第89話 柏陽紗綾とクルーガー
柏陽 紗綾はミサキ-1の発進をシェルター内のモニターから落ち着いた面持ちで見つめていた。
息子から引き離された小泉の母親を励ましていたことが、逆に自分の心を落ち着けることに繋がったのかもしれない。
その後、警備隊から安全が確保されたと案内があり、紗綾たちは、そのまま沖ノ鳥島ステーションへと移動し、オノゴロラインで本土へと向かうこととなった。
途中、青葉の姿を見かけたが、係員を含めて身内と思われる人たちと深刻な面持ちで話し込んでいたため声をかけることができなかった。
「さすがにいろいろありすぎました……皆さん無事でいてください」
オノゴロラインは海上都市の駅から出ると、空中を弧を描いてから、海中へ沈むように真空チューブが繋がっている。その空中部分を通過する間、陽が落ちた夕空にそびえる軌道エレベーター、ヤタガラスの白い柱を伝って星空へと上昇していくミサキ-1を見上げることができた。
幼い頃から自分を姉と慕ってくれていた少年。そして、もう一つの世界で出会った素敵な仲間たちが搭乗しているはずだ。
「あの頃、皆さんに出会うことがなかったら……」
ホワイトラビットと呼ばれる車両が海中へと真空チューブの中を進んでいく。次第に速度が上がり、身体が座席に押しつけられる。
誰もが疲れと不安に苛まれる静かな車両の中、紗綾の思考は過去へと旅立っていく。
◇
「これで、またT.S.O.でも一緒に遊べるね! 今晩さっそくログインするよ!」
そういって、笑いながら手を挙げてこちらに背を向ける少年の姿。
あれは、高校三年生の夏の終わりのことだった。
この少年とは、高等部に進学した後、しばらくしてから仲良くなった。
最初の会話は教室の席替えで隣同士になったこと、内容は思い出せないけど、他愛のない話題がきっかけになったように記憶している。
紗綾が通う学校は、幼稚園から大学までの一貫教育を行う教育機関の一部だった。もともと、良家の子女も多く通う学校だったが、進級していくにつれ、紗綾の家柄に遠慮したのか、次第に周りから敬遠される存在になってしまっていた。紗綾も人間関係に関しては、自分から積極的に働きかけていくタイプではなく、もともとの穏やかで目立とうとしない性格が余計に孤立に繋がっていったのかもしれない。
だが、この少年は外部入学だったということも影響したのだろうか、紗綾に対して自然と接してきていた。
「柏陽さんといると、なんというか、春の桜の下で日向ぼっこしてる感じがするんだよね」
ある時、少年はそう言って笑ったことがある。例えがふんわりしすぎていて正直紗綾には理解できなかったが、悪い気はしなかった。
だが、二人の関係は一筋縄ではいかなかった。紗綾は孤立していたが、それは無関心の結果ではなく、むしろ逆だった。有名な家の箱入り娘として、好奇の視線に常に晒されているといって良い。そのため、色恋沙汰などは論外で、友人としての付き合いも細心の注意を払わないといけない状況にあった。
そんなある日、少年が進めてくれたのがVRMMOだった。
HMDは持っていたが、学校の授業以外で使ったことがなかった紗綾にとって、まったく未知の存在だった。
それでも、彼がコッソリと用意してくれたメモをもとに、T.S.O.をセットアップして、新しい世界への扉を開いたのだ。
「うわぁ……っ」
眼前に広がる真っ青な空と海、波の音と共に爽やかなそよ風が吹きつけてくる。
予想していなかった綺麗な光景に思わず見とれていた紗綾へ、後ろから声がかけられる。恐る恐るといった態の少女の声。
「あ、あの……もしかして柏陽さん?」
その声へと振り返ると、そこにはスカイブルー系のショートヘアーに同じ色の服、教会の神父を彷彿とさせる法衣のような衣装を身に纏った女の子の姿があった。
「あ、はい、そうですけど……」
「やっぱり、そうだった! 僕、僕だよ!!」
少女の表情がぱあっと明るくなる。そして、その時点で紗綾も目の前の少女がT.S.O.に誘ってくれた同級生の少年と同一人物であることに気づいた。まさか、少女の姿をしているとは思っていなかったが、よく考えたら自分だって──
「おっと、ゲーム内でリアルの名前呼ぶのはマナー違反だった。というワケで名前教えてくれる? それにしても、まさか男性キャラでログインしてくるとは思わなかったからビックリしたよー」
「ええ、キャラクターメイク……でしたっけ、いろいろ複雑だったので、とりあえずランダムで生成できる機能を使ってみたんです。そうしたら、なんというか、子供の頃好きだった絵本に出てくる王子様みたいな姿が出てきたので……その、名前はクルーガーと……」
「そっかー! クルーガーかぁ。あ、僕のキャラはミチル。こっちもリアルとは性別逆だから、どうかな? って思ってたけど、お互い様で結果オーライだね」
「ミチル……」
紗綾はそっと呟いた。その名前が本名を女の子風にもじってつけたということにすぐに気づく。
少女──ミチルは、紗綾──クルーガーにグイッと親指を立てて笑いかけた。
「じゃあ、クルーガー! とりあえず、最初の職業決めよっか! 王子様なら聖騎士とかハマリ役かもね」
その後、クルーガーとミチルは毎日のようにT.S.O.内で遊ぶようになった。
もちろん、家族に知られるわけにはいかないので、勉強をするために自室に籠もる時間のうち、半分くらいの時間を利用していた。
T.S.O.の中での世界は、全てが灰色にみえていた現実世界とは違い、様々な色彩に満ちていて、クルーガーにとって何もかもが魅力的にみえていた。
ただ、元来の人見知りな性格と、ミチルとの逢瀬が他人に知られてしまうのではないかという怖れもあって、パーティやギルドには参加せず、基本、ミチルと二人だけで行動していた。特に楽しかったのは、T.S.O.内の観光名所巡りである。観光といっても、もちろんモンスター出没などの危険もある。だが、そんな中を星霊神官のミチルと聖騎士の自分と二人で冒険していくのが何よりも楽しかったのだ。時には行きずりのプレイヤーたちとパーティを組むこともあったが、基本、二人は自分たち以外と連むことは考えなかった。




