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「かおるちゃん、見て見て。」
「なにそれ?」
「ちょっと出してみたんだけど、着られないかしら。」
祖母が開いた箱から出てきたのは、渋い濃紺の男物の浴衣だった。どことなく見覚えがある。
「これねえ、あの人の浴衣なの。」
「あ、だから見覚えあるんだ!」
「あの人、とても大きかったけど、かえでちゃんなら、ちょうどいいんじゃないかしらって。」
「たしかに!」
さっき、なんとなく祖父と楓とを重ねてみてしまったが、祖母も同じだったのかも知れない。嬉しそうな様子の祖母に、楓が来てくれて良かった、と改めて思う。
祖父の浴衣は、そこそこ古いもののはずだが、そんなことを感じさせないくらいに状態が良かった。大切にされていたのだろうなと思う。
「あと、かおるちゃんの分。」
「え?わたしの分?」
もう一つの箱には、紺地に大振りの朝顔が描かれた、女物の浴衣が入っていた。落ち着いた色合いで、山吹色の帯との組み合わせが可愛らしい。祖母が広げて、立ち上がらせたわたしの身体に当ててくる。わたしにちょうどよさそうなサイズだが、祖母の身長からすると長すぎる。
「これは、おばあちゃんのなの?」
「わたしのじゃあ、かおるちゃんには小さいからね。これはね、ちょっと仕立ててみたの。」
「えっ、おばあちゃんが?浴衣を?」
「そう。浴衣くらいなら、昔はよく自分で縫ったなあって思って。」
にこにことしながら言う祖母に、この歳で浴衣はな、なんて思いかけたが、落ち着いた柄だし、何よりおばあちゃんのお手製ということで、着るのも吝かではないかと思い直した。
「ありがとう、素敵。」
「ふふふ、喜んでもらえて良かった。あの人の浴衣を見つけた時、かおるちゃんにも浴衣を着て欲しいなあって思ったのよね。だからつい、がんばっちゃった。」
祖母が裁縫を得意としているところは知っていたし、これまでも細々したものを作ってもらったことはあったが、まさか浴衣を仕立てられるとは。今になって知ることもあるのだな、と思う。細かい縫製を見ても、正直既製品と差がないほどよくできているように思える。
「羽織ってみて欲しいけど、お風呂に入ってからの方がよさそうね。」
「うん、上がってきたら合わせてみるよ。」
そんなことを話していれば、楓が上がってきた。烏の行水、という言葉が頭によぎった。がしがしと頭をバスタオルで拭きながら、わたし達の手元を覗き込んでくる。
「なに、それ。」
「ああ、浴衣。おじいちゃんのなんだって。」
「へえ。」
「これ、楓にっておばあちゃんが。」
「え。・・・・えっと、ありがとうございます。」
まさか浴衣を着せられることになるとは思っていなかったらしい楓は、一瞬固まった。しかし、おそらく祖母のことを慮ったのだろう、渋々といった様子で礼を言う。それがおかしくて、笑ってしまった。
「じゃ、わたしもシャワー浴びてこよっと。」
「いってらっしゃい。」
祖母の声を背に受けながら、着替えを持って風呂場に向かう。せっかくの浴衣なら、メイクもきちんとした方がいいだろうな、なんて思って、年甲斐もなくはしゃいでいる自分に気付かされた。
窓から日の光が入るお風呂場でシャワーを浴びるのは、なんとなく気持ちが良かった。幼い頃、海遊びの後や虫取りの後などに、玄関からお風呂場に直行してシャワーを浴びた時のことを思い出す。楓と一緒に入ったこともあったなと思い出して、何となく笑えた。今だったらあり得ないが、一緒にお風呂に入ったことは何度もあったし、そのついでに水鉄砲を持ち込んだり、浴槽にたくさんのアヒルを浮かばせたこともあった。
タオルでくらげを作る方法や、手で水鉄砲をする方法を教えてくれたのは、祖父だった気がする。浴槽の中でタオルを使い、一時間近く遊んだこともあった。さすがに上せるからと心配した祖母に止められるまで、何度も繰り返し遊んだものだ。最初はわたしも楓も上手くできなくて、何度も練習した。できるようになると嬉しくて、くらげの大きさを競ったり、水鉄砲を掛け合ったりしたものだ。大人になるとそれほどではないことが、どうして子どもの時分だとあんなに楽しく感じるのか。
そんなことを考えつつ、頭と体を洗う。メイクをし直すことも考えて、顔も洗ってしまう。もともと薄毛しょだったし、どうせ見るのは祖母と楓しかいないのだから、構わないだろう。
