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あやかし隠し  作者: ISTORIA
第一話 初夏の肝試し
4/8

初夏の肝試し:下



 信田美琴には秘密がある。


 一つ、本当の姿を(いつわ)っていること。

 一つ、本性は人間ではなく人外であること。

 一つ、千年以上も続く人外の一族の姫であること。


 千年以上も昔、平安時代に存在した有名な大陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)は「狐の子」で知られていた。それは母親が稲荷大明神の第一の神の使いであるからだ。

 伝説の狐、葛の葉。人形浄瑠璃や歌舞伎でも取り上げられるほど有名である。

「信太妻」とも呼ばれるのは、彼女を狩人から救った安倍晴明の父・安倍保名(やすな)との出会いの地といわれる〝信太の森〟が由来だった。

 つまるところ信田美琴は、葛の葉の子孫にあたる稲荷狐の末裔(まつえい)、その長の姫であった。




「はぁ~……」


 オカルト研究部の部室、家庭科準備室。

 美琴は誰よりも先に到着し、定位置の席で突っ伏す。

 人外であることもあって体力に自信はある。昨夜の夜更かしも普段なら平気だった。

 しかし、オカルト研究部の部長・副部長の行動力を甘く見ていた。彼らに振り回された気疲れがなかなか抜けてくれない。


「まさか……こんなに大変な部活だったなんて……」


 実のところ、オカルト研究部は廃部一歩手前だった。去年の三年生が卒業したこともあり、既定の人数が足りなかったのだ。

 榊原と五十嵐は活動を存続(そんぞく)させたくて、おどろおどろしいプラカードまで作って新入生に売り込んでいた。そのプラカードが原因で入部希望者が遠退いたのは、幸か不幸か本人達は知る(よし)もない。


 入学したての美琴は、危険な香りがするオカルト研究部を無視できなかった。実際、その時から榊原と五十嵐には神社でお(はら)いをしなければならないほどの霊障(れいしょう)が纏わりついていた。

 このままでは危ないと思い至り、お人好しな性分から入部してしまったのだ。


(廃部寸前なら入らなきゃよかった)


 後悔しても後の祭。今年いっぱいだけ振り回される覚悟を決めなければ。

 もう一度溜息を吐いて時計を見やり、瞼を閉じる。

 脳裏に浮かんだのは、昨夜の不思議な出会い。


「……誰だったんだろう、あの人」


 遠く離れたところから、真言で妖怪を祓った。通常、目に視える状態でなければ、妖怪退治の術は向けられないというのに。


(妖怪退治ができるだけじゃない。私が白狐の姫だって知っていた)


 まさに神業といえる手腕と去り際の言葉で、ただ者ではないと理解した。

 得体の知れない人間は、おそらく――


(――陰陽師。明治時代に(すた)れたはずなのに、まだ残っているのよね)


 平安時代では、陰陽寮(おんみょうりょう)という役所があった。


 政治に関わることもある陰陽寮に所属する官吏――陰陽師。

 天文(てんもん)を読み、吉凶禍福(きっきょうかふく)を占い、(こよみ)を作り、魑魅魍魎(ちみもうりょう)を退治する。時には神霊に関わり、雨乞(あまご)いや五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る祭事も執り行った。


 妖怪退治の能力を持つ陰陽師は、安倍晴明を筆頭に、彼の師・賀茂忠行(かものただゆき)、兄弟子・賀茂保憲(やすのり)()げられる。

 幾度(いくど)の転換期を経て、賀茂氏と安倍氏は『土御門(つちみかど)』に統合され、次第に安倍氏族が土御門一族を牛耳(ぎゅうじ)る。


 そして明治初期、最後の陰陽頭(おんみょうのかみ)・土御門晴雄(はるお)の死をきっかけに陰陽寮は解体された。

 現代では様々な娯楽(ごらく)の作品に登場する程度となった存在だが、今もなお存在している。


(でも、彼って土御門の陰陽師なの? 彼らは私のような存在を保護と言いながら捕まえて従わせようとするし、妖怪も無差別に祓う(ころす)


