第17話 黄昏ハイボール
ある夏の夜、真輝さんが何度も寝返りを打つ気配に目を覚ました。
「眠れないの?」
寝ぼけ眼で尋ねると、暗がりの中で「うん」と小さな掠れ声がした。そっと髪を撫で、優しく「おいで」と、声をかける。
やがて俺は彼女を琥珀亭のカウンターに連れ出した。
真輝さんは少しうつむいて、自分の髪の先を撫でるように弄んでいる。琥珀色のライトに照らされた彼女の目に映っているものは、きっと過去だ。そこにはかつて彼女の中に見た、遠くに行ってしまうような憂いがひっそりと佇んでいる。いくら二人の時間を重ねても、それは影をひそめるだけ。完全に消せるものではないんだ。
俺はそれを責めることも問いただすこともなく、ただ黙って彼女からリクエストされたハイボールを作った。冬ならホット・バタード・ラムといきたいところだが、夏には熱すぎるからね。
グラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。最近、彼女はタリスカーを飲まなくなった。今夜はジャパニーズ・ウイスキーだ。
次にソーダを入れたいところだが、誰よりも彼女の好みを心得ている俺は、冷蔵庫から黄色いラベルのトニック・ウォーターを取り出した。
炭酸が抜けないように、そっと混ぜる。焦らすように、優しく。そう、まるで真輝さんが俺を見る目のようにね。
俺たちはうっすら琥珀色に染まるグラスで乾杯した。この琥珀亭に流れる時間のように、ゆったりとした穏やかな気持ちで。
そして手を重ねた。二人の体温が馴染むと、彼女の細い指から安堵が伝わってきた。
これから先も、彼女が眠れない夜が幾度となくあるだろう。だけど、そこには琥珀色の時間と酒がある。そして傍らには俺がいて、こうして手を握る。
俺たちの時間は始まったばかりだ。焦ることはない。彼女の中の時間が過去に引きずられて止まりそうなときは、俺がこうやって、じっくり動かせばいいんだ。ハイボールの氷が溶けていくように、ゆっくりと心のわだかまりを溶かしていこう。そう心に決めているんだ。
ほら、今日もまた日が傾き、辺りは黄昏に包まれる。そしてどこからか音もなく滲み出た闇が空を染めていく。
今夜も琥珀亭にはいろんな人々が集い、人生の一幕を垣間見せるだろう。一杯の酒に感情を託して、それを飲み干す。琥珀色の照明を浴びながらつかの間の主役を演じた後は、空のグラスをそっと置いて、また日常に戻っていくんだ。
それを見守る俺と真輝さんは、琥珀色の時間に身を委ねながら肩を並べている。
会いたくなったらおいで。俺たちはここにいる。
手をつないで。同じ明日を見て。今日を生きている。
今夜も琥珀亭で。