第一話 前編
急に眼前に彼女が現れたときは、本当に息が止まった。
「藤沢くん、だよね?」
牧原の瞳はキラキラ輝いていた。
銀行の照明が、テレビスタジオの高級リングライトかと思うほどの反射ぶりだった。すっとのびた鼻筋と、湿度200パーセントのしっとりした唇。肩に乗った黒髪は絹のように滑らかで、シャンプーのCMでしか見たことのない光沢を放っていた。
時間は平日の夕方。
藤沢秀樹は銀行に来ていた。振り込まれたはずのアルバイト代を引き出そうと自動ドアをくぐったところまではよかった。
だが、学校始まって以来一番の美少女と言われる牧原ひかり――彼女に偶然出会ったことで、頭の中で組み立てていたはずの予定は全て吹っ飛んだ。
「え……え?」
唾を飲み込み、何とか秀樹の口から絞り出したのは、超が付くほど間抜けな声。
せめてあと数ミリだけ、まともな返事はないのかと自分を呪いたくなる。
ハッとすると、ATMを待つ秀樹の後ろにも列ができ始めていた。慌てて二人は列から外れ、邪魔にならなさそうなスペースへ出る。
「私、2組の牧原ひかり。ごめんね、忙しいところ声かけちゃって」
「あ、いや。全然忙しくはないけど。バイト代出そうとしてただけだし」
めちゃくちゃいい匂い。
人形のようにかわいい牧原を直視できなくなって目をそらしたら、次に五感を刺激してきたのは、天国とも言えるかのようなフローラルな香りだった。
この世のものとは思えない。いったい何がこの香りを発生させているのだろう。
秀樹の脳は若干トリップしかける。
「え、バイトしてるの! なんのバイト?」
「まー……体使う系のやつだよ。っていうか、牧原さん?」
「うん?」
問いかける牧原の表情がまた胸をえぐる。
優し気な微笑をして質問を待つ彼女に向けて、今後数年お世話になる写真を撮りたい衝動にかられたが、ポケットの中の携帯に伸ばした手を気合で抑え込んだ。
「なんでオレの名前知ってんの? 帰宅部だし、特に部活とかの絡みもないよね」
「あ、それはね――」
牧原は最後まで言うことはできなかった。
銀行内に銃声がとどろいた。運動会のピストルに似ているが、あんなのよりも遥かに腹に響くような轟音。
スタッフも客も、全員が一瞬にして身を強張らせた。
「動くな! 全員床に伏せろ!」
まだ硝煙の立ち上る拳銃を振り上げながら、全身を黒で固めた男が叫んだ。
黒いジャケット、黒い帽子、真っ黒黒のサングラス。この場所にくるまでに、逆に人目を引いたに違いない。
口には黒いマスクを着けていたが、マスク越しに飛び出す怒号は、あたりの客を威圧し、従わせるには十分だった。
「さっさとしろ! 死にてえのか!」
そっくりの格好をした男がもう一人、入り口側で声を張り上げた。その人物の手にも同じく、黒光りする拳銃。
なかなか手際のよい強盗犯たちだった。銀行内のスタッフ、客ともに、数十秒後には大人しく床に伏せていた。
スタッフに金を要求する犯人たちのやりとりが響く。そんな中、牧原と秀樹は隣り合って壁際にしゃがんでいた。
「ど、どうしよ」
牧原の大きな目の端には涙がにじむ。銀行強盗という非日常にさらされ、彼女の細い肩が小刻みに震えていた。
一方の秀樹はというと、牧原の泣き顔に見とれて数秒間口をだらしなく開けていたが……
「まあ、大丈夫じゃない? もしかしたら、彼が助けに来てくれるかもね」
壁にかかっている巨大モニターをあごでしゃくった。
テレビのワイドショーがやっていた。そこに映し出されていたのは、全身銀色のコスチュームに身を包んだ人物。
火災の起こっているビルから子供を抱えて飛び出し、数メートル下のビルに軽々と着地した。
報道の内容は、『正体不明のヒーロー、再び出現』といったもの。
助け出した子供を消防士に預けると、その人物は野次馬の列を軽々とジャンプで飛び越え、姿を消した。