 現代の土御門の陰陽師一族は傲慢だと知っているからこそ、違和感が残る。


(なのに彼、竹林にいる妖怪達を祓っ(ころし)てない。それにみんな大人しかった)


 美琴達を観察するために竹林に潜んでいた妖怪はたくさんいた。下手をすれば敵と認識されて襲われてもおかしくないのに、彼らは大人しく傍観(ぼうかん)(てっ)していた。


 美琴が認識する陰陽師とは(こと)なる陰陽師。

 陰陽師自体、関わるのは危険だと頭では分かっている。


 だが、それでも――


(知りたい。彼が何者なのか)


 どうして助けてくれたのか。

 どうして正体を知っているのか。

 どうして「頑張ったな」と言ってくれたのか。


(どうして、あんな眼をしたのか)


 最後に見せた(さび)しげな眼差しは、どんな意味があったのか。

 会って聞きたいことがたくさんある。

 けれど、どうやったら会えるのかが分からない。


「お礼、できないのかな……」

「誰に?」

「ひゃ⁉」


 突如聞こえた声に飛び起きる。

 勢いよく入口へ目を向ければ、榊原と五十嵐が不思議そうな顔で美琴を見つめていた。


「い、いつから……?」

「今しがた。で、誰にお礼がしたいの?」


 興味津々で尋ねる榊原。


 全てを赤裸々(せきらら)に話すことはできない。だが、事実を多少捏造(ねつぞう)すれば通じるはずだ。嘘はいけないと分かっているが、嘘も方便(ほうべん)という言葉もある。何より大体が事実なのだから、決して悪いことではないはずだ。


