夏の大祭
切り立った丘に立つ星売りたちが「ハーヤ、ハーヤ」と叫び始めた。彼らの声は山肌や大樹、学院や寺院などあちこちに反響し、さらに遠くに立つ星売りの耳へ届く。そしてまた新たな星売りが「ハーヤ」と叫ぶことだろう。
それが彼らの合図だった。
星売りによって一斉に灯りを宿された星々は次々に空へと放たれ、暗色が混じり寂しげだった世界の色がにわかに移ろう。
数千、数万もの星が色とりどりの光を放ちながら、一斉に上へ上へと立ち昇る様子を、ジュゼは少し霧のある寺院の奥で見ていた。
寺院の建つ方向では、人々の歌声と太鼓を打ち鳴らす音がいっそう激しくなる。つい先ほどまで皆が好き勝手に歌っていたのに、ざわめき声は徐々に重なり合い調和してゆくようだった。
離れていてもわかる。この大合唱は黒の国擁する主都・玄武と神々への賛歌だ。おそらく黒の国から訪れた僧らが舞を始めたのだろう。
青の国の人々の歌は荒々しくも情熱的だ。直接その姿は見えずとも、舞を尊び楽しんでいる彼らの熱気がありありと伝わってくる。誰かが笛を奏で始めると、一際大きな歓声が上がった。
大地はうねるように微かに揺れている。太鼓の振動だけではない。大勢の人々が踊っているためだ。
彼らの歓びや祈りが大きな一つの響きとなって、足裏から体内へと突き進み、ジュゼの心臓までもを鳴らそうとするようだった。
寺院に集まった人々がこれほど騒がしいのも無理はない。
今日は夏の大祭なのだから。
年に四回ある大祭のうち、第八月の祭りだけは夜におこなわれる。いつからか、星々が空へ揚げられるときが大祭の始まりと見なされるようになった。
騒がしい寺院の方に少しばかり目を遣ってから、目の前におわす四つ足の神は再び口を開いた。
「神の角を折ることはできるか。おまえのその杖一つで」
並みの魔法使いであれば、確かにそれは困難なことだろう、と思う。しかし自分ならばできるはずだ。そう告げると、神は自らの頭上から伸びる雄鹿そっくりな一対の角を指差した。
やってみろ、ということか。
呪文の類は必要なかった。魔法使いが想像したよりも幾分か甲高い音を立てて、大きな角にチカチカといくつもの亀裂が入る。魔法使いが右手に持った杖をすっと横に振ると、ひび割れた箇所から徐々に砕けていき、やがて角はバラバラと地に落ちた。
「本当にやったな」
魔法使いが砕いたのは右の角だけである。頭の片側だけ軽くなったせいか、首をかしげるようにして腕を組み、少しばかり含みのある声音で神は呟いた。
やれと言われた気がしたのだが、違ったのだろうか。誤って怒りを買ってしまったかと思ったが、神は慈しむようにふっと目を細めた。
「なに、こんなものはどうでもいいが」
砕けて落ちた角の欠片を拾いあげ、ひょいと投げながらそう言う。霧が濃く、それがどこまで飛んでいったのかはわからない。神は三つ四つの角の欠片を拾っては投げた。珍しく逡巡しているのか、それとも物思いにふけっているのか、傍から見ただけではわからない。
「おまえの魔力はとてつもなく強い」
神は角の欠片を放り投げながら言う。
「おまえより力のある魔法使いはそうそういるものではない。おれの角を折ることができたというのは、つまりそういうことだ。これからおまえがやろうとしていることも、やり方さえ間違えなければ案外叶えられるかもしれない。だが、忘れるな。誰もしたことがないことをしようとしているのには違いないのだ。人間にできることの域を超えていると言ってもいい」
魔法使いは黙っていた。杖を持ったまま両の拳をきつく握る。
「だからやめろとは言わないが、ジュゼよ。代償に気をつけろ。失えるものはもうほとんど残っていないだろう。それにもしかすると、何かしら影響が及ぶのはおまえ自身のみとは限らないのだ」
「それはわかっています。たとえ何も残っていなくとも、代償は必ず自分だけで引き受けるとここで約束してもいい。ただ、これからどんな目に遭おうが、必ずやるという決心は変わりません」
魔法使いは神の言葉を遮るようにそう言った。決して大声ではなかったが、低く、思いつめたようなその声は、不思議と辺りによく響いた。神は魔法使いの正面に立ち、射るように見つめる。
「何か策があるのか」
魔法使いはこくりと頷く。
「考えはあります。うまくやれば……」
魔法使いは俯いたまま呟くように言う。ややあって顔を上げ、再び神の面を見据えると、おもむろに口を開いた。
「青の国一帯を海に沈める方法をご存知ですか」
神は一瞬鼻白んだが、すぐに眉間にしわを寄せて魔法使いを睨んだ。
「ジュゼよ」
「砂の海でも火の海でもいい。いずれにしろ、やり方さえ間違えなければ容易いことです」
ジュゼ、と神はもう一度名を呼んだが、魔法使いは応えなかった。