「あの噂になっているやつかあ……そんな都合よく来てくれるわけないでしょ」
「まあ、そっか」
少し話をしたことで落ち着いたのか、涙声が少し平常に戻ったようだった。
牧原が笑いはしなかったものの、秀樹の雑談は効果があったようだ。
二人がテレビを見ている間に、銀行員が現金をアタッシュケースに詰めたようだ。強盗犯のうちの一人が満足そうにうなずき、もう一人の仲間に目線を送る。
もう少し、あともう少しでこの苦境が終わる。
その場に居合わせた皆がそう考えていた時だった。
「一人、人質になってもらうぞ!」
空気が凍った。いや既に凍っていたはずだが、客とスタッフ双方の顔が一気に青ざめたのは明らかだった。
拳銃を持った強盗犯の人質に……そんな絶望的な状況になりたいものなどいるはずがない。特に銃社会ではない日本では、拳銃の存在だけでも十分にメンタルに『きて』しまう。
アタッシュケースを持っていないほうの強盗犯が、拳銃を上にフリフリとちらつかせながら、客たちの間を品定めして歩く。
全員が全員、少しでも印象に残らないようにと必死で目をそらし、自分が人質に選ばれないようにと懸命だった。
だがその中でも、人目を引かずにはいられない人物がいた。
「おっ、めちゃくちゃかわいいJKがいるじゃーん」
自分の頭上で聞こえてきたその声に、牧原の心臓が止まりそうになった。
すぐに手をつかまれ、立たされた。
拳銃を腰に突き付けられ、人の命を簡単に奪う凶器の感触がして、固く閉じた目の端から涙がこぼれた。
「そいつと一緒なら、このあとの旅もなかなか楽しくなりそうだな」
アタッシュケースを持った仲間が楽し気に声をかけてきた。
牧原を捕まえているほうの男も、ひひひと下卑た笑いを隠さずにうなずいた。
牧原の思考は真っ白になりかけていた。
強盗犯たちの会話が意識の端に浮かんでいたものの、あとはほとんど恐怖で満たされ、立っているだけで精いっぱいだった。
このあとの……旅って? 楽しくなりそうって?
脳内に浮かんだ疑問は、のろのろとした処理スピードの脳が答えへと導く。
警察から逃げる強盗犯たちの――おもちゃにされる運命がおぼろげにうかび、膝から崩れ落ちそうになった。
目を閉じたままの牧原も、男が歩き出して無理に手を引っ張り始めたので、転ばないようにと自然と前を見るしかなかった。
もう何も考えたくないのに。
これが夢であってくれればいいのに。
いや、夢じゃないと耐えられない。置かれた状況に対して牧原が悲鳴すら上げそうになっていた、そのときだった。
「あのー、ちょっといいですか」
牧原の背後から、少しとぼけたような声が聞こえる。
振り向くと、秀樹が立ち上がっていた。両手を上げたまま、少し腰が引けているが、目はまっすぐに犯人を見つめている。
「なんだてめえ! 勝手に動くな!」
チャキっという音を出して、拳銃の先が秀樹に向けられる。
犯人の激高に対し、秀樹は少し眉根を寄せたが、あまり怯んだ様子も見せず再び口を開く。
「女の子を誘拐して、それで……えーと、乱暴なことをするのって、お兄さんたちに余計な罪が重なっちゃうのではないかと」
「ああ?」
「なので、最低限の【お仕事】にとどめて、ここは全く乱暴する気の起こらない、ぼくなんかを旅のお供にいかかでしょうか」
秀樹はへへっと笑った。
その笑い方がいかにも無邪気で、彼を見ていた牧原の目から涙が止まってしまう。
「何言ってんだお前」
牧原に銃を突き付けていた方の犯人が、顔を真っ赤にしながら秀樹の方まで歩いていく。
そして拳銃の銃口を、秀樹の頬にねじ込むように突き付けた。
「なめてると顔面に風穴をあけてや――」
犯人のセリフが途中で止まった。
秀樹に向けられた拳銃はオートマチック。その上部のスライド部分を左手でつかみ、右手で銃口の下をつかむ。