 迷った末に自己解決し、頭の中で構成した〝話〟を語る。


「実は……この前、変なヒトに襲われかけて。それを助けてくれた人がいるんです」

「……襲われかけた?」


 魑魅(変なヒト)に襲われかけて、助けてくれた陰陽師(人)がいる。


 大半が事実なのだが、年頃の乙女が言うには少々問題を呼ぶ発言であった。


「何もなかったのか? 警察は?」

「え? 警察?」


 どうして警察が出てくるのか。疑問符を浮かべて復唱すると、問いかけた五十嵐の表情が(けわ)しくなる。


「あ、あの……?」

「美琴ちゃん、襲われかけたってどういう状況だったのか話せる?」


 榊原に怖いくらい真剣な顔で尋ねられ、誤解(ごかい)を生んだのではと気付いた美琴は眉を下げる。


「……えっと。ぶ、ぶつかっちゃって、お金を取られそうになって……」


 咄嗟(とっさ)に頭に浮かんだのは、典型的な〝慰謝料(いしゃりょう)を請求する当たり屋〟。

 嘘を吐くのは心苦しい。それでも何とか言い切ると、二人はほっと安堵した様子で顔から力を抜いた。


「それで、助けてくれた人っていうのは?」


 気を取り直して、榊原は質問した。ようやく本題に入れた美琴は答えた。


「第一印象は綺麗だけど冷たそうな男の人。黒髪黒目で、榊原先輩より背が高くて、だいたい五十嵐先輩と同じぐらいの年頃の……あれ?」


 思い出しながら昨夜に出会った少年の外見を挙げると、二人は微妙な顔で硬直。その表情から、何か心当たりがありそうな雰囲気を感じた。


「もしかして知ってる人でした?」

「知ってるというか……有名というか……身近にいるというか……」


 榊原は言葉を(にご)し、苦笑気味に五十嵐へ目を向ける。

 五十嵐は唖然とした顔で口を開いたまま固まってしまい、目が死んでいた。相当衝撃を受けたのだろうが、まるで死人のような形相(ぎょうそう)だ。


 乾いた笑みを漏らした榊原は、目を閉じて記憶の中から探す美琴を見る。


「身近にいる人……学校の生徒? 有名って、そんな人いましたか?」

「もしかして知らない? 貴公子で知られているんだけど」


 その人物につけられた異名を教えるが、美琴は「貴公子?」と首を(かし)げる。


 全校生徒に知られるほど有名な人物だというのに、本当に知らないのだと榊原は理解した。

 とはいえ、美琴は入学してまだ数週間。異性の(うわさ)にも興味がないなら無理がある。

 美琴に少なからず好意を抱いている五十嵐のために(だま)っている方がいいだろうが……。


「会ってみるかい?」


 榊原はにこやかに言った。

 今回の肝試しで、可愛い後輩を怖がらせたのだ。お()びも兼ねて紹介しよう。



     ◇  ◆  ◇  ◆



 安倍晴政は部活に所属していない帰宅部である。ただし、頼まれれば助っ人として参加することがある。

 主に運動系の部活動で活躍し、その度に部活の部員と顧問の先生から勧誘を受け、毎回断るのがいつもの流れ。


 今日はバスケットボール部で上級生の組と対戦し、最高得点を叩き出した。

 今回も勧誘を受けたが丁寧に断り、帰宅する準備を整えて体育館から退出する。


「あ、いたいた。おーい、安倍君。ちょっといいかい?」


 そんな時だった。オカルト研究部の部長・榊原と遭遇したのは。


「何か用ですか?」

「うちの可愛い後輩が、君にお礼がしたいって」


 可愛い後輩と聞き、思いつくのは一年生の少女。

 よく見れば、薄茶色の髪と可愛らしい顔立ちの少女・信田美琴がそこにいた。

 驚き顔で晴政を見つめている視線に、ドキリと心臓が跳ねた。


「……お礼?」

「君、カツアゲから美琴ちゃんを助けたんだって?」


 まさか昨夜の出来事を話したのかと思ったが、どうやらうまく隠したようだ。

 内心で安堵しつつ、晴政は美琴に目を向ける。


「別に大したことじゃない。礼なら言葉だけで充分だ」

「大したことです」


 会話すらできないと思っていた意中の子に感謝されたのだ。それだけでも嬉しかった。

 だから充分だと言ったのだが、美琴は眉を寄せて強く否定した。


「あの時、私だけではどうにもならなかった。安倍先輩が助けてくれたから、今の私があるんです。だから自分を誇ってください」


 美琴は握った両手を胸に当てて祈るように言った。

 真摯(しんし)に向けられた眼差しから強い思いを感じて、じわりと晴政は目を見開く。


(……誇っていい、か。初めて言われたな)


 これまで陰陽師としての能力を振るい、人を助けることがあった。だが、誇れるようなものではないと思っていた。

 両親も晴政が(ひそ)やかに活動していると知っている。しかし、褒められたことはない。

 そんな晴政の行いを、美琴は認めて感謝したのだ。

 昨夜のお礼の言葉で充分だと思っていたが、それ以上の言葉に胸の奥が熱くなる。


「そうか」


 心地よい熱と喜びが込み上げて、晴政は頬を緩める。

 冷たいすまし顔が、まるで雪を溶かす穏やかな日溜りの(ごと)し微笑へ変わった。

 温もりを感じさせる晴政の笑みを見て、美琴は頬を赤らめて見惚れた。


「……ぁ、えっと。お礼、ですけど……お菓子でもいいですか?」


 緊張気味に尋ねる美琴に、晴政は内心で驚く。


(白狐の姫、しかも好きな人の手作りお菓子……これは貴重だな)


