第四話 前編
玄関に入った瞬間、強烈な違和感が襲ってきた。
こういう時、泥棒とか空き巣とか、そういった類のものを想像する。一般的な家庭で起こる犯罪被害と言ったら、あくまで【それくらい】のものだ。
「母さん、ただいまー……?」
一応、母がいるであろうと思ったので、秀樹は靴を脱ぎながら声を出してみた。
背中のランドセルから響く、ロック部分がカチャカチャと揺れる音でさえ、何だか他人の物のように聞こえてくる。
母がいるのは、時間的に確実だと思う。
だからこそ、洗濯物を取り込んでいる音とか、煮物を作っている音とか――そもそも【おかえり】の声がないこと自体がおかしい。
「母さん、いるんでしょ?」
住み慣れた家を進む足取りが重い。廊下を踏みしめる靴下が、滑って転んでしまうのではないかと思う。
リビングに入るドアに手をかけた時、小さな話し声が聞こえてきた。
「……あなたの言っていることは分かる」
母の声だ。そう思った秀樹は、肩の強張りが少し緩むのを感じた。
誰と話しているんだろう。お客さんかな。
純粋にそう思ってドアノブを握り、回した。
「……それでも。私と秀樹は、あの人と共に生きていきたい」
リビングに入った秀樹の目に映ったのは、まず、ソファに座る母の後頭部。
そして、異様なほどの存在感を放つ、黒いマントを羽織った人物だった。
ドアを開ける音に気付き、母が首をこちらに向けようとした。
「息子か」
母よりも早く、黒マントが秀樹の方を向いた。
まるで十字架に張り付けられたかのように、秀樹の全身がピタリと止まった。
マントの奥の暗闇から投げかけられる視線が、獲物を絞めあげる大蛇のように鋭く――秀樹の視線をとらえて放さない。
「ブルーム、やめて」
母が立ち上がり、黒マントの人物――ブルームと秀樹の間に割り込んだ。
「この子は見逃してあげて。あの人の、ライトの願いは、私と共に年を取ること。この子は関係ない」
強く、だが落ち着いた態度で話す母の姿は、秀樹の脳裏に深く焼き付いた。
事情は全く分からない。だが母が自分を助けようと、犠牲になろうとしてくれていることだけは、幼い秀樹にも分かった。
「そうか、では」
ブルームはマントの中から右手を出した。レザーの手袋で包まれたその手には、人間とは思えないほど長い指が生えていた。
ブルームの手の先に黒いエネルギーがたまっていく。明らかに危ないものだと感じたが、秀樹はその不思議なエネルギーの流動から目を離せなかった。
母が秀樹を抱き寄せ、彼の目を覆ったのが分かった。
「母さん。何が、どうなって……」
「シー」
混乱してジタバタする秀樹を、母は優しく押さえつける。
「ブルーム、約束して。これで、この子と……ライトには近づかないと」
母の声は震えてはいなかった。だが、酷く苦しい悲しみに覆われていた。
「……約束しよう」
ブルームの返答。そして、ほんの数秒間があった。
母の手のぬくもりが、秀樹の額から口にかけて感じられる。
何かが炸裂する音がして、急に秀樹の視界が開けた。
「あ……」
足元に、何かが倒れてくるのが分かった。
目の前には、右手を突き出したままのブルームの姿。だがすぐにマントの中に、その手を隠してしまう。
秀樹は怖かった。自分の足元を見ることが。
何が起こったのか分かったのは、ブルームが彼の横を通り過ぎたときだった。
「……母の死を弔ってやれ。お前は自由だ」
ぽつりとつぶやかれたセリフで、秀樹は理解した。
反射的に、足元を見やる。もう恐怖は彼の身体を縛り付けることはなかった。
足元に倒れているのは、先ほどまで自分を抱きしめてくれていたはずの、母の肉体。
だが、その目は閉じられており、胸には大きな黒い穴が開いている。
呼吸を見るまでもなかった。母は死んでいた。
「あ、あ、あ」
秀樹の中を様々な感情が駆け巡った。
悲しみ、驚き、喪失感。そして母と過ごした思い出が大量に頭の中に流れ込んでくる。
