全てを俺に擦り付ける気なのだ。


 「先生は!?九条先生は何も言わないのか、こんなこと……こんなこと許されて良いはずがない!」

 「九条先生はうちの顧問弁護士だぞ?当然知っているに決まってるじゃないか。その上でだよ。」


 その言動、表情から全てを察した。既に仕込みは済んでいた。何もかもが手遅れな状況。


 「う、裏切るのか……?俺たちは昔なじみじゃないか!?」


 福富に掴みかかろうと前に出たが、屈強な男に遮られる。武颯猛ぶそうたける。元空手男子最重量級金メダリストで福富のボディガードだ。


 「法曹に生きるものが暴力とは怖い怖い。しかし昔なじみだと?だからこうして俺は声をかけたんじゃないか。本当なら警察に突き出していたところを、こうして追及し、自首を促しているんだ。これが優しさと言わずしてなにを言う?」


 詭弁だった。警察に突き出すのは、福富自身に後ろめたいことがあるから目立ちたくないだけだ。実行犯の自首が一番スマートに終わる。何より……福富自身、地元の有力者で警察とのコネもある。自然に、警察の威信を保ちつつ、両者にダメージのないやり方が、これだ。人身供養、生贄。


 「なので寛大な俺はお前に最後の仕事を与えよう。この不正文書を全て整理して警察に出頭しろ。何も死ぬわけじゃあない。初犯だろう?大した罪にはならないさ。」


 いくつものダンボールが俺のデスクに積まれていく。中身は……過去十年近い文書……。


 「断ったら……今すぐお前は豚箱行きだ。分かるな?」


 俺に選択肢はなかった。

 幽鬼のように無数の書類を一つずつ確認し、仕分けする。完全な偽造文書だった。どれも俺の仕業になっている。

 会社での俺は針のむしろだった。既に噂として広がっていて、俺は社会的に許されない行為をしたがお情けで会社に居座らせてもらっているという話になっているようだった。後ろ指をさされ、噂話に嘲笑、露骨な無視……誰一人俺を信じようとするものはいなかった。

 息抜きに自販機でコーヒーを買おうとしたとき、携帯で福富が誰かと話しているのが聞こえた。通話先は九条だと容易に想像がついた。これで一安心───だと福富は喜々として話していた。

 俺と奴の間に信頼など一欠片もなかった。


 ───朝日が昇りそうな時間だった。福富に仕事を押し付けられて一週間近く経った。始発の電車まで待つのも惜しく、会社から徒歩で帰路を征く。会社に泊まれば良いのだが今日は(正確には昨日だが)妻の誕生日だ。

 ダンボール数箱分の仕事もようやく底が見えてきて、妻の記念日には何とか間に合った。店はどこも閉まっているのでコンビニでケーキを買おう。プレゼントはすでに用意してある。ろくに家に帰れない俺を文句も言わず支えてくれた。そんな彼女に報いなくてはならない。せめて彼女の記念日だけは大切にしたい。


 だから今日は、なんとしても家に帰らなくてはならない。

 フラフラとした足取りで馴染みのある廊下を進む。社内は既に真っ暗で明かりもついていない。視野は狭く何かぼやけて見えるが歩けないことはない。

 賃貸マンション。それが俺たちの自宅だった。家賃はそれほど高くなく、近くにはスーパーやコンビニもある。勤務先から多少遠いが、それでも妻と暮らすには申し分ない立地だった。エレベーターに乗って自室へと向かう。


 「っと……すいません。」

 「いえ……こちらこそ。お仕事お疲れ様です。今夜は……月が綺麗ですね。」


 エレベーターを降りて廊下を歩いている途中、人とすれ違う。こんな時間帯に珍しい。長く住んでいるが、紳士的な態度ではあるものの見知らぬ男性だった。袖には今どき珍しく青薔薇をデザインとしたカフスボタンが留められている。誰かの友人だろうか。不思議に思いながらも部屋の前までやってきた。鍵を取り出しドアノブに挿す。


 「あれ?鍵が開いてる?」


 ドアノブをまわして部屋に入る。明かりが点いていた。彼女は待ってくれていたのだ、こんな遅くなっても、大切な日を忘れないで。鞄の中からプレゼントを取り出す。ネックレスだ。一年かけてこっそり貯めたお金で彼女のために見繕ったもの。


 「本当にごめん、でもとびきりのものを用意したんだ。きっと君に似合うと思っ……て……。」


 言葉を失った。手に持ったプレゼントとコンビニで買ったケーキを落とす。リビングにはご馳走が並んでいた。俺の好物ばかりだった。小さな手作りのケーキが中央にあって、そこには手書きで『お仕事お疲れ様。』という文字が書かれていた。

 彼女は椅子の上に座っていた。その胸にはナイフが突き刺さり、真紅に染まっていた。彼女の目は虚ろで、光はなかった。いつも向けられていた笑顔を見ることはもう二度と叶わない。


 ───警察の捜査は素早く、事件発生からすぐに犯人は逮捕された。妻の仇がどんな奴なのかテレビを前に俺は固唾をのみ見守っていた。

 犯人は女性。年齢は自分よりも一つ上。名前を霧崎音月きりさきるうんという。薬物中毒者であり、妻との直接の面識はなく突発的な犯行だという。犯行後、ずっとマンション用務員用のトイレに籠もっていたらしく、薬の禁断症状で暴れないように自分で自分をトイレに縛り付けていたところを発見、通報され、逮捕に繋がったらしい。


 「───犯人は動画配信サイトでルナルナという名前で配信をしていた過去もあり家に引きこもりがちで───。」


 テレビキャスターはその後、犯人の生活環境などを語りだし現代社会の闇だのと話していた。俺はテレビを切った。メディアが面白おかしく勝手に犯人の背景や事件の考察など……どうでも良かったからだ。恨みや憎しみがないかといえば嘘ではない。だが、それをぶつけてどうなるというのだ。妻の笑顔はもう二度と見れないというのに。