 彼女の正体を知っているからこそ意外だと思うのだが、彼女の手作りの菓子を貰えるのだ。嬉しくないわけがない。


「もちろん。信田の菓子、楽しみにしている」


 心の底から喜んで期待する晴政に、美琴は頬の熱を感じて気恥ずかしくなった。


「は……はい。あ、洋菓子と和菓子、どちらが好きですか?」

「どっちも好きだから、信田の得意料理でいい」


 食事に好き嫌いはないが、菓子は和菓子の方が好みだ。それでも美琴の手料理なら得意なものを食べてみたかった。

 晴政の返答に美琴は安堵して、「期待しててくださいね」と笑った。




 ――翌日の昼休み。

 今日も静かな場所で昼食を取ろうとして、持参した弁当箱を片手に教室から出る。


「安倍先輩!」


 ちょうどその時だった。美琴が小走りで駆けつけたのは。


「信田?」

「あのっ、お礼を作ってきましたので……っ」


 てっきり数日後の放課後に渡されると思っていた晴政は驚く。

 鞄ごと持って急いで来たからか、軽く肩を上下に揺らして呼吸を乱していたのだ。

 頬を淡い赤に染めている表情に、つい心臓が高鳴ってしまう。


「昼食、一緒に食べるか?」


 気付けば昼食に誘っていた。流石に強引かと思ったが、美琴は目を丸くした次には嬉しそうに破顔(はがん)した。


「ぜひ!」


 満面の笑顔で美琴は受け入れた。

 とても喜んでいる様子を見て、晴政は「夢じゃないのか?」と疑ってしまう。

 浮き足立ちそうな気持ちを抱えて、お気に入りの穴場に向かった。


 春になれば桜、夏になれば緑化委員会が力を入れる花壇の花を観賞できる、陽射しが心地よい場所だ。昼休みになると人通りもほとんどないため、静かに過ごすにはうってつけだ。