汗でべとついていたのがすっきりすると、途端に眠気を感じた。夏休みの午後はよく昼寝したな、なんて思い出し、なんだか自分がどんどん退行している気がした。
「上がったよー。」
「あら、ちょうどいいとこに。」
お風呂から上がると、居間の机には、これまた夏らしいものが用意されていた。
「スイカだ。」
「二人が来るっていうから、買っといたの。好きだったでしょ。デザートがわりにどうぞ。」
子どもの頃は大好きだったが、大人になってはめっきり食べる機会が減っていた。だから、好きかと訊かれると即答はし辛いが、夏の午後の食べ物としては最高だった。
よく冷えたスイカは、果汁たっぷりだった。一口噛めば、じゅわりと果汁が染み出す。しゃくしゃくとした食感も涼しげだ。先ほど感じた満足感はどこへやら、ついついどんどん食べてしまう。
「あースイカ美味しい・・・、青っぽい匂いがまたいい・・・。」
「うん、美味しいね。」
「って楓、一口でかいなあ。」
祖母はいつも、スイカを食べやすい大きさに切ってくれる。それをデザートフォークで突いて食べるのだが、楓はそれをまるまる口の中に放り込んでいた。昔の楓は几帳面で、まず見える部分の種をフォークで落としてから食べていたのに。
種を吐き出す楓を見ながら、種を気にしない程度には大らかになったのだな、と感じる。対して自分のことを思えば、面倒がって種を飲み込まない程度には大人になったと言える、かもしれない。大雑把なところは相変わらずなので、言い切れはしないのだが。
「お祭りは五時からだって。」
「あ、そうなんだ。」
楓の言葉にちらりと時計を見上げれば、今はちょうど二時前だった。昼寝してから浴衣に着替えるのでちょうどいいだろうか。
頭の中で計算をしてから、スイカを食べ終わったタイミングで、楓に声を掛けた。
「ねえ、楓は疲れてない?」
「そこまでは疲れてないけど。」
「わたしは疲れてるから昼寝したいんだけど、楓もどう?」
「え。」
何故か驚いた顔をする楓に、わたしは首を傾げる。そんなに変なことを言っただろうか。
「ああ、お昼寝するなら、床の間のとこ、使っていいわよ。蚊遣りも焚いてあるし、風が抜けるからちょうどいいと思うの。」
「おばあちゃんありがと。一時間くらい寝よっかな。楓、行こ。」
「え、あ、うん。・・・・ええ?」
なんだか不思議がっている楓を立たせ、床の間に向かう。扇風機を付けてから、押し入れから二つの枕と二枚のタオルケットを取り出して、一方を楓に渡した。
「・・・・え、なんか、小学生の夏休みじみてきたね?」
「あはは、そうかも!午前中に虫取りに行って、午後昼寝とか、よくあったよね。」
楓の言葉に、この床の間の畳の上で雑魚寝した日のことを思い出す。
祖父とわたしと楓の三人で虫取りに出掛け、炎天下の中、蝉だのナナフシだのカマキリだのを採っては観察して逃がす。採りはするが、決して連れ帰りはしない、それが命あるものとの遊びにおける、祖父のルールだった。曰く、せっかく生きてるのに、俺たちなんかに捕まった挙句好きにされちゃ可哀想だろ、とのこと。戻ってきて昼食を摂り、三人で昼寝する。昼寝から目覚めるともう祖父の姿はなく、起き出せば祖父からのよく寝てたな、寝るのは育つ、の一言。そして、水ようかんやら梅ゼリーやらのおやつの用意が待っている。
そんな幸福な夏が、とても近しいようにも、限りなく遠いようにも感じる。
あの日のようにごろりと横になれば、畳と蚊遣りの煙の混じったにおいと、目に映る天井の木目に、条件反射のように眠気が来る。あの日よりも暑く感じるのは、わたしの気のせいか、地球自体が熱くなっているからか。それでも、通り抜ける風や扇風機の風が心地良い。
「夏織。」
「・・・なあに?」
うとうととしていたところに名前を呼ばれて、返事が遅れる。すると、存外近くに楓の顔があって驚いた。しかし、ああ、昔もこうして顔を寄せ合って内緒話をしたな、なんで思い出して、ついつい微笑んでしまう。
「・・・俺はもう、子どもじゃないんだけど。」
「え?ああ、うん・・・?」
いまいち意図の掴めないことを言われ、首を傾げる。眠気の波に浸っている人間に、そういうのはやめてほしい。
話し掛けられていることは分かっていても、やはり眠気の方が勝つ。瞼の重さに抗えず目を閉じると、瞼を午後の日差しが透かす。淡く、何とも心地の良い色合い。そのまま意識を手放そうとしたところで、ふと、自分の頬を優しく撫でる感触に気付く。
少しかさついた、大きな手。その熱もまた心地良くて、わたしの意識は微睡の谷間に落ちていった。