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第90話 失われた明日

 だが、そんな楽しい日々は突然終わってしまう──


 ○


「ゴメン、今日からしばらくはT.S.Oに入れない」


 心底申し訳なさそうな表情で頭を下げる少年。

 高校三年生の夏の終わりのことだった。

 幼稚園からエスカレータ組の紗綾(さや)は付属の大学への進学が自動的に決まっていたが、外部入学組の少年は大学受験を眼前に控え、T.S.Oをプレイする時間すらも勉強に()てなければならなくなってしまったとのことだった。

 だが、紗綾は素直にその申し出を受け入れた。

 むしろ、自分と同じ大学へ無理を押してでも進学すると決めた少年の心が嬉しかったのだ。

 その後、紗綾もT.S.Oへのログインを控える日々を送る。


 ──そして、大学の合格発表当日。


 少年は見事に目的を叶えた。

 合格者の番号が張り出された掲示板を前に自分のことのように喜ぶ紗綾。

 少年は、そんな紗綾に珍しく真面目な表情を見せる。


「大学生になったら……その、なんというか、正式に? その……恋人としてつきあってほしい」


 驚きのあまり声を出せないでいる紗綾に対して、少年は慌てて言葉を継ぎ足していった。

 もちろん、自分みたいな普通の家の人間が、紗綾の家の人たちに良く思われていないことはわかっている。でも、それでも、そういった障害も含めて、紗綾を守っていきたいし、これからも一緒に歩いていきたい、と。

 紗綾は感極(かんきわ)まって、ただただ頷くしかできなかった。


「──これで、またT.S.O.でも一緒に遊べるね! 今晩さっそくログインするよ!」


 そういって、笑いながら手を挙げてこちらに背を向ける少年の姿。

 いや、もう少年というよりも、青年というべきだろうか。もともと同じくらいだった背も、いつのまにか彼の方がだいぶ高くなっていた。それだけの時間を一緒に過ごしてきたという証でもある。


 大学の正門で彼と別れた。


 (きびす)を返して、隣の敷地にある高校の校舎へと向かう。


 『迎えに車が来ているはずなので、少し急いで向かわないと。家に帰ったら、お父様たちにご挨拶してから、食事を一緒に取って……うん、大丈夫、いつもの時間にはT.S.Oへログインできる。久しぶりにT.S.Oへログインしたら、まず、何をしようか──』


 そんなことを考えながら歩く紗綾の足取りは、自然と軽くなっていた。

 

 途中、塀を挟んだ学校の敷地の外を数台の救急車や消防車がサイレンを鳴らして走り抜けていくことに気づいた。

 普段の紗綾なら、足を止めて不安に感じたかもしれない。でも、今、この時ばかりは、まったく気にならなかった。


 その夜。自室へ戻って、HMDを装着し、T.S.Oへログインした紗綾は、いつも彼──彼女と待ち合わせしている、王都の公園の一角、湖の畔のベンチへ向かった。

 

 ──だが、彼女は姿を現さなかった。


「どうしたのでしょう……」


 確かに、今日ログインすると約束したはずだった。

 急速に不安がわき上がってくる。連絡を取ろうにも、端末に彼のIDは登録されていない。定期的に家族にチェックされることもあって、日々の連絡はすべてT.S.O内で済ませていたのだ。

 とりあえず、ゲーム内チャットのシステムを使って、メッセージを送って、そのまま待つ。

 しかし、夜遅く、不審に思った家政婦が声をかけてくるまで待ち続けても、彼からの返事はなかった。


 翌日。

 紗綾は、高校の教室に足を踏み入れた途端、信じられない光景を目の当たりにした。

 窓際の最後列の彼の席、その机の上、何の飾りもない花瓶に生けられた白いユリの花。

 クラスメイトの一人が、そっと教えてくれた。


 ──彼、亡くなったそうよ。昨日、大学の合格発表を観に行った帰りに、車にはねられたらしいわ


 紗綾はすぐさま職員室へ向かった。

 担任はそんな紗綾の様子を見て、驚いたような表情を浮かべた。

 いつも穏やかで、静かに微笑んでいる。そんな彼女からは想像もつかない雰囲気を放っていたのだ。

 詳細を問う紗綾に、彼女を満足させる回答を担任は持ち合わせていなかった。

 普段は絶対に見せない、あからさまな失望の色を浮かべた紗綾は、担任から彼の住所だけを聞き出し、靴音高く職員室を後にする。

 廊下を玄関に向かって早足で歩きながら、運転手を呼び出し学校へ戻るように、そして、彼の名前と事故の状況を伝えて、至急情報を集めるように伝えた。

 端末の向こうで、運転手も紗綾の(つね)にない色を感じたのか、否応なく受け入れた。


 ちょうど十分後、学校の正面玄関前に車が着いた。始業直前に駆け込んでくる学生たちをかき分けるように車が発進する。

 運転手が後部座席の紗綾にタブレット型の端末を差し出してきた。

 それには、彼の事故についての詳細がまとめられていた。

 結論から言うと、彼に落ち度は全くない不幸な事故だった。

 本来であれば、車両には自動運転モードのオンオフに関わらず、事故回避制御機能がついていて、人を死なせるような事故は、まず起こらないようになっている。


 だが、今回、彼をはねた車の運転手は事故回避制御機能を手動でオフにしていたのだ。


 そこまで、読み進めたとき、紗綾は身体の奥から激しい怒りがわき出てくるのを感じた。そんなことで彼の命は奪われてしまったのか!


「……!?」


 端末の画面に触れていた紗綾の指の動きが一瞬止まる。

 続けて、加害者側の状況の説明が表示される。事故回避制御機能をオフにしていた理由、出産予定日を間近に控えた妻が急に意識を失って倒れてしまい、冷静さを失ってしまった夫は、救急車を呼ばずに、自家用車の安全制御機能を全てオフにして、猛スピードで病院へと走行していた。そして、その途中で彼をはねてしまったとのことだった。

 そして、搬送先の病院で彼の死亡が確認され、続けて、加害者の妻とお腹の子供二人も死亡したことが確認された。そして、加害者の夫も、警察に連行される前に、病院のトイレの個室内で自殺してしまったと結ばれていた。

 紗綾は全身の力が抜け落ちていくように感じた。

 行き場を失った怒りが、無気力感へと転化されてしまったかのようだった。


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