 ちょうど晴政でも楽に座れる段差があり、そこに美琴と並んで座った。


「わ。安倍先輩のお弁当、美味しそうですね」


 彩を加えた健康的なおかず。特にライスボールはほぐした鮭を混ぜ込んでいる。

 魅力的な弁当に感嘆の吐息を漏らした美琴の視線に、晴政は(くすぐ)ったくなった。


「……一つ食べてみるか?」

「えっ! ……で、では、このお野菜を巻いたお肉でもいいですか?」

「アスパラの肉巻きか。白飯によく合う」


 弁当箱を向ければ、美琴は自分の弁当箱にアスパラの肉巻きを移す。じっと観察して、「いただきます」と呟いて齧る。途端、目を丸くして口元に手を当てた。

 静かに咀嚼(そしゃく)し、白米と合わせて食べると、さらに瞳が輝く。


「お、美味しいです! この醤油の甘辛い味付け……すごく好きです!」


 興奮した声とともに、美琴は晴政を見上げる。

 感動しているのだと分かる表情を見て、晴政は照れくさくなって口元が緩んだ。


「そうか、よかった。実は自信作なんだ」

「えっ。これ、安倍先輩が?」

「ああ。両親は共働きだから、家事は基本的に俺が担っている」


 自然と家の事情を口にすれば、美琴は驚き顔でもう一度アスパラの肉巻きを見る。


「こんなに美味しいおかず……すごいです」


 心から尊敬を込めた言葉。同時に、羨ましそうな声色も感じた。

 晴政にとって当たり前のことだったが、美琴には羨望を覚えるほどだったようだ。


「とはいえ、菓子作りは苦手だ」

「……そうなのですか?」

「ああ。だから信田の作る菓子が楽しみなんだ」


 気遣っているわけではない。これは事実である。

 柔らかな眼差しを向けて言えば、美琴は口を引き結んで気恥かしそうに(うつむ)く。耳介(じかい)が赤くなっている気がしたが、晴政は指摘しないようにした。




 穏やかな空気の中で食べているうちに、弁当箱が空になる。水筒の茶で口の中をさっぱりさせたところで、美琴は鞄から箱を取り出す。


「あの、これがお礼です」


 晴政は受け取って蓋を開けると、中には丸い黄金色の(かたまり)が入っていた。

 ただの塊ではない。滑らかな表面には絞った跡である綺麗な線が入っている。

 見覚えのあるそれは、晴政の好物の一つ――


「これは……芋金飩(いもきんとん)?」


 美琴が作った菓子は、滑らかに潰した薩摩芋(さつまいも)で甘く煮た栗を包む「栗金団(きんとん)」ではなく、炊いた栗に砂糖を加えて潰し、茶巾で絞って形を整えた「栗金飩」が起源の芋金飩。現代では前者の栗金団がお節料理に加わるほど有名だが、〝元祖〟は江戸時代まで(さかのぼ)る岐阜県発祥(はっしょう)の和菓子である。


 好物である故に色で素材を見抜いた晴政の呟きに、美琴は恥ずかしげに視線を下げる。


「その……栗は季節的にないので、保存していた薩摩芋で作ったのですが……」


 栗も保存できるが、初夏まで保存できるかどうかはその人の腕による。薩摩芋も同様だが、美琴の家では薩摩芋があったのだろう、と想像した。


「もしかして、栗金飩の方がよかったですか……?」

「いや。どちらも好きだが、あえて言うなら薩摩芋の方が好きだ」


 不安そうな美琴に包み隠さず答えて、さっそく芋金飩を口に入れる。


 ――銀河が一望できる宇宙空間を、一瞬だけ幻視した。

 食べた途端に溶けるように解れる滑らかな舌触り。芳醇(ほうじゅん)な薩摩芋の風味、薩摩芋本来の甘味が、ふわりと口いっぱいに広がり鼻腔(びこう)へ届く。

 砂糖の量は絶妙でくどくなく、上品な深い味わいで延々(えんえん)と食べ続けられる。むしろ永遠に食べていたい気持ちに支配された。


「……すごいな。こんなにうまい芋金飩は初めてだ」


 自然と感嘆の言葉が溢れる。

 晴政の表情はあまり変わらない。それでも美琴には、驚きと感動で輝く瞳から晴政の感情を読み取った。


「ほ、本当に?」

「ああ。ここまで滑らかに(こしら)えるのは大変だったんじゃないのか?」


 金飩の(かなめ)は、食材を滑らかに()すこと。丹念(たんねん)に丁寧に作られたのだと分かると同時に、かなりの力仕事だったのではないかと想像できる。

 一番の苦労を指摘された美琴は、頬を赤らめて口を引き結ぶ。


「……お、お礼ですから」


 美琴は視線を下げて緊張感のある声音で返す。

 健気な言葉と仕草に、晴政は心臓が跳ねた感覚を覚えた。


(〝好きだ〟と言えたらどんなにいいか)