自分の体に向かわないように銃口の向きをコントロールし、瞬時に犯人の手の甲側に拳銃を折り曲げてむしり取った。
イスラエルの格闘技、クラブ・マガの技術――ピストル・ディスアームである。
「えっ」
武装解除された犯人はあっけにとられる。
だが次の瞬間には意識が刈り取られていた。奪われた自身の拳銃のグリップで、思い切り頭を殴られたからだ。
地面に犯人が伸びたのを見下ろすと、秀樹はバナナでも捨てるかのように拳銃を床に放る。
牧原は口をあんぐりと開けていた。
秀樹の今の動き、とても数秒前まで腰が引けていた高校生とは思えない。何十回、いや、何百回と訓練を受けた軍人のような動きをしていた。
「まあ、【ここ】までは何とかね」
牧原の目を見て、ヘラっと笑う秀樹。
気のせいか――彼の左目が緑色に光っているように見える。
一言牧原が声をかけようとしたとき、一発の銃声が鳴り響き、秀樹の目が曇った。
「ぐっ……」
糸が切れた人形のように、彼は地面に倒れる。
牧原は店内のカウンターを振り返る。硝煙の立ち上る銃を握る男の姿があった。
もう一人の犯人が引き金を引いていたのだ。苛立ちにあふれたその目には、今撃ち倒した高校生に対する何の哀れみも浮かんでいない。
牧原は秀樹に目を戻すが、彼はもうピクリとも動かない。
小さな鉛の凶器が体に食い込み、命を奪ったのだろう。
「藤沢……くん」
ぺたりと床に座り込むと、今度は静かに、牧原の目のふちから一筋の涙が流れ始めた。
もう一人の犯人が近づいてきた。倒れている相棒の顔をぺしぺしと叩く。
「チッ、もう置いてくしかねえか」
どうやら気絶した方の男は目覚めなかったようで、舌打ちをしながら立ち上がる。
現金の詰まったバッグを肩にかけると、犯人は店のドアまでまっすぐに向かっていった。
もはや牧原を人質にとる気もないようだ。
「藤沢くん、藤沢くん」
床に尻もちをついたままの牧原は、秀樹に呼びかける。
それ以外にできることはないと思ったのだろうか。何とか彼が、声に応えて、目を開けてくれることを信じて。
ふと、店の外が騒がしくなったのに気付いた。
「確保おおおおっ!」
牧原がゆっくりと顔を向けると、大勢の警官が銀行の入り口に殺到しているのが見えた。
強化プラスチックか何かでできているのだろう、透明の盾を持った警官たちがいた。店から出てきた犯人に突撃し、彼をぎゅうぎゅう詰めに押し込んでいるようだ。
拳銃を一丁持ってはいるものの、おそらく防弾性の盾を持った警官たちに押しつぶされては、犯人は反撃することもできない。
「て、め、え、らあああ!」
犯人が突如、怒りもあらわに叫んだ。
男の両目が、不気味な紫色に光る。
その瞬間、多勢に無勢で押し込まれていたはずの犯人が、まるで猛獣のようなパワーを発揮。盾を持った警官たちを地面になぎ倒した。
「こいつ、この人数では抑えるには馬鹿力が過ぎる!」
「撃ちますか?」
警官たちは犯人の脅威の剛腕にたじろいだ。
何名かが腰の拳銃に手を伸ばしているのが、銀行の店内にいる牧原にもよく見えた。
警察としての最大限の実力行使に出ようとしているのだろう。その姿はどれも必死である。
盾を持った警官が一人、犯人に突撃した。すると男は盾を両手でつかむと、盾ごと警官を持ち上げ、銀行のガラス張りの壁へと投げ込んだ。
粉々にガラスが割れ、警官は盾を離して地面を滑っていく。
次に、犯人は司令官らしき警官をにらみつけた。
「やむをえない! 撃て!」
その一声で、現場にいた警官数十人が一斉に銃を構えた。
銃声が折り重なって鳴り響く。嵐と共に注ぐ雷のように。
だが犯人の身体には、既に変化が起きていた。
無数の拳銃の撃鉄が起こされる一瞬前、男の額に黒い菱形の石が浮き出ていた。それを合図にしたかのように、彼の身体が紫色の光の渦に包まれる。
そして、巨大な猫の怪獣が出現した。