毎日食事を共にしたこと。遊園地に連れて行ってもらったこと。牛乳をひっくり返して怒られたこと。
そのどれもが、まるで目で見ているかのように色鮮やかに再生される。
そして白黒に変わり、やがてひび割れていった。
「あああ……」
涙にまみれた顔で、リビングのドアを振り向く。
視線の先には、黒マントの人物の後ろ姿があった。ドアに手をかけ、出ていこうとしている。
秀樹はその背中に向かって走り出した。
「ああああっ!」
とにかく、全ての感情をぶつける。それしか考えていなかった。
母を一瞬で、何の武器も持たずに殺した人物。その戦力の強大さなど、これっぽっちも天秤に量ることなどなかった。
がむしゃらに拳を振り上げ、ブルームの背中に叩きつけようとする。
だが。いつの間にか、やつの姿は視界から消えた。
「勇猛果敢だな。さすがルクスの息子だ」
背後から声がする。急いで振り返る秀樹。
黒い物体が視野に入った瞬間、彼は襟をつかまれて持ち上げられた。
目に見えないスピードで、背後に回り込んだブルーム。秀樹の顔を、自分の目の高さに持ち上げて言う。
「さっき言ったことを忘れのか? お前を見逃してやると言ったんだ」
「殺して……やる」
足が宙に浮いていたが、秀樹は必死の形相でブルームをにらみつけた。
ククク、と笑い声が聞こえる。マントの暗闇の中で、何か仮面のようなものが動いたように見えた。
「どうやって? その小さな手で、私を殴り殺すのか?」
◇◇◇
マンションのエントランスまで来ると、牧原は後ろを振り返った。
「じゃあ、ここで」
「うん」
秀樹はポケットに手を突っ込んだままうなずいた。
日が落ちるのが早くなってきたのか、既に夜の闇が降りている。それでも建物に備え付けられた照明が多いので、ここだけ安全地帯のように自分が落ち着いた。
手をふる牧原に、秀樹も片手をあげて応じる。彼女の姿が大理石の壁の向こうに消えていく時、思わず秀樹は口を開いた。
「あのさ」
牧原は振り向いた。問いかけるように少し首を傾げている。
「いや……何でもない」
「そっか。またね」
優しく微笑むと、今度こそ彼女はマンションの中に入っていった。
頭をポリポリとかく秀樹。試しに、今言おうとしたセリフを口の中で呟いてみる。
「つきあってください、ってか」
若い男性の声がそう言ったものだから、秀樹の心臓がビクンと飛び跳ねた。
急いで振り向くと、20代後半くらいの男性がこちらを向いてニヤニヤしている。全身を黒いファッションで決めた、うす顔のイケメンだった。
「読唇術の乱用、ダメ絶対。龍二さん」
秀樹は思い切り男性をにらみつけた。今のやりとりを完全に見られていたかと思うと、顔から火が出そうになる。
「悪い悪い」
龍二は両手を合わせて謝る。ふと彼の背後を見ると、黒いスポーツカーが停まっていた。
「乗ってくれ。ライトさんが来てる」
「えっ! 父さんが!」
龍二に促されるまでもなく、秀樹はドアを開けて後部座席に飛び乗った。
運転席に乗り込んだ龍二がエンジンをかけると、小気味いい振動が車体全体を包み込んだ。最近ハイブリット車が多くなっているこのご時世では、返って懐かしい感じがする。
「どれくらい会ってないんだろ」
国道に車が出た後、秀樹は龍二に尋ねた。
「んー。確か、最後に秀樹がライトさんと会ったのは、だいたい2年くらい前か?」
「そうだった、そうだった。受験勉強してた覚えがある」
「あの時は2ヶ月くらい一緒にいられたよな。ライトさん、毎日お前にメシ作ってくれたらしいじゃん」
「うん。いろんな国の料理を作ってくれて、すごく楽しかった」
平日の夕方である。間もなく通勤ラッシュの車が多く現れ、二人の進む速度もゆっくりになった。
秀樹はフカフカのシートにもたれかかる。どれだけ金をかけているのだろうか、このシートで生活できそうな気がするほどに気持ちいい。