 思い切って告白したい。しかし、晴政自身の生い立ちもあり、想いを言葉にできない。

 代わりに手を伸ばし、ぽん、と美琴の頭を撫でる。艶やかで手触りの良い繊細な薄茶髪の感触だけでも、胸が締めつけられた。


「すごくうまいよ。ありがとう、信田」


 シンプルながら奥深い和菓子を作ってくれた。それだけで一生の思い出になる。

 切ない気持ちを秘めた穏やかな微笑を(たた)えて言えば、目を丸くした美琴は目元を赤らめてはにかんだ。


「こちらこそ、助けてくれてありがとうございました」


 気を許した人のみに見せる、美琴の満面の笑顔。

 晴政の目に輝いているように映り、心の中での語彙力(ごいりょく)が消えた。




 ――昼休み後。

 晴政は浮足立ちそうな気持を抑え込んで、授業の準備を始める。


「おい、安倍」


 不意に、後ろから五十嵐の不機嫌そうな声がかけられた。

 振り返れば、五十嵐は剣呑(けんのん)に目を据わらせていた。


「信田に手ぇ出してないだろうな」


 (にら)みを利かせる五十嵐の言葉の端々から苛立ちを感じる。

 晴政は察した。五十嵐が美琴に好意を持っていると。


「手を出すって、具体的にどんなことだ?」


 平静を装って問い返すと、五十嵐はグッと言葉を詰まらせる。


「言っておくが、彼女からお礼を受け取っただけだ」

「……本当か?」


 ありのままを答えるが、五十嵐は疑う。

 かなり疑心暗鬼になっている様子に、晴政は嘆息した。


「どうしてそんなに信田の交流に口を出すんだ。お前は彼女の父親か何かか?」

「バッ……! 馬鹿かせめて彼氏か?って言えよ!」


 文句を言う五十嵐だが、調子に乗った発言は晴政の神経を逆撫でする。


 美琴に恋人はいない。そもそも人間の恋人は安易(あんい)に作れない。

 ありえないことだと分かっているが、こうも露骨(ろこつ)で過剰な自意識は腹立たしい。


 無性に腹の底から重苦しいものを覚えた晴政は、軽蔑を含んだ冷めた顔になる。

 滅多に見せない彼の不穏な空気に、五十嵐は(ひる)む。


「な、なんだよ……」


 五十嵐が警戒から身構えて、晴政は自分の表情がどんなものに変わっているのか自覚する。落ち着くために溜息を吐き、教卓側へ向き直って教材に手をつけた。


「おいこら、何とか言えよ」


 喧嘩腰に文句を言う五十嵐だが、その直後に授業開始の予鈴が鳴る。

 後ろで五十嵐の舌打ちが聞こえたが、解放された晴政は安堵から疲労感が滲み出る吐息を漏らす。


(五十嵐も信田が好きなのか)


 頭は冷静だが、心は落ち着かない。むしろ苛立ちすら感じる。

 今までにない感情に、自嘲的(じちょうてき)な笑みが薄く浮かんだ。


(ああ、なるほど。これが嫉妬か)


 自分から深く関わることができない晴政に対し、五十嵐は部活でいつでも関わり合える。仕方ないと分かっていても、無性に(くや)しくなった。



     ◇  ◆  ◇  ◆



 昼休みが過ぎ、午後の授業が始まる。

 晴政と別れた美琴は、浮足立つ気持ちを抑えきれない様子で、一階の美術室で絵画の授業を受ける。


「ふぅん。あれが白狐の小娘? なぁんだ、ブサイクじゃない」


 ――その姿を見つめる、怪しげな影が一つ。

 青葉が生い茂る桜の木の枝に、一匹の三毛猫がいた。

 のんびりと(くつろ)ぐ姿勢で枝に寝そべっていた三毛猫は、グッと前足を伸ばしたあと、軽く身震いして力を抜く。


 次の瞬間、三毛猫の輪郭(りんかく)が揺らいだ。

 ゆらりと歪んだと思えば徐々に輪郭が広がっていき、とうとう人間の少女に近い姿形へ変貌を遂げた。


 肩を露出し、大輪の赤い花を描いた桃色の和服の煽情的(せんじょうてき)な着こなし方は、まるで花街の苦界(くがい)に生きる花魁(おいらん)のよう。

 つり上がった青い猫目に、口紅がなくても色っぽく彩られた赤い(くちびる)。薄紅色に色付いた頬も相俟って色気が滲む。


 まさに美貌の主と称するに相応しい少女の頭には、人間には無いはずの三角の獣の耳、丈の短い着物の隙間から二本の尻尾が生えていた。


「ブスのくせに、〝あのお方〟の心を奪うなんて……っ」


 澄んだ青い瞳に暗い感情が宿り、黒い瞳孔(どうこう)が縦長に細くなる。

 どす黒く染まった重苦しいものを胸中に感じ、少女はニタリと赤い唇を歪める。


「どう甚振(いたぶ)っちゃおうかしら」


 猫の耳が微動し、二本の尾がゆらゆらと揺れる。それに合わせて、黒毛混じりの茶髪を結わえる組紐(くみひも)の鈴が、チリンと涼やかな音を立てた。




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