 呆気ない幕切れだった。でもそんなものなのかもしれない。振り返るとそこには今も妻がいるような気がした。でも、もういない。犯人は捕まり事件は終わった。後は俺の……気持ちの問題だ。

 ピーンポーンとインターホンがなった。珍しいことでもない。事件後、たくさんの人がやってきた。妻の親族や友人……彼女は決して恨みを買うような女性ではなかったというのが救いだった。俺は玄関口に向かう。


 「どちら様でしょうか。」

 「初めまして、この度は心中お察しします……大切な家内を失い……あぁ……なぜこのような悲劇が起きたのでしょうか。」


 見覚えのある男だった。男の目は深い深い海の底のように昏く、そして全てを見通しているかのような目だった。例えるなら菩薩と対峙したような感覚。だからだろうか、初対面なのに俺は男を信用し、どこで出会ったか……妻の知人だろうかと思い、玄関の戸を開けた。


 「すいません、わざわざ妻のため……に……え?」


 開けた瞬間、腹部に冷たい感覚がした。見てみると刃物が刺さっていて、血が滲んでいる。そしてその刃物が握られている手元、袖には青薔薇のカフスボタンが。


 「苦しいでしょう。痛いでしょう。本当にすいません。ですが仕方ないのです。貴方は男性ですから……下手な抵抗をされて万が一というのがありますから。」


 思い出した。この男は、あの日、あの時間、廊下ですれ違った男だ。青薔薇の男。


 「おま……お前が妻を……!」

 「あ、それは心臓を一突きしたので大丈夫です。苦しまずに逝きました。本当に良かった。」


 男は心底安堵した表情を浮かべていた。そして淀みなく、俺の腹部に刺さったナイフを抜いて、俺の胸に突き刺した。激痛が走る。


 「謝罪をしたいのです。あの日、彼女を刺した後にお腹が空きまして。丁度テーブルに食事が用意されていたのでご馳走になりました。ですが全部食べてしまった後に気が付きました。これはひょっとして他に食べる人がいるのではないかと……至急食事を手配しました。ケーキには私自らメッセージを描きました。お気に召したでしょうか……?」


 あの日、妻は俺の帰りを待っていた。俺のために特別な食事を用意して。深夜遅くまで、ずっと、ずっと一人で!そんな彼女の思いさえもこの男は……!

 俺は男の肩を掴んだ、震える手で、それでも決して離すまいと、全力で。拳を握りしめて男を殴りつける。予想外の出来事だったのか男はふらついた足取りを見せた。


 「心臓を刺されているんですよ……?なぜそのような無理を、やめてください!苦しいのでしょう?つらいのでしょう?そんなことをしては駄目だ。命を縮めるようなものです。もっと、自分を大切にしてください。」

 「ふざ……ける……な……!殺す……!殺してやる……!!」


 男は俺の胸に突き刺さったナイフを掴み、抜き取った。血潮が噴水のように吹き上がる。そのまま力失い俺は地面に倒れた。


 「こ、殺すとは恐ろしい……。ですが良かった。もう動けないようで。ありがとうございます。そうだ、伝えてなかった。ご飯はとても美味しかったですよ。」

 

 男は立ち去る。俺は血まみれの床に倒れ込んだ。喉から血が噴き出す。息が苦しい。妻の顔が浮かぶ。あの日、あの夜、あの青薔薇の男に殺された妻。俺は復讐を誓った。

 でも、捕まった女性は犯人ではなかった。本当の犯人は別にいる。それを知ったとき、俺はもう手遅れだった。警察に伝えなければならない。でも、もう力が残っていない。意識が遠のく中、俺の心にはただ奴への憎しみだけが満ちていた。

 意識が暗黒に染まっていく。消えていく、溶けていく。これが死というものだろうか。

 誰かの声が聴こえる。何かを話している。俺は微睡みの中、上下左右の感覚も失ったような気分に囚われる。机に突っ伏して寝ている状態から、強い痙攣を起こしガタン!と机が音を立てて反射的に起きあがる。見渡すとそこは学校の教室だった。


 「蒼月あおつき、顔でも洗ってくるか?」


 目が覚めた時、俺は高校生に戻っていた。

 教師の指摘にクスクスと笑い声がする。授業中のようで教師の白けた視線が向いていた。

 これは夢だろう。前触れもなく突然タイムスリップするなど聞いたことがない。つまらない授業がひたすら耳をすり抜けて、まどろみのような時間が過ぎる。空気のような学生時代だった。いてもいなくても変わらない、そんな存在。色のない青春。休憩、授業、昼食……。いつまでも終わらない夢の中。いいや、いくらなんでも馬鹿ではない。いつまでも目が覚めないどころか意識はクリアになっていく。夢とは思えない感覚。

 これは夢ではないと自覚し始める。


 「俺にチャンスを与えてくれるってことか。」


 未来の知識を持ちながら過去の自分として生きる。これは天啓だ。亡き妻の仇、青薔薇の男への復讐。俺の大切な存在を奪い、侮辱した悪魔への。迷うことはなかった。この過去の世界で、俺は全てをやり直す。全てを変える。そして報いを与える。例えそれが、どんな汚い手であっても、悪道に堕ちようとも、未来のために。


 ───それは一人の復讐者が生まれた瞬間であった。望みは理不尽な不幸を、未来を変えるのではない。蒼月天理が望むのは報いであった。悪辣な殺人鬼の正体を掴み、絶望を与える。ただそれだけが、彼の心には占められていた。

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