車内にはラジオがかかっていた。今はやりのダンスナンバーが、軽快なリズムで流れている。
「話は変わるんだけどさ」
少し間が開いた頃、沈黙を破ったのは龍二だった。
「お前から頼まれた近藤秋也について、ある程度調べた」
「どんなやつだった?」
「どうやら学校名と血液型、趣味まで、そいつが言っていることは正しかった。女受けがかなりいいのもあってる」
「やっぱり、あのくそイケメンはモテるのか……ほかに変わったところは?」
「うん。それがな、ここ1年くらいは学校の出席率が悪い。土日に彼の姿を見ない人が多いんだが、平日にもちょくちょく学校を休んでいる」
「休んでって、何をしてるの?」
「友人たちの話によると、旅行に行ってるらしい。実際に、国内外問わず遠方の風景の写真を見せてもらったことがあるそうだ」
龍二の説明を聞いて、秀樹は頬をさすった。窓越しに、同じように渋滞につかまった車の列が見える。
「その時間を使って、例の組織のことを調べてるってことだよね?」
「まあ、その可能性は高いな。だが彼の足取りを追うのは難しい。飛行機や船、さらには新幹線まで、一切の公共交通機関を使わった記録がないからだ」
「タクシーで移動してる……いや、それじゃ国外には行けないか」
「そう。秀樹、お前見たんだろ? 彼が空を飛ぶところを」
「見た。じゃあ、自前の能力を使って、交通費を浮かしてるってこと?」
「だろうな」
国道の渋滞はさらに行き詰っていた。これじゃ歩いたほうが早いかもしれない。
ラジオから流れる音楽が終わり、DJが最近の話題についてしゃべっていた。
『――またもや現れた謎のヒーロー! 今度は川でおぼれている子供たちを全員救ったぞ!』
龍二もラジオの内容に気づき、バックミラー越しににやりと笑った。秀樹は仏頂面で目を逸らす。
『彼の名前を、そろそろ私たちで決めようじゃないか! 銀色のスーツを着てるから、ミスター・シルバーってのはどうだい?』
秀樹はカーステレオまで手を伸ばし、ラジオのスイッチを切った。
「どうしたんだよ? いい名前じゃないか」
「ダサすぎるでしょ。このDJ、いつも適当な名前をつけてオレをからかってるんだ」
一度伸ばした背中を引き、シートにドサリともたれかかった。
「そんなに気に入らないんなら、自分で何か名前を付けて、名乗ればいいんじゃないのか」
「いやいや。リーディックを倒すのとは違って、人様を手助けするのはオレの趣味みたいなもんだから。趣味にわざわざカッコつける必要はないでしょ」
「それは違うぞ、秀樹。趣味こそが人の生活を豊かにする。そこで見せるこだわりは、その行いへの納得を生むんだ。やがて取り組む姿勢も変え、結果的にその人そのものの成長につながるんだぞ」
「そう……なのかな」
秀樹は頬杖をついて、車窓から見える赤いライトの群れを眺める。
もちろん、そこに答えはない。あるのは、今日も通勤が終わって解放され、家路を急ぐ労働者たちの姿だ。
いつか自分もこの人たちの列に加わるのだろう。その時に、自分の生活が豊かだと断言できるのだろうか。
「あれ? もしかして事故か?」
車列のはるか先頭を見ようと、龍二が首を伸ばしていた。
彼の言う通り、渋滞の途中で誰かがぶつけたらしい。煙を上げるトラックが朧気に見える。
「マジ? これじゃいつ空くかわかんないね」
「うーん。ライトさんに連絡して、先に行っててもらうか……」
「もしかして、どこか予約してあるの?」
「ああ。寿司屋にしといた。回らないところだぞ」
「やった!」
秀樹は手を挙げて喜ぶ。龍二は前を向いたまま微笑んでいた。
久々の家族の集まり。血はつながってはないが、龍二もその一員として秀樹に慕われている。一緒に再会を楽しむつもりだ。
そんな二人の楽しい気分を引き裂くように、前方から爆発音が響いた。
「なんだ!?」
先ほどのトラックがあった辺りに、巨大な影が映っている。
道路の両端から照らされる街灯によって、シルエットだけは分かった。
「クマ……に見えるね」
秀樹はそう判断した。通常のクマよりもでかい、というよりも生き物としてはでかすぎるクマが、車数台を押しのけて立ちふさがっている。
表皮は一般的なクマのような茶色ではない。白熊のように真っ白でもない。
「紫色……クマ型リーディックだね」
「それじゃあ、あの奥にいるのは?」
「えっ、もう一体いる?」
龍二に指摘され、秀樹がクマの立っているさらに先に目を凝らす。
トラックが何台か連続で並んでいるため、最初はよく見えなかった。だが、縦に細いシルエットと、二本の腕の先に備わった大きな鎌が見えた。
「カマキリだ……」
「でかいとキモイな」
確かにキモイ。昆虫の目玉がギョロっと動くのが生理的に嫌な人もいるだろう。それに加えて全身が紫色なところが、若干ホラーだ。
クマ型とカマキリ型は互いに向かい合い、にらみ合っているように見える。煙を上げている車両は一台や二台どころではなく、さらに何台かに煙や火が立ち上っていた。
クマ型が突進していき、カマキリ型を殴る。やられた方は車両を巻き込んで吹っ飛んでいき、金属が破壊される音が辺りに響き渡った。
「あれ、仲間割れしてる?」
「というより、改造されたやつらがたまたま出会って、いさかいを起こして、実力行使してるんじゃないのか?」
「えっ?」
「想像だけど。後ろから当てられたから、車から降りてドライバーに詰め寄ったら、相手が変身した。それで最初の方も変身し、大乱闘スマッシュモンスターズになった……ってのは」
どうかな。と龍二が言ったときに、何かが車の横を通り過ぎた。
見えない斬撃が通り過ぎたのか、隣の車線に並んだ車が数台、縦に真っ二つになる。
カマキリ型リーディックが、切断された車両の方に体を向けていた。
鎌を振り下ろしているのを見ると、どうやらそういう【能力】らしい。
「めちゃくちゃ物騒な能力を持ってるね」
「そうだな。とりあえず出るぞ」
龍二はドアに手をかけた。
だが開かない。ロックがかかっているのかと思い、ボタンを何度か押すが、びくともしなかった。
ふと秀樹が気づくと、窓に霜が降りてきていた。
「もしかして、凍ってる?」
見る見るうちに、ほかの車両も真っ白に凍り付いていくのが見えた。車列から立ち上っていた火や煙が鎮まるのは幸いだが、このままでは車の中で凍死してしまう。
「あのクマの方か」
龍二はドアと格闘しながら観察していた。
クマ型の方が、何やら口から白いモヤを吐き出している。冷気を出すことができる能力らしい。
霜が降りてきたことで視界が悪くなってきた。だが、他の車もドアが開かず、ドリアバーたちが焦っている光景は見えていた。
「龍二さん。ドア、オレがぶち破るよ」
秀樹が言った。
左目から緑色の光を出している。身体強化の能力でドアを破壊する気だ。
「ああ、頼む――」
龍二の目の端に、何か大きなものが映った。
振り向いた瞬間には、既に遅かった。
カマキリ型のリーディックが宙を飛んでいた。クマ型が両腕を振りぬいている様子も見え、どうやら投げ飛ばしたらしい。
その巨体が飛んでくるコースは、龍二たちの車だった。
「やばい!」
龍二が腕で自らをかばう。
死んだかも――そう思った。
だが。痛みも、音も、衝撃さえ来なかった。
「父さん……」
秀樹の声を聞き、龍二は理解する。
顔を覆っていた腕を下ろすと、その光景が見えた。
全身を銀色の表皮に覆われた、異星人の姿。
秀樹が身に着けているような、人工のアーマーとは違う。生物が作り出す、それでいて超自然的な造形美だ。
背中には翼のようなものが小さく折りたたまれている。頭部から後方に伸びる角は、荒々しく、それでいて威厳を感じさせる。
異星人、フォルティアの姿。その彼が、たった今飛んできたカマキリ型リーディックの巨体を片手で受け止めていた。




